学位論文要旨



No 111308
著者(漢字) 梶井,靖
著者(英字)
著者(カナ) カジイ,ヤスシ
標題(和) 脳特異的チロシンキナーゼ遺伝子の単離と解析
標題(洋) Isolation and characterization of a gene for a putative protein tyrosine kinase specifically expressed in the brain
報告番号 111308
報告番号 甲11308
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1599号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小野寺,一清
 東京大学 教授 舘,鄰
 東京大学 教授 小川,智也
 東京大学 教授 小野寺,節
 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
内容要旨

 ヒトの脳神経系は1012もの細胞によって、極めて複雑でしかも特異的なネットワークが構成されている。その多様性、可塑性に加えて高度な情報処理機能が要求されることから、細胞間のシグナル伝達系においても他の組織以上に多数の因子がより複雑に相互作用していることが推測される。近年、細胞の分化増殖におけるチロシンキナーゼの重要な役割が明らかになりつつあり、さらに線虫、ショウジョウバエ、マウス等において、個体発生・形態形成における働きも次第に理解されはじめている。細胞同士が隣接して直接コミュニケーションを取る場合でも、また、分泌物質を介する場合でも、その対話を実現するのに重要な分子としてチロシンキナーゼが注目されている。一方、ダウン症候群は体細胞が染色体21番のトリソミーであることにその原因があり、遺伝子そのものは正常である。ダウン症の患者は顕著な精神遅滞を示し、心臓その他の組織に奇形が見られる。本研究では脳で重要な働きをするチロシンキナーゼ遺伝子を新たに同定するにあたって、この染色体21番のゲノミックライブラリーを出発材料として用いた。

Semi-Nested PCR法によるチロシンキナーゼ遺伝子断片の増幅

 ヒト線維芽細胞からソーティングして得られた染色体21番を材料として構築されたゲノミックライブラリーから効率良くチロシンキナーゼ遺伝子を単離するために、このライブラリーのDNAをテンプレートとして以下のようにPCRを行った。チロシンキナーゼにおいて保存されているサブドメインVIの配列に基づき、高度にdegenerateしたプライマー(PTK3YK)を合成した(Fig.1.)。PTK3YKの5’末端をリン酸化し、このプライマーとベクターの配列に基づくプライマー(ER)を用いてPCRを行った。増幅産物の末端を平滑化した後、テンプレートとしたゲノミックライブラリーのクローニングサイトを認議する制限酵素EcoRIで処理した。PTK3YK側が平滑末端、ER側がEcoRI切断末端となった増幅産物をディレクショナルクローニングし、得られた各クローンの塩基配列を分析することによって、チロシンキナーゼをコードするDNA断片をスクリーニングした。

 まずアニーリングの温度条件が増幅産物の泳動パターンに与える影響を検討した。増幅の特異性を決める最初の3サイクルでは比較的低温でアニーリングを行い、これに続いて厳しい条件で増幅サイクルを行った。最初の3サイクルでのアニーリング温度を50℃から5℃ずつ65℃まで変化させ、増幅産物のパターンを比較した。50℃ではl00bpから1kbにかけて多数の増幅産物のバンドが認められた。温度が上がるに従って、1kbのバンドおよび200bp付近のバンドが消失していったが、550bpのバンドは65℃でも安定であった。また、55℃まででは見られなかった400bpの増幅産物が60℃、65℃では認められた。次に、アニーリング条件が65℃のPCR増幅産物をクローン化し、その塩基配列を分析した。48クローンについてインサートDNAの長さを制限酵素処理によって調べ、4つのグループ(A、B、CおよびD)に分類し、各グループに属するクローンを2つずつ選びその塩基配列をPTK1側からのみ決定したところ、グループAに属するクローンpA1-11はプライマーの配列に用いたサブドメインVIに続いてチロシンキナーゼの保存配列を一部コードしていることが推定されたが、他の3つのグループに属するクローンからは目的とするアミノ酸モチーフのコーディングを示唆する情報は得られなかった。

 PTK3YKは高度にdegenerateしており、このために増幅の効率および特異性が悪くなっていた。そこで、より短く、中程度にdegenerateしたプライマーを新たに作製した。まず、このブライマーPTK1(Fig.1.)とベクターのアーム部分にハイブリダイズするプライマーHDを用いてゲノミックライブラリーのDNAを増幅し、次いで、この増幅産物をテンプレートとし、PTK3YKをプライマーに用いて2段階の増幅を行うsemi-nested PCRを行った。2段階目のsemi-nested primerによる増幅では、PTK1-HD増幅産物の一部が選択的に増幅されている様子が認められた。このsemi-nested PCR増幅産特をクローン化し、その塩基配列を分析した。24クローンについて調べた結果、全てのクローンが約400bpのインサートを持っていた。これら24クローンの1つであるpHA8の塩基配列を決定したところ、スプライシングの5’および3’部位のコンセンサス配列が存在し、エクソンと推定される領域がチロシンキナーゼの典型的な保存配列をコードしていることが示された。

Fig.1.Consensus sequence of protein tyrosine kinase used in derivation of PTK1 and PTK3YK oligo primers.The N represents positions where all 4 nt are present in an oligo.

 以上のように、本研究で新たに示したsemi-nested PCR法は短いアミノ酸配列を1ヶ所だけ利用して対応する遺伝子断片を単離しなければならない場合に極めて有効であり、コドンの揺らぎによるオリゴヌクレオチドのdegeneracyが高くても効率良く目的とするDNA断片を得ることができる。

脳特異的な発現を示すpHA8の解析

 pA1-11およびpHA8について、ヒトの脳、心臓、胎盤、肺、肝臓、骨格筋、腎臓、膵臓の各種臓器における発現をノーザンブロットで分析した。pA1-11はいずれの臓器でも発現が認められなかったが、pHA8は脳において特異的に発現が認められた。そこで、この脳特異的な発現を示すpHA8の解析を更に進めた。

 pHA8の配列は、ヒト線維芽細胞からソーティングされた染色体21番を材料として構築されたライブラリーに由来していることから、染色体21番上にマップされることが期待されたが、染色体21番セルパネルでは染色体21番長腕上にはマップされなかった。染色体ソーティングでは5%から10%程度他の染色体が混入することが知られており、pHA8はそれらに由来していると推定された。ヒトの全染色体に対応したハイブリッドセルパネルを用いてさらにマッピングを行ったところ、pHA8は染色体9番上の配列であることが示された。

 pHA8をプローブとしてヒト脳cDNAライブラリーをスクリーニングし、cDNAクローンを単離した。塩基配列を決定し、遺伝子構造を鱗析した結果、pHA8に見られたサブドメインVI-VIIIに加え、チロシンキナーゼの残りの全てのサブドメインがC末端側に認められたことから、この遺伝子がチロシンキナーゼをコードしていることが示された。また、膜貫通ドメインと推定される疎水性領域がキナーゼドメインのN末端側に存在しており、リセプター型であることも示された。この脳に特異的なリセプター型チロシンキナーゼ遺伝子をbyk(brain-specific tyrosine kinase)と命名した。

Bykの脳における発現様式の解析

 cDNA塩基配列より予想されるアミノ酸配列に基づいて合成したペブチドをラテックス粒子に結合させて抗原とし、ウサギを免疫してポリクローナル抗体を得た。Bykの脳における発現を免疫組織染色によって解析した結果、パラフォルムアルデヒド固定したヒト脳サンプルにおいて、大脳皮質III層の錐体細胞、海馬CA2、CA3、CA4野の錐体細胞、および海馬歯状回の顆粒細胞において染色が顕著に認められ、これらのニューロンで特異的にbykが発現していることが示された。海馬CA1野では染色がほとんど認められず、ニューロンの機能の特異性とbykの発現とが関連している可能性も示唆された。ヒトのパラフォルムアルデヒド固定サンプルは徴細構造が破壊されており、細胞内の局在性などの解析には不向きである。そこで、ラット脳サンプルを用いて免疫組織染色を行った結果、Bykが錐体細胞、顆粒細胞といったニューロンの核膜に局在していることが示された。また、グリア細胞のtuber形成が脳内に特徴的に見られる結節性硬化症(tuberous sclerosis,TSC)患者の脳切片を用いて同様の解析を行ったところ、病変部において顕著な染色が認められた。正常組織ではニューロンで発現するBykがtuberを形成したグリアで認められたことは、TSCにおけるbykの発現異常が病変のメカニズムに関連していることを示唆しており、極めて興味深い。

 以上のように、本研究において同定されたBykはニューロンで特異的に発現するリセプター型チロシンキナーゼであり、海馬や大脳皮質における高度な情報処理に関与する可能性が高い分子として注目すべきものである。また、TSCの脳tuberにおけるBykの異常発現を解析することによって、難病であるTSCの病変メカニズム解明の手掛かりが得られることも期待される。

審査要旨

 脳・中枢神経系の機能を分子生物学の立場から解明していくには,これに特異的に発現する遺伝子を単離し,その性質を明らかにすることが一つの有効な手段である。チロシンキナーゼは細胞の増殖・分化を制御する癌遺伝子/癌原遺伝子産物として同定されてきたものであるが,細胞の情報伝達に広く関与する分子としてその脳・中枢神経系における働きが近年特に注目されている。本論文は脳に特異的に発現する新しいチロシンキナーゼ遺伝子を単離し,これまでに報告のない極めてユニークな特徴を明らかにした研究成果をとりまとめたものである。

 第一章では,ゲノミックライブラリーから効率良くチロシンキナーゼ遺伝子を単離する方法を新たに確立し,semi-nested PCR法と命名している。チロシンキナーゼのサブドメインVIには保存性の高いアミノ酸モチーフが存在するが,対応するオリゴヌクレオチドは高度にdegenerateしたものになるためにPCR法のプライマーとしては不適当であり,チロシンキナーゼ遺伝子断片の増幅は満足な結果を得られなかった。そこで,短く,情報量は少ないが中程度にしかdegenerateしていないプライマーとより3’方向に長く,情報量は多いが高度にdegenerateしたプライマーを組み合わせて2段階の増幅を行うsemi-nested PCR法な新たに確立し,新しいチロシンキナーゼ遺伝子の断片であることが強く示唆されるクローンpHA8を単離した。

 第二章では,脳に特異的に発現する膜貫通型チロシンキナーゼをコードするヒト遺伝子を新たにクローニングし,bykと命名している。第一章で単離されたゲノミッククローンpHA8は脳で特異的に発現していることが確認された。そこでこのpHA8をプロープとしてヒト脳cDNAライブラリーをスクリーニングし,新しいチロシンキナーゼの全長をコードするcDNAクローンを単離した。塩基配列から推定されるアシノ酸配列から,N末端にシグナル配列,中央に膜貫通領域と考えられる疎水性領域,C末端側の領域にチロシンキナーゼドメインを持ち,N末端側の領域にはアスパラギン結合型の糖鎖付加シグナルが存在する典型的な膜貫通型チロシンキナーゼをフードしていることが示された。また,興味深い特徴として,膜貫通領域の直後に塩基性アミノ酸に富む領域が存在し,核移行シグナルとして機能する可能性が示唆される短いアミノ酸配列が存在していた。この新しいチロシンキナーゼ遺伝子をbyk(brain-specific tyrosine kinase)と命名した。

 第三章では,bykの脳における発現様式をmRNAレペルおよび蛋白レペルで解析し,ニューロンの核膜に局在する極めてユニークなチロシンキナーゼであることを明らかにすると共に,結節硬化症における解析を行い,bykが新しいニューロンのマーカーとして結節硬化症の病態解明へ向けた研究に有用であることを示している。byk遺伝子産物を特異的に認識する抗体を作成し,ヒトおよびラットの脳における発現パターンを免疫組織染色によって解析した結果,ダリア細胞では発現しておらず,大脳皮質 海馬などの錐体細胞,顆粒細胞といったニューロンに特異的に発現していることが明らかとなった。また,in situハイプリダイゼーションによる解析を行い,mRNAレベルでも同様の発現パターンが認められることな示した。さらに,これらの陽性細胞において抗体による染色は核膜に特異的であり,byk遺伝子産物がニューロンの核膜に局在していることも示された。cDNAの構造解析と合わせて,N末端領域を小胞体内腔と連続した核周辺空間に出し,C末端のチロシンキナーゼドメインを核内部へ直接向けて核内膜上に局在しているモデルが示され,byk遺伝子産物がトポロジカルに極めてユニークなものであることが明らかになった。また,結節硬化症患者の脳サンプルを解析した結果,正常組織ではニューロンに限定されているbykが病変部のアストロサイトで発現していることが確認された。これにより,代表的なアストロサイトのマーカーであるダリア線維性酸性蛋白質(GFAP)に加えて,bykが新しいニューロンのマーカーとして結節硬化症の病変メカニズムの解析に有用であることを示した。

 以上,本論文は脳に特異的に発現する新しいチロシンキナーゼ遺伝子をタローニンダして解析し,その遺伝子産物がニューロンの核膜上に局在する極めてユニークな膜貫通型チロシンキナーゼであることを明らかにすると共に,ニューロンのマーカーとして結節硬化症の解析に有用であることを示したものであり,学術上,応用上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は,本論文が博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

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