審査要旨 | | 脳・中枢神経系の機能を分子生物学の立場から解明していくには,これに特異的に発現する遺伝子を単離し,その性質を明らかにすることが一つの有効な手段である。チロシンキナーゼは細胞の増殖・分化を制御する癌遺伝子/癌原遺伝子産物として同定されてきたものであるが,細胞の情報伝達に広く関与する分子としてその脳・中枢神経系における働きが近年特に注目されている。本論文は脳に特異的に発現する新しいチロシンキナーゼ遺伝子を単離し,これまでに報告のない極めてユニークな特徴を明らかにした研究成果をとりまとめたものである。 第一章では,ゲノミックライブラリーから効率良くチロシンキナーゼ遺伝子を単離する方法を新たに確立し,semi-nested PCR法と命名している。チロシンキナーゼのサブドメインVIには保存性の高いアミノ酸モチーフが存在するが,対応するオリゴヌクレオチドは高度にdegenerateしたものになるためにPCR法のプライマーとしては不適当であり,チロシンキナーゼ遺伝子断片の増幅は満足な結果を得られなかった。そこで,短く,情報量は少ないが中程度にしかdegenerateしていないプライマーとより3’方向に長く,情報量は多いが高度にdegenerateしたプライマーを組み合わせて2段階の増幅を行うsemi-nested PCR法な新たに確立し,新しいチロシンキナーゼ遺伝子の断片であることが強く示唆されるクローンpHA8を単離した。 第二章では,脳に特異的に発現する膜貫通型チロシンキナーゼをコードするヒト遺伝子を新たにクローニングし,bykと命名している。第一章で単離されたゲノミッククローンpHA8は脳で特異的に発現していることが確認された。そこでこのpHA8をプロープとしてヒト脳cDNAライブラリーをスクリーニングし,新しいチロシンキナーゼの全長をコードするcDNAクローンを単離した。塩基配列から推定されるアシノ酸配列から,N末端にシグナル配列,中央に膜貫通領域と考えられる疎水性領域,C末端側の領域にチロシンキナーゼドメインを持ち,N末端側の領域にはアスパラギン結合型の糖鎖付加シグナルが存在する典型的な膜貫通型チロシンキナーゼをフードしていることが示された。また,興味深い特徴として,膜貫通領域の直後に塩基性アミノ酸に富む領域が存在し,核移行シグナルとして機能する可能性が示唆される短いアミノ酸配列が存在していた。この新しいチロシンキナーゼ遺伝子をbyk(brain-specific tyrosine kinase)と命名した。 第三章では,bykの脳における発現様式をmRNAレペルおよび蛋白レペルで解析し,ニューロンの核膜に局在する極めてユニークなチロシンキナーゼであることを明らかにすると共に,結節硬化症における解析を行い,bykが新しいニューロンのマーカーとして結節硬化症の病態解明へ向けた研究に有用であることを示している。byk遺伝子産物を特異的に認識する抗体を作成し,ヒトおよびラットの脳における発現パターンを免疫組織染色によって解析した結果,ダリア細胞では発現しておらず,大脳皮質 海馬などの錐体細胞,顆粒細胞といったニューロンに特異的に発現していることが明らかとなった。また,in situハイプリダイゼーションによる解析を行い,mRNAレベルでも同様の発現パターンが認められることな示した。さらに,これらの陽性細胞において抗体による染色は核膜に特異的であり,byk遺伝子産物がニューロンの核膜に局在していることも示された。cDNAの構造解析と合わせて,N末端領域を小胞体内腔と連続した核周辺空間に出し,C末端のチロシンキナーゼドメインを核内部へ直接向けて核内膜上に局在しているモデルが示され,byk遺伝子産物がトポロジカルに極めてユニークなものであることが明らかになった。また,結節硬化症患者の脳サンプルを解析した結果,正常組織ではニューロンに限定されているbykが病変部のアストロサイトで発現していることが確認された。これにより,代表的なアストロサイトのマーカーであるダリア線維性酸性蛋白質(GFAP)に加えて,bykが新しいニューロンのマーカーとして結節硬化症の病変メカニズムの解析に有用であることを示した。 以上,本論文は脳に特異的に発現する新しいチロシンキナーゼ遺伝子をタローニンダして解析し,その遺伝子産物がニューロンの核膜上に局在する極めてユニークな膜貫通型チロシンキナーゼであることを明らかにすると共に,ニューロンのマーカーとして結節硬化症の解析に有用であることを示したものであり,学術上,応用上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は,本論文が博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた。 |