学位論文要旨



No 111320
著者(漢字) 辛,璘実
著者(英字)
著者(カナ) シン,ヨンシル
標題(和) イヌジステンバーウイルス核蛋白遺伝子の分子生物学的性状に関する研究
標題(洋) Studies on Molecular Biological Properties of Nucleocapsid protein of Canine Distemper Virus
報告番号 111320
報告番号 甲11320
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第1611号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 見上,彪
 東京大学 教授 長谷川,篤彦
 東京大学 教授 高橋,英司
 東京大学 教授 大塚,治城
 東京大学 教授 小野寺,節
内容要旨 内容

 イヌジステンバーは、1761年に初めてヨーロッパに現われたと考えられ、現在一部の地域を除いた全世界で発生している。1905年にウイルスの感染症である可能性が報告され、その起源はアジアかペルーであると推測されている。その後イヌジステンバーウイルス(canine distemper virus;CDV)感染による感染症であることが明かとなり,狂犬病と同様にイヌに致死的感染をおこす感染症として知られている。1950年代に開発された弱毒化ワクチンの普及によりイヌでのジステンバー発生は激減したが、近年日本では、ワクチン接種の有無にかかわらずその発生が増加傾向にあり、関心がもたれている。またCDVは感受性動物が多く、犬科や猫科の野生動物での発生も多く報じられており問題とされている。感染動物からのウイルス分離は困難であり、培養細胞に馴化すると病原性を失うため、野外CDVの性状解析はほとんど行われていない。さらに、CDVの感染は老犬に脳炎を引き起こすことが知られており、同じモルビリウイルス亜科の麻疹ウイルス感染による亜急性硬化性全脳炎の有効な動物モデルとして期待が持たれている。また、近年ヒトの難病であるPaget’s病発症への関与が示唆され、ヒトの疾患との関連においてもCDVの研究は注目されている。本研究では、CDVの病原性を解明する一端として、CDVの増殖や細胞性免疫などにおいて重要な役割を担うと考えられている核蛋白(NP)遺伝子について分子生物学的解析を行った。本論文は以下の3章より構成されている。

第1章:RT-PCR法によるイヌ末梢血単核細胞からのCDV-NP遺伝子の検出。

 Onderstepoort株NP遺伝子の128bp、477bpをそれぞれ増幅する2組のプライマーを作製し、reversetranscription-polymerase chain reaction(RT-PCR)に用いた。各検体よりRNAを抽出し、それぞれのリバースプライマーを用いてCDV-NPのmRNAよりcDNAを合成した後、各プライマーペアーを用いてPCRを行った。PCRの反応産物は電気泳動後、エチジウムブロマイド染色と、サザンブロットハイブリダイゼーションにより解析した。まず用いたプライマーの特異性を調べるため、Onderstepoort株を含む6株のCDV実験室継代株、2株のイヌバラインフルエンザウイルス、1株のムンプスウイルスをそれぞれ接種した感染細胞よりRNAを抽出し、RT-PCRを行った。その結果、本研究に用いたプライマーは、NPのmRNAのみを特異的に増幅することが明らかとなった。つぎにRT-PCRの検出感度を調べるため、段階希釈したOnderstepoort株感染Vero細胞のRNA、および一定濃度のSPFイヌ末梢血RNAを加えたNP全長遺伝子をコードするプラズミドDNA希釈液を用いてRT-PCRを行い検出限界を推定した結果、最低200コピーのNP-DNAまたは1個のCDV感染細胞があれば、本方法によりNP遣伝子が検出可能であることが判明した。

 以上の結果よりRT-PCR法は、CDVに特異的であり、高い検出感度を持つことからイヌのCDV感染の同定に有用であると思われた。次に本法を臨床検体からのCDV-NP検出に用いるため、まずOnderstepoort株を接種したSPF犬、およびワクチン歴のないSPF犬の末梢血RNAについて同一条件下でRT-PCRを行ったところ、それぞれ陽性および陰性を示したのでその後の検索のコントロールとして用いた。CDVワクチン接種歴のある7-17カ月齢のSPFビーグル犬40頭、年齢および経歴不詳の12頭の健常な雑種犬およびCDVの弱毒化ワクチン接種犬の接種後7日、14日、21日目の末梢血を用いてワクチンウイルスのNP遺伝子の検出を試みた。40頭のビーグル犬と12頭の雑種犬の末梢血からはNP遺伝子は検出されなかった。ワクチン接種犬では、接種後7日で3頭からNP遺伝子が検出され、14-21日の間に消失した。従って、ワクチン接種後3週以上のイヌのCDV感染同定の為に本法は有効であると考えられた。

 そこで、CDV様症状を呈する臨床例32頭の末梢血単核細胞のRNAを用いてRT-PCRを行った。また同時に、末梢血単核球とB95a細胞株との混合培養法によりウイルス分離を試みた。臨床例32検体のうち、17頭の例よりNP遺伝子が認められた。PCR陽性となった犬の中和抗体価は10倍以下から1280倍までと様々であり、この内9頭には検査時より3週以前にワクチン歴があった。32頭中いずれの末梢血単核細胞からもCDVは分離されなかった。これらの結果、本RT-PCR法はウイルス分離法よりも高率にCDVを検出でき、中和抗体の上昇する以前の急性期の検体およびウイルス分離の困難な高い中和抗体を有する検体でも検出可能であることから、検出感度の高い診断法として有効であると考えられた。また、本研究より血中中和抗体が高いイヌでも末梢血細胞でNP遺伝子の転写が行われていることが明らかになった。さらに、陽性例中6検体はいずれかのプライマーペアーを用いたときにのみPCRで陽性を示したことから、野外ウイルスのNP遺伝子配列が多様である可能性が推察された。

第2章:CDV-NP遺伝子のクローニングおよびその発現。

 NP遺伝子の塩基配列の内、5’側の転写開始配列及び開始コドン前後の配列は決定されていなかった。そこで、Onderstepoort株感染Vero細胞よりRNAを抽出し、報告されているNP遺伝子の部分的塩基配列を基に終始コドンの相補配列を含むプライマーを用いて、逆転写を行った。得られだcDNAを基質として前記のプライマーおよび、ランダムプライマーでPCR後、クローニングベクターに組み込むことにより、全長1691bpの、NPのcDNAクローンが得られた。5’側の塩基配列より予想された転写開始配列はAGGGUCAAUGAであり、麻疹ウイルス及び牛疫ウイルスで保存されている配列とは異なっていた。開始コドンの位置は3種のウイルスで一致していたが、開始直後の想定されるアミノ酸配列は麻疹ウイルスと牛疫ウイルスで見られるアミノ酸配列とは異なる配列が認められた。また、N-末のアミノ酸配列に存在する疎水性ドメインは3種のウイルス間で保存されていたが、CDVのみシートの2次構造を持つことが推察された。さらに、RSV-LTRのプロモーターの下流にNP遺伝子を組み込んだ発現プラスミドをVeroまたはCOS細胞へ導入し、NPの発現を試みた。CDV-NPに対する3種のモノクローナル抗体(MAb)とOnderstepoort株感染SPFイヌ血清、および抗MV-NPウサギ血清を用いて間接蛍光抗体法(IFA)により検索した結果、細胞核内でのNPの発現が認められた。イムノブロッティングにより同定された発現NPのゲルでの移動度はCDVのそれと同様であり、算出された分子量は約65キロダルトンであった。

第3章:CDV-NPの欠損クローンの発現による抗原部位の解析。

 Onderstepoort株のNP遺伝子において、6種のフォワードプライマーおよび5種のリバースプライマーを用いてPCRを行い、11種の5’および3’側からの欠損クローン、および13種の中央欠損クローンを作製した。これらの欠損遺伝子はSRをプロモーターとして持つpME18Sベクターに押入し、COS細胞で発現させ、MAbを用いて抗原部位の同定を試みた。3’側の欠損をもつ遺伝子断片は、pME18SのpolyAシグナルの上流にある終止シグナルのフレームにあわせて挿入した。6種の5’欠損クローンについては5’末の配列にあるそれぞれのinframe initiation signalから翻訳されるようにデザインされ、これらの発現蛋白はイムノブロッティングにより解析した。その結果、すべての5’欠損蛋白が翻訳されていることが確認された。各遺伝子クローンからの発現蛋白はNPに対する3種のMAbおよび抗CDV-NPウサギ血清を用いたIFAにより検索した。その結果、MAbf-5,6H,c-5の認識するエピトープはそれぞれ1-80、300-393、393-489アミノ酸領域内のNPに存在すると考えられた。さらに3’側欠損蛋白および中央欠損蛋白の発現は核内でのみ認められ、NPの全長遺伝子の発現結果と一致したが、5’側欠損蛋白はおもに細胞質でその発現が認められた。発現蛋白が細胞質で認められた最短5’側欠損遺伝子は1-80アミノ酸領域を欠いていた。この領域のアミノ酸配列を検討したところ、今まで報告されている核局在シグナルを構成する配列は認められなかったが、その領域内の疎水性ドメインは麻疹ウイルスおよび牛疫ウイルス間でも保存されていることから機能的に重要であると思われた。この疎水性ドメインまたはアミノ基末端側を欠くことによりNPの構造に変化をもたらし、核内への輸送を妨げられると考えられる。NPの核内への輸送はウイルスゲノムと結合しコアを形成するために必須である。したがって、NPアミノ基末端側の80アミノ酸は機能的に重要であることが示唆された。

 以上の研究により、CDV感染の新しい診断法としてRT-PCR法の有用性が示された。また、NP全領域および3’末のリーダー配列が明らかとなり、その遺伝子の培養細胞での発現が確認された。さらにNPの抗原部位が同定され、核内輸送のための必須領域も明らかにされた。これらの研究成果はCDV-NPの機能や性状、さらに病原性への関与機構を明らかにするために有用であると期待される。

審査要旨

 イヌジステンバーウイルス(canine diatemper virus;CDV)は,イヌに致死的感染をおこす感染症よして知られている。弱毒化ワクチンの普及によりイヌジステンバー(CD)の発生は激減したが,CDVに対する感受性動物種が多く,犬科や猫科の野生動物での発生も多く報じられており問題とされている。本研究では,CDVの病原性を解明する一端として,CDVの増殖や細胞性免疫などにおいて重要な役割を担うと考えられている核蛋白(NP)遺伝子について分子生物学的解析を行った。本論文は以下の3章より構成されている。

 第1章において,reverse transcription-polymerase chain reaction(RT-PCR)法によるイヌ末梢血単核細胞からのCDV-NP遺伝子の検出を行った。2組のプライマーを用いたRT-PCR法により,各検体からのCDV-NP遺伝子検出を試みた。6株のCDV実験室継代株,および3株のイヌのパラミクソウイルスを用いたRT-PCRの結果,用いた2組のプライマーは,CDV-NPのmRNAのみ特異的に増幅し,最低200コピーのNP-DNAまたは1個のCDV感染細胞があれば,NP遺伝子が検出可能であることが判明した。次に,実験的にCDVの弱毒化ワクチンを接種した犬から経時的にNP遺伝子の検出を試みた結果,接種後3週以上のイヌでのCDV感染症の同定には本法が有効であると考えられた。また52頭の健常犬の末梢血からはNP遺伝子は検出されなかった。そこで,CD様症状を呈する臨床例32頭の末梢血単核細胞のRNAを用いてRT-PCRを行った。また同時に,各検体からウイルス分離を試みた。臨床例32検体のうち,17頭の例よりNP遺伝子が認められた。PCR陽性となった犬の中和抗体価は10倍以下から1280倍までと様々であり,いずれの検体からもCDVは分離されなかった。これらの結果,本RT-PCR法は中和抗体の有無に関係なくNP遺伝子が検出可能であることから,診断法として有効であると考えられた。また,血中中和抗体が高いイヌでも末梢血細胞でNP遺伝子の転写が行われていることが明らかになった。さらに,陽性例中6検体はいずれかのプライマーペアーを用いたときにのみPCRで陽性を示したことから,野外ウイルスのNP遺伝子配列が多様である可能性が推察された。

 第2章において,CDV-NP遺伝子のクローニングおよびその発現を試みた。研究開始時点ではNP遺伝子の塩基配列の内,5’側の転写開始配列及び開始コドン前後の配列は決定されていなかった。そこで,Onderstepoort株感染細胞よりRNAを抽出し,PCR後,クローニングにより,全長1691bpのNPのcDNAクローンを得た。開始コドンの位置,N末のアミノ酸配列に存在する疎水性ドメインはCDV,麻疹ウイルス(MV)及び牛疫ウイルス(RPV)で一致していたが,5’側の転写開始配列,想定されるN末のアミノ酸配列,およびN末の2次構造はMV及びRPVと異なることが推察された。さらに,NP遺伝子を組み込んだ発現ベクターをVero細胞へ導入し,NPの発現を試みた。CDV-NPに対する3種のモノクローナル抗体(MAb),抗CDV-イヌ血清,および抗MV-NPウサギ血清を用いて間接蛍光抗体法(IFA)により検索した結果,細胞核内でのNPの発現が認められた。イムノブロッティングにより同定された発現NPのゲルでの移動度はCDVのそれと同様であり,算出された分子量は約65キロダルトンであった。

 第3章において,CDV-NPの欠損クローンの発現による抗原部位の解析を行った。Onderstepoort株のNP遺伝子を用いて,11種の5’および3’側からの欠損クローン,および13種の中央欠損クローンを作製した。これらの欠損遺伝子は発現ベクターに挿入し,COS細胞で発現させ,MAbを用いて抗原部位の同定を試みた。各遺伝子クローンからの発現蛋白はNPに対する3種のMAbおよび抗CDV-NPウサギ血清を用いたIFAにより検索した。その結果,MAbf-5,6H,c-5の認識するエピトープはそれぞれ1-18,300-393,393-489アミノ酸領域内のNPに存在すると考えられた。さらに3’側欠損蛋白および中央欠損蛋白の発現は核内でのみ認められたが,5’側欠損蛋白は主に細胞質でその発現が認められた。最長5’側欠損遺伝子は1-80アミノ酸領域を欠いており,この領域のアミノ酸が構成する疎水性ドメインはMVおよびRPV間でも保存されていた。この疎水性ドメイン,またはN末端側を欠くことによりNPの構造に変化をもたらし,核内への輸送を妨げられると考えられ,NP-N末端側の80アミノ酸は機能的に重要であることが示唆された。

 以上の通り,本研究はRT-PCR法がCDV感染個体検出のための簡便で感度の高い診断法として有用であることを示すと共に,CDV-NP遺伝子の分子生物学的特性を明らかにした。これらの知見は臨床ウイルス学的に貢献するところが少なくない。よって審査員一同は申請者について博士(獣医学)の学位を授与に然るべきと判定した。

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