学位論文要旨



No 111324
著者(漢字) 川口,寧
著者(英字)
著者(カナ) カワグチ,ヤスシ
標題(和) ネコ免疫不全ウイルスの生物学的および分子生物学的研究
標題(洋) Biological and Molecular Biological Studies on Feline lmmunodeficiency Virus
報告番号 111324
報告番号 甲11324
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第1615号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 見上,彪
 東京大学 教授 長谷川,篤彦
 東京大学 教授 高橋,英司
 東京大学 教授 大塚,治城
 東京大学 教授 小野寺,節
内容要旨

 ネコ免疫不全ウイルス(Feline immunodeficiency virus;FIV)は、1986年に初めてアメリカで、エイズ様症状を呈した家ネコより分離された。その後、世界各国で抗体調査が行われ、同ウイルスが少なくとも1968年より存在し、世界各国に広まっていることが明らかになった。FIVの感染は宿主に種々の慢性難治性疾患を引き起こすことが知られており、現在大きな社会問題になっているヒト免疫不全ウイルス(HIV)によって引き起こされるエイズの有用な動物モデルとして期待がもたれている。本研究では、FIVの病原性の解明に大きく貢献すると考えられるFIVの生物学的性状および遺伝子発現制御機構に関する解析を行った。本論文は以下の8章より構成されている。

第1章:新たに樹立されたネコTリンパ芽球株化細胞(MYA-1)細胞を用いたFIV感染性粒子定量系の確立

 MYA-1細胞と間接蛍光抗体法を用いてFIV感染性粒子の定量系を確立した。従来より利用されているレトロウイルスに特有な酵素である逆転写酵素活性(RTA)測定の系と今回確立した系を比較したところ、RTAの系よりも著しく感度が良いことが示された。また、この系とRTAの系を用いて、FIV Petaluma株とTM1株の感染性を比較したところ、両株間では感染性が異なることが判明した。

第2章:ネコ脳細胞に対するFIV株間の複製能力の相違

 ネコ胎仔脳より、ネコ脳培養細胞を分離し、FIV TM1株、Petaluma株、KYO-1株を感染させた。Petaluma株では細胞変性効果(CPE)が観察され、培養上清中にRTAが検出された。KYO-1株ではCPEは観察されず、Petaluma株より遅れてRTAが検出された。TM1株ではCPEもRTAも検出されなかったが、MYA-1細胞との混合培養によりTM1株は増殖することがRTAによって明らかとなった。同様な実験をネコ腎由来CRFK細胞を用いて行ったところ、Petaluma株のみでRTAが検出された。MYA-1細胞と混合培養を行うことによってKYO-1株はRTAの検出が可能になったが、TM1株はCRFK細胞には感染しないことが判明した。以上より、FIV株間には細胞に対する複製能力や感受性といった生物学的性状の相違があることが示された。

第3章:ネコヘルペスウイルス1型(FHV-1)によるFIV long terminal repeat(LTR)の活性化

 ヒトのエイズにおいてヘルペスウイルスはエイズ発症のコファクターであると疑われている。そこで、FHV-1がFIVにどの様な影響を及ぼすかを調べるために、FIV LTRの下流にChloramphenicol acetyltransferase(CAT)を接続したプラスミドを構築し、CRFK細胞にトランスフェクトした後FHV-1を感染させ、CATアッセイを行った。その結果、FHV-1感染によりCAT活性の著しい増加が観察された。同様の結果がネコの線維芽細胞であるfcwf-4細胞においても観察された。次に、in vitroにおいてFHV-1がFIVの主要標的細胞であるTリンパ球にFIVと重感染しうるかを二重間接蛍光抗体法と電子顕微鏡にて検討したところ、同一Tリンパ球にFIVとFHV-1の抗原および粒子が検出された。以上より、FHV-1はFIVと同一Tリンパ球に感染することが可能であり、さらにFIVを活性化することが示された。このことは、FHV-1がin vivoにおいてFIVによる免疫不全様症状発症のコファクターになる可能性を示唆するだけでなく、ネコ、FIV、FHV-1の系がヒトのエイズ発症におけるヘルペスウイルスの役割をin vivoにおいて解析できる有用なモデル系になりうる可能性を示唆するものと考えられる。

第4章:ネコカリシウイルス(FCV)のネコTリンパ球での持続感染とFIVに対する影響

 FHV-1以外にFIVを活性化するネコ由来のウイルスを検索する目的で、FCVのネコTリンパ球に対する感受性とFIVに対する影響を調べた。ネコTリンパ球株化細胞であるMYA-1細胞とFL74細胞にFCVを感染させたところ、細胞死を伴いながら培養上清中のFCV力価の上昇が観察され、各細胞中にFCV抗原が検出された。ウエスタンブロット法により、FCV感染MYA-1、FL74、CRFK細胞におけるFCVカプシド蛋白の発現を比較したところそれぞれにおいて分子量にわずかな相違が観察された。また、FCV感染MYA-1、FL74細胞はFCV粒子を1カ月以上にわたって産生し続けた。以上より、FCVはネコTリンパ球に感染しさらに持続感染することが示された。第3章と同様にFCVのFIV遺伝子発現に対する影響を調べたところ、FCVはFIVのLTRを活性化しなかった。しかし、FCVがネコTリンパ球に感染することおよびin vitroでの持続感染系確立の報告は今回が初めてであり、これらの結果はFCVの病原性を解明するのに貢献するものと考えられる。

第5章:FIVの遺伝子発現を制御し、また、FHV-1による活性化に関与しているLTR内の部位の同定

 FIVの遺伝子発現を制御しているFIV LTR内の部位を同定するため、FIV LTRを5’側と3’側のそれぞれより、連続的に削ったデリーションクローンを作製し、fcwf-4細胞にトランスフェクトしCATアッセイをおこなった。その結果、転写開始部位からの相対位置で、5’側より-124まで削ったクローンにおいてはCAT活性に変化はなかったが-94まで削るとCAT活性は著しく減少し、さらに-79まで削ったクローンにおいてもCAT活性の減少が観察された。3’側からのデリーションクローンで同様な実験を行ったところ、TATA配列を削るまではCAT活性に変化は観察されなっかたがTATA配列を削るとCAT活性は激減した。-124から-94の間には、AP-1結合部位が、-94と-79の間にはC/EBP結合部位が存在していることより、FIV遺伝子発現は、AP-1、C/EBP結合部位およびTATA配列によって制御されていることが示された。次に、これらのデリーションクローンを用いて、FHV-1による活性化部位の同定を試みた。その結果、5’側より-63まで削ってもFHV-1による活性化に変化は観察されなかったが-44まで削るとFHV-1による活性化は減弱したが、弱いながらも活性化は観察された。この微弱な活性化はTATA配列を削るまで観察された。-63と-44の間にはATF結合部位が存在しているので、この結合部位とTATA配列がFHV-1による活性化に関与していることが示唆された。

第6章:FHV-1前初期(IE)遺伝子の同定と性状解析

 HIVを活性化するヒトヘルペスウイルスの遺伝子産物は、IE遺伝子産物であるので、FHV-1のIE遺伝子の同定を試み、その遺伝子産物のFIV LTRに対する影響を調べた。FHV-1ゲノムの倒置反復配列内約6.2kbpの塩基配列を決定したところ、1388アミノ酸をコードすると考えられるオープンリーディングフレーム(ORF)の存在が観察された。予想されるアミノ酸配列は、ヒト単純ヘルペスウイルス1型(HSV-1)のIE蛋白であるICP4と高い相同性がみられた。シクロヘキシミドで処理したFHV-1感染細胞よりmRNAを抽出し、ノーザンブロット解析を行ったところ、塩基配列を決定した部位に存在するORF内の断片をプローブに用いると約5.4kbのmRNAが1本検出された。また、FHV-1全ゲノムをプローブに用いても同様なバンドが1本検出された。以上より、塩基配列を決定したORFはHSV-1のICP4ホモローグをコードするIE遺伝子であり、FHV-1はオーエスキー病ウイルス(PRV)、ウマヘルペスウイルス1型(EHV-1)同様に1つのIE遺伝子を有していることが示された。次に、FHV-1 IE遺伝子産物の性状解析とFIV LTRに対する影響を調べるために、FHV-1 IE遺伝子をラウスザルコーマウイルス(RSV)LTRでドライブする発現ベクターを構築し、種々のリポータープラスミドを用いてCATアッセイを行った。その結果、FHV-1 IE遺伝子産物は、FHV-1 TK、PRV ICP4、EHV-1 ICP4プロモーター、HIV LTRを活性化することよりトランス活性化能を有していることが示された。一方、FHV-1 IE遺伝子産物は、CRFK、fcwf-4細胞においてはFIV LTRを活性化しなかったがヒト結腸ガン由来SW480細胞においてはFIV LTRを活性化した。以上より、FHV-1 IE遺伝子産物はトランス活性化能を有しているが、FIV LTRに対する活性化能は、細胞種に依存することが示唆された。

第7章:アルファヘルペスウイルスICP4によるFIV遺伝子発現および複製の抑制

 アルファヘルペスウイルスのICP4ホモローグはアルファヘルペスウイルス遺伝子発現制御の中心的役割を果たすだけでなく、simian virus 40(SV40)初期プロモーターに代表されるHeterologousなプロモーターを活性化することが知られている。そこで、このアルファヘルペスウイルスICP4ホモローグのFIV遺伝子発現に対する影響を調べるために、PRV、HSV-1、EHV-1の各ICP40RFをRSV LTRでドライブする発現ベクターを構築し、CATアッセイを行った。その結果、各ICP4ホモローグはCRFK細胞においてFIVの遺伝子発現を著しく抑制した。この抑制はHIV LTRおよびヒトサイトメガロウイルスIEプロモーターでは観察されなかったので、FIV LTR特異的だと考えられた。また、同様な結果がfcwf-4細胞においても観察された。次に、各ICP4ホモローグのFIV複製に対する影響を調べるため、PRVおよびEHV-1 ICP4ホモローグの発現ベクターとFIV感染性遺伝子クローンをCRFK細胞にコトランスフェクトし、上清中のRTAを測定した。その結果、各ICP4ホモローグはFIVの複製をも著しく抑制することが判明した。FIVとは全く関連のないウイルス制御蛋白がFIVの複製を抑制するという現象は、抗FIV治療の基礎研究に寄与するものと考えられた。

第8章:FIV LTR内のC/EBP結合部位はウイルスの効率的な複製に重要な役割を果たしているだけでなくPRV ICP4によるFIV遺伝子発現抑制にも関与している

 FIV C/EBP結合部位のFIV複製に対する役割を調べるためにFIV感染性遺伝子クローンのC/EBP結合部を欠損させたミュータントを作製し、CRFK、MYA-1細胞にトランスフェクトし上清中のRTAを測定したところ、C/EBP結合部位を欠損させると複製能力が著しく低下した。また、FIVのC/EBP結合部位をHIV LTRおよびエンハンサー領域を欠損させたSV40初期プロモーターに導入し、CATアッセイを行ったところCAT活性の上昇が観察された。以上より、C/EBP結合部位は、単独でエンハンサー活性を有し、かつ、FIVの複製に重要な役割を果たしていることが示された。さらに、CRFK、MYA-1細胞核抽出液とFIV C/EBP結合部位のオリゴヌクレオチドを用いて、ゲルシフトアッセイを行ったところ、MYA-1細胞では1本のバンドが検出されたのに対し、CRFK細胞では同様のバンドの他に移動度の異なるもう1本のバンドが検出された。このことは、C/EBP結合部位に実際に転写因子が結合し、その種類が1種類以上であるこを示唆している。次に、PRV ICP4によるFIV遺伝子発現抑制に関与しているLTR内の部位を同定するため、AP-1、C/EBP、ATF結合部位それぞれに部位特異的欠損を導入し、PRV ICP4発現ベクターを用いてCATアッセイを行ったところ、C/EBP結合部位を欠損させたときのみPRV ICP4による抑制が解除された。また、HIV LTRおよびSV40初期プロモーターに、FIV C/EBP結合部位を導入するとPRV ICP4による抑制効果が観察されるようになった。以上より、PRV ICP4による抑制は、C/EBP結合部位を介して起こっていることが示された。このことは、C/EBP結合部位は、遺伝子発現、複製に正の役割を果たすだけでなく、PRV ICP4による抑制という負の制御にも関与している多様性を有する部位であることを示唆している。

審査要旨

 ネコ免疫不全ウイルス(Feline immunodeficiency virus;FIV)感染症は,ヒト免疫不全ウイルス(HIV)によって引き起こされるエイズの有用な動物モデルとして期待がもたれている。本研究では,FIVの病原性の解明に大きく貢献すると考えられるFIVの生物学的性状および遺伝子発現制御機構に関する解析を行った。本論文は以下の8章より構成されている。

 第1章においてネコTリンパ球株化細胞であるMYA-1細胞と間接蛍光抗体法を用いて感度のよいFIV感染性粒子の定量系を確立した。また,この系を用いて,FIV Petaluma株とTM1株の感染性を比較したところ,両株間では感染性が異なることが判明した。

 第2章において,ネコ胎仔脳より,ネコ脳培養細胞を分離し,この細胞とネコ腎由来CRFK細胞にそれぞれFIV TM1株,Petaluma株,KYO-1株を感染させたところ,細胞変性効果,ウイルスの複製能力,感受性に相違がみられ,FIV株間には生物学的性状の相違があることが明らかになった。

 第3章においてネコヘルペスウイルス1型(FHV-1)がFIV LTRにどの様な影響を及ぼすかを調べるために,CRFK細胞およびネコの線維芽細胞であるfewf-4細胞にてCATアッセイを行ったところ,FHV-1感染によりFIV LTRが活性化されることが判明した。次に,in vitroにおいてFHV-1がFIVの主要標的細胞であるTリンパ球にFIVと重感染しうるかを二重間接蛍光抗体法と電子顕微鏡にて検討したところ,同一Tリンパ球にFIVとFHV-1の抗原および粒子が検出された。以上より,FHV-1はFIVと同一Tリンパ球に感染することが可能であり,さらにFIVを活性化することが示された。

 第4章においてネコカリシウイルス(FCV)のネコTリンパ球に対する感受性とFIVに対する影響を調べたところ,FCVはネコTリンパ球に感染しさらに持続感染することが示された。また,ウエスタンブロット法により,細胞種によってFCVカブシド蛋白の発現にわずかな相違があることが判明した。しかし,第3章と同様にFCVのFIV遺伝子発現に対する影響を調べたところ,FCVはFIVのLTRを活性化しなかった。

 第5章においてFIVの遺伝子発現を制御しているFIV LTR内の部位とFHV-1による活性化部位を同定するため,FIV LTRのデリーションミュータントを作製し,fcwf-4細胞にてCATアッセイを行った。その結果,FIV遺伝子発現に重要な部位として転写開始部位からの相対位置でAP-1結合部位を含む-124から-94,C/EBP結合部位を含む-94から-79,TATA配列を含む-32から-23の部位を固定し,さらにFHV-1による活性化に関与する部位として,ATF結合部位を含む-63から-44の部位,TATA配列を含む-32から-21の部位を同定した。以上よりFIV遺伝子発現およびFHV-1による活性化には,これらの配列が関与していることが示唆された。

 第6章においてFHV-1の前初期(IE)遺伝子を同定し,その遺伝子産物のFIVLTRに対する影響を調べた。FHV-1 IE遺伝子はヒト単純ヘルペスウイルス1型(HSV-1)のIE蛋白であるICP4と高い相同性がみられる1388アミノ酸をコードしていた。また,このFHV-1 IE遺伝子の発現ベクターを構築し,CRFK細胞にてCATアッセイを行ったところ,FHV-IE遺伝子産物は,様々なHomologousおよびHeterologousなプロモーターを活性化することよりトランス活性化能を有していることが明らかになった。一方,FHV-1 IE遺伝子産物は,CRFK細胞やfcwf-4細胞においてはFIV LTRを活性化しなかったがヒト結腸ガン由来SW480細胞においてはFIV LTRを活性化したことより,FHV-1IE遺伝子産物のFIV LTRに対する活性化能は,細胞種に依存することが示唆された。

 第7章においてオーエスキー病ウイルス(PRV),HSV-1,ウマヘルペスウイルス1型のICP4ホモローグがFIV遺伝子発現および複製に及ぼす影響を調べるために,各ICP4発現ベクター構築し,CATアッセイを行い,ウイルス複製を逆転写酵素活性を指標に調べた。その結果,各ICP4ホモローグはFIVの遺伝子発現および複製を著しく抑制することが判明した。

 第8章においてFIV C/EBP結合部位のFIV複製に対する役割を調べたところ,CRFK細胞,MYA-1細胞において,C/EBP結合部位を欠損させると複製能力が著しく低下した。また,CATアッセイにて,C/EBP結合部位は,単独でエンハンサー活性を有することが明らかになった。さらに,CRFK細胞,MYA-1細胞核抽出液を用いて,ゲルシフトアッセイを行ったところ,C/EBP結合部位に実際に転写因子が結合し,その種類が1種類以上であることが判明した。次に,PRV ICP4によるFIV遺伝子発現抑制に関与しているLTR内の部位の同定を試みた。その結果,C/EBP結合部位を欠損させるとPRV ICP4による抑制が解除され,また,HIV LTRおよびSV40初期プロモーターに,FIV C/EBP結合部位を導入するとPRV ICP4による抑制効果が観察されるようになった。このことよりPRV ICP4による負の抑制は,FIVの遺伝子発現,複製を正に制御しているC/EBP結合部位を介して起こっていることが示された。

 以上の通り,本研究はFIVの生物学的性状および遺伝子発現制御機構に関する解析を行い多くの新知見をもたらした。また,本研究で得られた各種の遺伝子変異株,遺伝子クローンは,FIV研究において必要不可欠なものであり,学術上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は,申請者に対して博士(獣医学)の学位を授与して然るべきと判断した。

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