学位論文要旨



No 111338
著者(漢字) 吉田,松生
著者(英字)
著者(カナ) ヨシダ,ショウセイ
標題(和) 筋細胞の増殖と分化を制御する細胞内外機構の解析 : リゾフォスファチヂン酸と線維芽細胞増殖因子の作用
標題(洋) Analysis of Extra-and Intracellular Mechanisms Controlling Muscle Cell Growth and Differentiation : Roles of Lysophoshatidic Acid and Fibroblast Growth Factor
報告番号 111338
報告番号 甲11338
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第992号
研究科 医学系研究科
専攻 第二基礎医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 黒木,登志夫
 東京大学 教授 竹縄,忠臣
 東京大学 教授 澁谷,正史
 東京大学 助教授 永井,良三
 東京大学 助教授 多久和,陽
内容要旨 背景

 細胞の増殖と分化は多細胞生物における重要な現象であり、両者の制御機構を解明することは生物学的に重大な課題である。私は、本研究において筋細胞をモデル系としてこの問題にアプローチすることを試みた。

 筋細胞は、以下の点で増殖と分化の制御を検討するために最も適した系のひとつである。

 1。未分化な筋芽細胞がin vitroで培養できる(cell lineが存在する)。

 2。培地の組成によりその増殖と分化を制御することができる。

 3。分化の中心的役割を担う細胞内因子が分離されその性質が解析されている(MyoDファミリーの一群のbasic-helix loop helixタンパク質群)。

 細胞外環境については、高濃度の血清あるいは線維芽細胞増殖因子(fibroblast growth factor/FGF)、特に塩基性FGF(bFGF)が、増殖促進、分化抑制に作用することが知られている。bFGFを用いて、その細胞内機構(MyoDファミリーを標的とする)が検討されてきたが、未だ数多くの不明な点が残されている。その原因としては、筋芽細胞の生理的な増殖促進、分化抑制はbFGFだけでは説明がつかず、他の因子が関与することが挙げられる。特に、血清中の筋芽細胞増殖促進、分化抑制活性は百日咳毒素で抑制されることからGi蛋白質を介する細胞内機構の関与が考えられているが、単独でこの経路を活性化して筋細胞の増殖と分化を制御する因子は知られておらず、その解析はほとんどなされていなかった。

 私は、無血清条件下でマウス筋芽細胞株C2C12細胞を分化させる系を用いてbFGF以外の制御因子を検索し、血清中に含まれる生理活性脂質であるリゾフォスファチジン酸(LPA)が筋芽細胞に対して増殖促進、分化抑制的に作用することを見いだした。さらに検討を加えた結果、LPAの増殖促進、分化抑制機構はbFGFのそれと多くの点で異なることを明らかにした。この研究における最も重要な点は、LPAを新たな筋細胞制御因子として同定したことに加え、筋細胞の増殖分化の新しい細胞内機構の存在を確認し、その解析を可能にしたことである。さらに、線維芽細胞の増殖促進において差異の認められていなかったGタンパク質を介するLPAと、チロシンキナーゼを介するFGFの生物学的意味の違いを見いだした点が意義深いと考える。

結果および考察LPAによるC2C12筋芽細胞の増殖促進と分化抑制

 マウス樹立筋芽細胞株C2C12は、高濃度の血清を含む培養条件下では未分化状態を保って増殖するが、血清濃度が低下すると細胞融合を伴う最終分化を起こし多核の筋管細胞を形成する。私は、C2C12の増殖分化を制御する因子を検索するため、Insulin,Transferrinを含む無血清条件化でC2C12を分化誘導する系を用いた。その結果、無血清分化誘導培地にリゾフォスファチジン酸(LPA)を加えることにより、bFGFと同様、C2C12細胞の増殖が促進され(細胞数の増加およびBrdUの取り込みの上昇)、同時に分化が抑制される(分化マーカーの発現ならびに多核筋管細胞の形成の抑制)ことを見いだした。これらの作用はいずれも数Mの濃度で引き起こされ、以前より報告のあった線維芽細胞の増殖促進能とほぼ同様の濃度で作用した。更にLPAと構造的に類似している種々の脂質は同様の活性を示さないことから、これらの作用がLPAにより特異的にもたらされていることが明かとなった。LPAは血小板により産生され生体内に広く分布し、種々の細胞系で幅広い生理活性を持つことが知られているが、細胞分化を制御する例としては始めての知見であり、LPAの生物学的役割を考える上でも興味深い。

LPAの作用はGiタンパク質を介している

 LPAの作用は他の細胞ではGiタンパク質を介するものと介さないものに大別される。百日咳毒素を用いて検討したところ、C2C12細胞の増殖促進分化抑制活性は百日咳毒素で阻害され、Giタンパク質を介するとわかった。一方、bFGFの活性は阻害されず、Giの関与は否定された。LPAは血清中に数M存在することも考え合わせると、LPAは、血清中のGiタンパク質を介するC2C12の増殖分化制御活性の少なくとも一部を担っていると考えられた。thrombinがGiを介する分化抑制因子であるという報告があるが、詳細な解析はなされておらず、LPAを新しく同定したことにより、このGiを介する増殖分化制御機構の解析が進むことが期待された。

LPAとbFGFは相乗的に作用する

 LPAとbFGFそれぞれ十分量を共存させるとその増殖促進能および分化抑制能に相乗効果が認められた。このことは、LPAとbFGFが異なった細胞内機構を用いて作用していることを強く示唆する。

LPAとbFGFはMyoDファミリーの筋分化因子に対して異なった制御活性を持つ

 筋細胞の分化は、MyoDファミリーの一群のbasic helix-loop-helixタンパク質によって担われていることが明らかになっている。MyoDファミリーはMyoD,myogenin,myf-5,MRF-4の4種のタンパク質よりなる。MyoDおよびmyf-5が増殖期の筋芽細胞で発現し筋細胞系譜の維持に働いているのに対し、myogeninは筋芽細胞が増殖を停止し最終分化を起こす際に発現し、最終分化の実現に必須であることが明かとなっている。

 LPA,bFGFあるいは血清といった因子の分化抑制作用はこれらMyoDファミリーの因子を標的にしている可能性が高いため、MyoD,myf-5,およびmyogeninの発現を解析した(MRF-4はこの系では検出限界以下であった)。その結果、以下のような興味深い結果を得な。

 1。LPAあるいは血清がMyoDの発現を維持しつつ筋芽細胞の増殖を維持しているのに対して、bFGFはMyoD自身の発現を抑制していることが明らかになった。この時タンパク質と共にmRNAも減少し、転写レベルでの制御を受けていることがわかった。

 2。myf-5に関しては、MyoDとは対照的に,LPA,bFGF共にそのmRNA発現に大きな影響を与えないことがわかった。

 3。いずれの場合もmyogeninの発現はmRNA,タンパク質共に抑制されていた。

 以上のように、LPA(または血清)はbFGFとは異なる細胞内機序により筋芽細胞の分化を制御していることが明かとなった。MyoDファミリーの因子の発現が異なる増殖因子により異なる制御を受けていることは筋細胞の発生、分化を考えるうえで重要な示唆を含むと考えている。同時に、他の細胞系では明かとはならなかったチロシンキナーゼ系とG蛋白質系の増殖刺激シグナルの作用点の差異を明確にした点でも重要である。

LPAとbFGFの増殖促進、分化抑制活性は、細胞密度の増加に対して異なった感受性を示す

 MyoDファミリーの発現パターンに加えて、LPAとbFGFによる増殖促進分化抑制活性には細胞レベルでの明確な差異が認められた。C2C12筋芽細胞をLPA,bFGFまたは血清の存在下で長期間(5日)培養すると、細胞は培養器内でコンフルエントに達する。この間に、LPAまたは血清で培養した場合は分化が誘導され、myogeninと共に最終分化のマーカーが発現し筋管を形成する。これに対して、bFGFで培養した場合は分化は強力に抑制され、筋管細胞はほとんど形成されなかった(このbFGFの効果はLPAとの共存により増強された)。このときはmyogeninのみならずMyoDの発現も抑制されたままであり、bFGFの作用は細胞同志の接触よりも優位であると考えられた。

まとめおよび展望

 私は、本研究において、LPAを新たな筋芽細胞増殖促進、分化抑制因子として同定し、その作用がGiタンパク質を介することを示した。更に、分化のマスター遺伝子であるMyoDファミリーがLPAとbFGFに代表される複数の増殖因子により、異なった制御を受けるという興味深い事実が朝らかになった。この系は、さらに詳細な細胞内機構の解析を可能にするものとして重要である。

 本研究で明らかになった、異種の増殖因子に対する筋芽細胞の細胞応答の差異は個体内の筋形成に興味深い示唆を与える。すなわち、発生の初期に筋芽細胞の数を増加させる必要のある時期には、FGFまたは同様の因子が周囲の環境による分化誘導シグナルの有無にかかわらず未分化状態を保持しつつ増殖させることが要求される。一方後期には、最終的に筋肉を形成する空間を満たした後に最終分化を完了する必要があり、この際にはLPA型のシグナルが有効であるように思われる。このような増殖因子の使い分けは今後検証していきたい興味深い課題である。

 この系から得られる知見は、筋肉系にとどまらず、広く増殖分化一般に共通の機構を含んでいるものと信じる。

審査要旨

 本研究は、多細胞生物の発生において重要な細胞の増殖と分化の制御を検討するために、筋細胞を用いてその増殖と分化を制御する細胞外因子の探索とその細胞内機構を解析し、下記の結果を得ている。

 1.マウス樹立筋芽細胞株C2C12の増殖分化を制御する細胞外因子を無血清分化誘導条件下で検索した結果、リゾフォスファチジン酸(LPA)が、bFGFと同様、C2C12細胞に対し増殖促進・分化抑制的に作用することを見いだした。これらの作用はいずれも数Mの濃度で引き起こされ、以前より報告のあった線維芽細胞の増殖促進能とほぼ同様の濃度で作用した。更にLPAと構造的に類似している種々のリン脂質は同様の活性を示さないことから、これらの作用がLPAにより特異的にもたらされていることが明かとなった。

 2.LPAのC2C12細胞に対する増殖促進・分化抑制活性は共に百日咳毒素により阻害され、Giタンパク質を介することが明かとなった。一方、bFGFの活性は阻害されず、Giの関与は否定された。LPAを新しく同定したことにより、その存在は示唆されていたものの解析のなされていなかったGiを介する増殖分化制御機構の解析が可能となった。また、LPAとbFGFそれぞれ十分量共存させるとその増殖促進能および分化抑制能に相乗効果が認められ、LPAとbFGFが異なった細胞内機構を用いて作用していることが示唆された。

 3.LPAとbFGFの、筋分化において中心的な役割を演ずるMyoDファミリーの筋分化因子(MyoD,myogenin,Myf-5,MRF-4)に対する制御を検討した結果、LPAとbFGFが以下のようにMyoDファミリーの筋分化因子に対して異なった制御を行っていることが明かとなった。(1)LPAがMyoDの発現を維持しつつ筋芽細胞の増殖を維持しているのに対して、bFGFはMyoD自身の発現を抑制していた。この時タンパク質、mRNA共に減少し、転写レベルでの制御を受けていた。(2)MyoDとは対照的に,LPA,bFGF共にmyf-5のmRNA発現には大きな影響を与えていなかった。(3)LPA,bFGF共にmyogeninの発現はmRNA,蛋白質レベル共に抑制していた。(MRF-4はこの系では検出限界以下であった。)

 4.LPAとbFGFによる増殖促進・分化抑制活性には細胞レベルでも明確な差異が認められた。C2C12筋芽細胞をLPA,bFGFまたは血清の存在下で長期間(5日)培養しコンフルエントに達すると、LPAで培養した場合は分化が誘導され、myogeninと共に最終分化のマーカーが発現し筋管を形成した。これに対して、bFGFで培養した場合は分化は強力に抑制され、筋管細胞はほとんど形成されなかった(このbFGFの効果はLPAとの共存により増強された)。このときはmyogeninのみならずMyoDの発現も抑制されたままであり、bFGFの作用は細胞同志の接触よりも優位であると考えられた。

 5.以上のbFGFと異なるLPAの性質は、基本的に血清と共通であり、LPAが血清中に1-5M含まれていることを考慮すると、血清の筋芽細胞に対する増殖促進・分化抑性能の多くをLPAが担っている可能性が示された。

 以上のように、本論文はLPAを新たな筋芽細胞増殖促進、分化抑制因子として同定し、LPAがbFGFとは異なる細胞内機序により筋芽細胞の増殖と分化を制御していることを明かにした。本研究は筋細胞の増殖と分化の制御を検討するうえで重要な知見を与えるものであり、また、他の細胞系では明かとはならなかったチロシンキナーゼ系とG蛋白質系の増殖刺激シグナルの作用点の差異を明確にした点でもその意義は大きいと考えられる。以上のことから、本研究は学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク