学位論文要旨



No 111342
著者(漢字) 小泉,恵太
著者(英字)
著者(カナ) コイズミ,ケイタ
標題(和) ショウジョウバエの幼虫期神経発生に関与するno optic lobes遺伝子座の解析
標題(洋)
報告番号 111342
報告番号 甲11342
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第996号
研究科 医学系研究科
専攻 第二基礎医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 芳賀,達也
 東京大学 教授 高橋,国太郎
 東京大学 教授 廣澤,一成
 東京大学 教授 高橋,智幸
 東京大学 講師 Saffen David Wayne
内容要旨 [序章]

 ショウジョウバエの神経発生は時間的に大きく二期に分けることができる。第一期は胚期神経発生により幼虫期の神経系が構築される過程で、第二期は幼虫期以降の神経発生により成虫期の神経系が構築される過程である。幼虫期以降の神経発生は、神経芽細胞の増殖により神経細胞が産生される幼虫期、神経細胞が軸索を伸長し成虫型の神経系を構築する蛹期に大別される。このうち、幼虫期、特に幼虫中期までは主に神経芽細胞の増殖のみが見られ、ショウジョウバエの神経発生過程の中でも特異的な時期と言える。

 幼虫期の神経芽細胞は、一部の例外を除き一旦増殖能を失った胚期の神経芽細胞が再分化するものと考えられている。これらの神経芽細胞が増殖を開始する時期、場所は厳密に制御されているはずである。また、それぞれの神経芽細胞がどれだけの神経細胞を生ずるかも厳密に制御されているはずである。さらに生じた神経細胞は未成熟な状態で維持され、それぞれが特定の時期に正確に分化を始めなければならない。これらの一連の過程がいかにして行われるかについては非常に興味深い問題であるが、これまでのところ全く解析が進んでいない。

 我々は、この幼虫期神経発生機構について突然変異を利用した解析を進めている。本論文では、幼虫期神経発生特異的に顕著な異常が見られる突然変異no optic lobesの解析について述べる。

[結果]A.突然変異のスクリーニング

 我々の研究室では幼虫期の神経芽細胞でlacZの発現が見られるエンハンサートラップ系統Fz13(第二染色体上にP因子挿入変異を持つ)が得られている。そこで我々はこのFz13系統でのlacZの発現を指標として、幼虫期神経発生に異常を持つ突然変異のスクリーニングを行おうと考えた。すなわち、まず、P因子を用いて突然変異を作成する。次に、交配によって、Fz13由来のP因子を第二染色体上に持ち、第三染色体上に作成したP因子挿入変異を持つような系統、A系統を作成する(図参照)。そして、それぞれの系統から生まれた個体の三令幼虫期中枢神経系をXgal染色することにより、lacZの発現パターンに異常を示す系統をスクリーニングした。

図.A系統の遺伝子型

 こうして約700系統を調べた結果、我々は幼虫期-蛹期致死突然変異A9-Fz13系統を得ることができた。この系統ではFz13ヘテロ/A9ホモ接合体で幼虫期の脳が非常に小さく、脳でlacZの発現する細胞が顕著に減少している。腹部神経節では、神経芽細胞がほとんど見られない腹部神経分節で、lacZの発現する細胞の分布が見られる。一方、神経系以外の組織ではこのような顕著な異常は観察されない。蛹後期まで発生が進んだ個体は外形的には顕著な異常が観察されないが、成虫型の脳形成が見られず、特に、optic lobeが全く観察されない。我々はこのような表現型から、新たなP因子の挿入を受けた遺伝子座を今後no optic lobes(nol)遺伝子座と呼ぶことにした。

B.幼虫期神経芽細胞に見られる表現型

 我々は、nolにおける幼虫期神経芽細胞の異常をより詳しく解析するため、BrdU(チミヂンのアナログ 増殖中の細胞とその娘細胞を標識できる)を用いた解析を行うことにした。

 ショウジョウバエの神経芽細胞のほとんどのものは胚期に増殖を行った後、一旦増殖を停止し、一令幼虫期から二令幼虫期に再度分化し増殖を再開する。例外的に脳の左右5対の神経芽細胞は胚期から幼虫期にかけて増殖を継続していることが知られる。

 孵化直後の幼虫では、顕著な異常は観察されず、nolでも5対の神経芽細胞がほぼ正常に増殖していることが明らかとなった。。ところが、幼虫期神経芽細胞の再分化が始まる一令幼虫中期以降になっても、nolでは再分化が全く起きていないことがわかった。さらに、二令幼虫期以降になると、位置的に神経芽細胞ではないと考えられる細胞でBrdUの取り込みが見られ、これらの細胞はほとんど分裂をせずにDNA合成のみを繰り返していることが示唆された。また、nolで増殖を続けていた5対の神経芽細胞も二令幼虫期までは分裂を続けるが三令幼虫期には分裂を停止していた。なお、胚期には顕著な異常が観察されなかった。

 以上の結果から、nolでは幼虫期神経芽細胞の分化が起こらず幼虫期にほとんど神経芽細胞が産生されないこと、また、本来DNA合成を行わない神経芽細胞以外の細胞でDNA合成が行われていることから、これらの細胞の分化にも異常をきたすことが明らかとなった。

C.nol遺伝子座の分子生物学的解析

 nol遺伝子産物の機能を分子生物学的に明らかにするため、我々はこの遺伝子のクローニングを試みた。

 まず、P因子をプローブとしてゲノムDNAクローンをスクリーニングし、これをもとにP因子挿入位置近傍の分子生物学的地図を作成した。次に、この領域のゲノムDNAをプローブとしてノーザンブロッテイングを行い、この領域から幼虫期に転写される3つの転写単位、transcript A、B、Cを同定することができた。さらに野生型、nolホモ接合体のmRNAを用いたノーザンブットを行った結果、transcript Aだけはnolホモ接合体で発現量の顕著が減少していることが明らかとなった。

 このことから、transcriptAがnolであることが示唆されたため、これをプローブとしてcDNAライブラリーのスクリーニングを行った。さらに得られたクローンをもとにtranscript Aの塩基配列を決定し、これからtranscript Aの遺伝子産物を推定した。この結果transcript Aは約650bpの塩基からなり、シグナルペプチドを持つ130アミノ酸のポリペプチドを翻訳していると推定された。また、このアミノ酸配列中にはセリン、トレオニン、プロリンからなる繰り返し配列が見られ(ムチン様領域)、この領域に多数の0-結合型の糖鎖が結合していると推定された。また、このtranscript Aをプローブとしてin situハイブリダイゼーションを行ったところ、この転写単位は中枢神経系、成虫原基、唾腺など様々な組織で発現していることが明らかとなった。

[考察]A.nol幼虫期神経芽細胞の再分化、増殖に必要である。

 nolでは幼虫期に再分化するはずの神経芽細胞で増殖が始まらず、一方で胚期から増殖を続けている神経芽細胞は、二令幼虫期までは分裂を継続していることが明らかとなった。このことから、nolの遺伝子産物はcyclin、cdcキナーゼのような細胞増殖に直接関与する分子というよりも、むしろ、神経芽細胞の分化に関与する分子であると考えられる。

 一方で、胚期から増殖を続けている神経芽細胞も三令幼虫期までに増殖を停止してしまう。このことから、nolは神経芽細胞の増殖維持にも必要であると考えられる。

B.nolは神経系の他の細胞の分化維持にも必要である。

 nolでは神経芽細胞で増殖が行われていない一方で、神経芽細胞以外の細胞で、すなわち神経、グリア細胞でDNA合成が行われていることが示唆された。このことから、nolはこれらの細胞の分化維持にも必要であるものと考えられる。

C.nolは分泌性の糖タンパク質をコードしているらしい。

 ノーザンブロットの結果から、少なくともtranscript A、B、Cの中ではtranscript Aがnolである可能性が高いことが示唆された。また、塩基配列から、この転写単位からはムチン様の領域を持つ分泌性のタンパク質が翻訳されると推定された。

 ムチン様領域は、o-結合型の糖鎖が多数結合している領域であり、癌化した細胞から分泌されるある種の糖タンパク質中に見られることが良く知られている。この様な糖タンパク質の過剰な発現は細胞接着や細胞間隙での分子間相互作用を阻害するものと考えられている。このことから、transcript A産物も細胞接着や分子間相互作用に関与していることが推測される。これはnol突然変異の表現型、すなわち中枢神経系細胞の分化異常を良く説明しており、transcript Aはnol遺伝子であると考えられる。

審査要旨

 本研究はショウジョウバエの幼虫期神経発生機構の解明のため、P因子を用いた突然変異体の作成をおこない、表現型の解析及び突然変異遺伝子の分子生物学的解析をおこなったものであり、下記の結果を得ている。

 1.幼虫期神経芽細胞でlacZの発現が見られるエンハンサートラップ系統Fz13をマーカーとして用い、そのlacZの発現に異常を示すP因子挿入突然変異体をスクリーニングした。この結果、約700系統の中から幼虫期/蛹期劣勢致死突然変異A9-Fz13系統を得た。この系統は幼虫期以降の神経系に顕著な異常を示し、特に成虫型神経系に見られるoptic lobeが全く形成されていないことがわかった。この系統では未同定の遺伝子座にP因子挿入突然変異が導入されたことがで明らかとなったため、上記の表現型よりこの遺伝子座をno optic lobes(nol)と名付けた。

 2.ショウジョウバエの神経細胞を特異的に認識する抗HRP抗体を用いて、nolの中枢神経系を観察した結果、胚期の神経発生には顕著な異常が見られず幼虫期以降の神経発生に特異的に異常を示すことが明らかとなった。

 また、BrdU(ブロモデオキシウリジン;チミジンのアナログ)を用い幼虫期神経芽細胞の増殖パターンを観察したところ、幼虫初期のnolでは一部の例外を除き神経芽細胞へのBrdUの取り込みが全く見られず、幼虫期神経芽細胞の再分化が正常におこなわれていないことが明らかとなった。一方、幼虫後期になると、nolでは神経芽細胞とは明らかに異なる位置に分布する細胞でBrdUを取り込んだ細胞が見られる。また、抗-チューブリン抗体を用いて観察したところ、この時期の中枢神経系では分裂期の微小管がほとんど観察されないことから、これらの細胞はほとんど分裂せず倍数体となっていることが示唆された。

 3.nol遺伝子を分子生物学的に解析するため、下記のようにこの遺伝子のクローニングを試みた。すなわち、P因子をプローブとしてA9系統のゲノムDNAをクローニングした結果、P因子挿入位置近傍約20kbにわたるゲノムDNA断片を得ることができた。これらのゲノムDNA断片をプローブとして用いることによりノーザンブロットをおこなった結果、この領域には3つの転写単位、transcript A、B、Cがあることがわかった。nolホモ接合体のmRNAを用いたノーザンブロットから、このうちtranscript Aはnolホモ接合体で顕著に発現量が減少していることが明らかとなった。また、in situハイブリダイゼーションの結果、この転写単位が幼虫期中枢神経系で発現が見られることがわかった。

 これらの結果から、transcript Aがnol遺伝子であることが示唆されたためcDNAのクローニングを行い、この転写単位の塩基配列を決定した。この結果、transcript Aからは130アミノ酸のポリペプチド鎖が翻訳されることが推定され、そのアミノ酸配列からその遺伝子産物は分泌性の糖タンパク質であることが示唆された。

 以上本論文は、P因子の導入による突然変異体の作成及びその解析から、ショウジョウバエの幼虫期神経発生に関与する新たな遺伝子を同定し、その遺伝子産物と推測されるタンパク質を同定したものである。本研究は、初期神経発生機構の解明に重要な貢献をなす可能性を蔵しており、学位の授与に値するものと認められる。

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