学位論文要旨



No 111356
著者(漢字) 木戸,道子
著者(英字)
著者(カナ) キド,ミチコ
標題(和) 卵巣腫瘍発生機序の細胞生物学的・分子生物学的解析
標題(洋)
報告番号 111356
報告番号 甲11356
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1010号
研究科 医学系研究科
専攻 第三基礎医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川名,尚
 東京大学 教授 黒木,登志夫
 東京大学 教授 山本,雅
 東京大学 教授 武谷,雄二
 東京大学 助教授 福岡,秀興
内容要旨 1.研究の背景および目的

 卵巣腫瘍とくに卵巣癌は年々増加しているが、症状に乏しく、早期発見が難しいため、予後は不良であることが多い。組織分類は複雑であるが、表層上皮性腫瘍が全体の3分の2を占め、悪性では8割を越える。その発生母地は卵巣表層上皮であるとされているが、適切な研究方法がなかったためその性質は長い間不明であった。

 1980年代に入りラットやヒトで卵巣表層上皮細胞の分離培養が試みられてきたが、マウスを用いた報告はない。マウスはより遺伝的性質が明確であり、遺伝子変異動物の開発が進んでいるため、卵巣表層上皮性腫瘍のよい研究系になると考え、今回分離培養を試みた。さらに初代培養細胞を不死化し、マウス卵巣表層上皮由来細胞株の樹立を試みた。数種の細胞株が得られたので、ヒト卵巣腫瘍で活性化が多く報告されている癌遺伝子を中心に、その変異遺伝子をこの細胞株へ導入し、卵巣表層上皮腫瘍化における役割を検討した。

2.材料および方法

 性成熟期C3H/He系マウスより卵巣を摘出、0.025%トリプシン液に浸し、60分間反応後、培地で希釈し培養した。培地は10%fetal bovine serumを添加したダルベッコ変法イーグル培地を用いた。初代培養では上皮性形態を示す細胞が8割以上を占めた。これにSV40 large T抗原DNAをトランスフェクション法により導入し不死化させ、単個細胞からモノクローナルに増殖した細胞株を4種類得た(MOSE-T1〜4とする)。

 また、相沢慎一博士(理化学研究所、当時)らによりp53遺伝子ホモ欠損マウスの供与を受け、同様にして卵巣表層上皮細胞の培養を行ったところ、自然に不死化しモノクローナルに増殖させた細胞株MOSE-p53を得た。

 これらの細胞株について以下の実験を行なった。

 1.位相差顕微鏡により細胞の形態を観察した.

 2.MOSE-T1〜4ではサザン・ブロット解析およびウエスタン・ブロット解析を行ない、SV40 large T抗原のゲノムへの組み込みとその産物であるタンパクの発現を調べた。

 3.増殖因子、ホルモンを培地に添加して細胞増殖曲線を測定した.

 4.染色体標本を作成した.

 5.軟寒天内コロニー形成能を調べた.

 6.ヌードマウスおよび同系マウスに細胞を移植し、造腫瘍性をみた.

 6.で腫瘍を形成した場合には、病理組織学的検索を進め、腫瘍細胞の分離培養を行ない、サザン解析およびウエスタン解析、染色体分析で、元の細胞株との性質の変化を調べた。

 また、MOSE-T1〜4およびMOSE-p53に、ヒト活性化H-ras遺伝子をDNAトランスフェクション法、ヒト活性化K-ras遺伝子をウイルス感染法により導入した細胞株を分離した。ノーザン・ブロット解析により遺伝子の導入を確認し、そのトランスフォーム活性を調べた。

3.結果1.T抗原導入マウス卵巣上皮細胞株の形態および増殖因子等への反応性

 MOSE-T1〜4の細胞は敷石状の上皮性配列を示しており、細胞間のcontact inhibitionは保たれていた。SV40 large T抗原DNAをプローブとしたサザン解析では異なる大きさのシグナルを認め、別の細胞株であると考えられた。ウエスタン解析でSV40 large Tタンパクの発現を確認した。EGF,insulin,hydrocortisoneのそれぞれにより細胞増殖が促進された。estradiol 17-,aFGF,bFGF,VEGF,progesterone,androstenedioneは細胞増殖に有意な変化をおこさなかった。EGFとhydrocortisone両者ではそれぞれ単独よりも増殖が促進された。染色体はperidiploidで、形状に異常はなかった。軟寒天内でコロニーを形成したが、陽性対照と比較し小さく、cloning efficiencyは約半分であった。ヌードマウスに高率に腫瘍を形成し、肉眼的には白か黄白色で固く、表面平滑で周辺組織と軽く癒着していた。

2.p.53欠損卵巣上皮細胞株の性質

 一方、MOSE-p53では形態、増殖因子・ホルモンに対する反応性、染色体数はMOSE-T1〜4と同様であったが、軟寒天内でコロニーを形成せず、ヌードマウス造腫瘍性はなかった。

3.ヌードマウス移植腫瘍由来細胞株の性質

 MOSE-T1〜4のヌードマウス移植腫瘍から分離した細胞株では、形態は上皮性配列を示していたが、細胞間のcontact inhibitionは消失していた。SV40 large T抗原DNAによるサザン解析では増幅、再構成をみとめるものがあり、ウエスタン解析ではSV40 large Tタンパクの発現がみられた。染色体はpolyploidであった。

4.卵巣上皮細胞株への癌遺伝子導入実験

 MOSE-T3にヒト活性化H-ras遺伝子、K-ras遺伝子をそれぞれ導入し、ノーザン解析により確認した細胞株を得た。これらは軟寒天内でcloning efficiencyがMOSE-T3の約2.5倍で、ヌードマウスにより強い造腫瘍性があった。MOSE-p53でも同様にして細胞株を得た。H-ras導入では軟寒天内ではコロニーを作らず、ヌードマウス造腫瘍性はなかったが、K-ras導入ではcloning efficiencyはMOSE-T3の約半分ではあるがコロニーを形成し、ヌードマウスに造腫瘍性もみられた。

 MOSE-T3にヒトEGFR遺伝子を導入し、ノーザン解析により確認した細胞株では、EGF添加によって形態が球状になり、フォーカス形成がみられた。EGFを加えないときはcloning efficiencyはMOSE-T3とほぼ同じで、加えたときは上昇した。

5.ヌードマウス腫瘍の病理組織学的解析

 ヌードマウス腫瘍の病理組織像はいずれもほぼ同様で、腫瘍細胞は周辺組織に破壊性に浸潤しており、originを特定するのは困難で、未分化な悪性腫瘍であった。部分的にmyxomatousな所,上皮様配列を示す所など多彩な形態を示した。腫瘍内にosteoidに類似した像、angiosarcoma様の像といった中胚葉性組織への分化傾向をみとめたものがあった。MOSE-T3の活性化ras遺伝子導入細胞株の移植腫瘍はいずれも周辺組織に破壊性に浸潤しており、細胞密度が高く、一様に未分化であった。

4.考察

 卵巣表層上皮細胞が腫瘍化しやすい理由は不明だが、排卵により配列が乱れ、その傷の修復過程のエラーが蓄積されて腫瘍発生に至るとされている。その機序の解明には卵巣表層上皮細胞の諸性質を調べる必要があり、その有用な系のひとつとして今回マウス卵巣表層上皮細胞の細胞株の樹立に成功した。EGF,hydrocortisoneによって増殖が促進することは文献的に他の報告と一致し、卵巣上皮細胞の特徴と考えられる。増殖因子・ホルモンに対する反応の他に細胞形態、染色体で正常に近い性質をもつ。MOSE-T1〜4は軟寒天内でcloning efficiencyは陽性対照の約半分と低いがコロニーを形成し、ヌードマウス造腫瘍性もみられ、株化による弱いトランスフォーム活性をみとめた。一方MOSE-p53にはトランスフォーム活性の上昇はみられず、より正常に近い細胞株であると考えられた。

 MOSE-T1〜4のヌードマウス移植腫瘍より分離した細胞株では、染色体の異数性、SV40 large T抗原の変化がみとめられたが、細胞株自体のトランスフォーム活性が低いにもかかわらず、腫瘍が形成されたのは、腫瘍化の過程でこれらの性質をもつ細胞が選択的に増殖したものと考えられる。

 ヌードマウス移植腫瘍がヒト卵巣腫瘍類似の組織型であれば、卵巣表層上皮細胞からその腫瘍が発生する機序のモデルとなりうる。ラット卵巣表層上皮を自然に株化させた細胞では、ヌードマウスにヒト漿液性腺癌に類似した腫瘍を形成したという報告がある。今回得られた腫瘍はヒト卵巣腫瘍では稀なsarcomaに類似した未分化悪性腫瘍であったが、異所性の中胚葉性組織への分化傾向がみられた。体腔上皮の多分化能を考えると、それに由来する卵巣表層上皮細胞もその性質を保持しており、多彩な組織型を示す表層上皮性腫瘍の起源となると考えられる。ヒト卵巣腫瘍で異所性の中胚葉性組織の存在はsarcoma、卵巣Mullerian mesenchymal tumorで稀ではあるが報告があり、起源は不明であったが、今回の結果より体腔上皮に由来するsecondary Mullerian systemのひとつである卵巣表層上皮細胞から発生あるいは誘導された可能性が示唆される。

 これまで卵巣表層上皮細胞に遺伝子変化を導入し解析した報告は少ない。今回ヒト卵巣腫瘍で活性化が報告されているras遺伝子の導入で卵巣表層上皮細胞がよりmalignantとなることが示された。

 卵巣表層上皮細胞はEGFで増殖促進がみられるが、ヒトでは正常でEGFRが陽性であるにもかかわらず、上皮性卵巣癌ではむしろ4分の1が陰性で、陽性例は予後が不良と報告されている。MOSE-T3にヒト正常EGFR遺伝子を導入し、これにEGFを作用させたときの細胞の性質の変化を検討したところ、導入細胞はEGFを加えると球状にトランスフォームし、フォーカスを形成した。軟寒天内ではEGFを加えるとcloning efficiencyが有意に上昇した。このことよりEGFおよびそのreceptor系の異常が卵巣腫瘍発生あるいは進展に関与している可能性が示唆される。また、EGFRに関連するc-erbB2遺伝子の増幅がヒト卵巣腫瘍でしばしばみとめられるが、そのリガンドは不明でシグナル伝達の解析は進んでいないため、このEGFR遺伝子導入細胞株はc-erbB2の研究のモデルにも利用できる。

 このように、MOSE-T1〜4およびMOSE-p53は卵巣表層上皮性腫瘍の発生における遺伝子のトランスフォーム能のアッセイ、卵巣表層上皮細胞のシグナル伝達機構の解析などに利用でき、種々の遺伝子の腫瘍発生機序に果たす役割を解析するための有用な系であることが示された。

審査要旨

 本研究はヒト表層上皮性卵巣腫瘍の発生機序を明らかにするため、そのモデル系としてマウス卵巣表層上皮由来細胞株を作成し、性状を解析するとともに、活性化癌遺伝子を細胞に導入しその腫瘍化における役割を調べたものであり、下記の結果を得ている。

 1.ヒト卵巣腫瘍のうち最も頻度が高く、重要性の高い表層上皮性卵巣腫瘍の研究には卵巣表層上皮細胞を分離培養し、その性質や腫瘍化の機序を調べることが必要である。これまでヒト、ラット、ウサギを用いた分離培養の報告はあるが、マウスを用いて成功したというものはなかった。マウスは遺伝的背景がより明確で、人工的に遺伝子変異導入が可能であるため、実験系として有用性が高いと考えられる。今回その卵巣表層上皮細胞の培養を試み、細胞株MOSE-TおよびMOSE-p53をはじめて樹立しえた事が示された。

 2.これらの細胞株の性状解析を行なったところ、形態は敷石状で、フォーカス形成はみられず、報告されているヒト、ラットの卵巣表層上皮細胞と同様のものであった。early passageでの染色体は二倍体であった。EGF10ng/ml,insulin 10g/ml,hydrocortisone 500ng/mlを培地に添加したときにそれぞれ細胞増殖が促進され,EGF 10ng/mlおよびhydrocortisone 500ng/mlを同時に培地に加えたときにはさらに増殖が促進された。

 3.MOSE-TではSV40T抗原DNAの導入によるトランスフォーム活性がみとめられ、軟寒天内でコロニーを形成し、ヌードマウスに腫瘍を形成した。その組織像は未分化な悪性腫瘍で、一部にosteoid,異型血管などの中胚葉組織への分化を示した。これは卵巣表層上皮細胞の多分化能を示唆するものであると考えられた。

 これらのヌードマウス腫瘍細胞株ではSV40 T抗原DNAの変化をみとめるものがあり、染色体は多倍体であった。

 4.MOSE-p53ではトランスフォーム活性はほとんどなく、より正常細胞に近い細胞株であることが示された。

 5.ヒト表層上皮性卵巣腫瘍の手術標本の解析で、ras遺伝子の活性化が多く報告されているため、そのトランスフォーム活性を調べた。MOSE-TおよびMOSE-p53にヒト活性化型H-ras遺伝子、ヒト活性化型K-ras遺伝子を導入したところ、トランスフォーム活性の上昇をみとめた。ヌードマウスにより早期から腫瘍を形成し、その組織型はsarcomaであり、分化像はみとめず、一様に未分化であった。

 以上、本論文はヒト表層上皮性卵巣腫瘍の研究のモデル系としてのマウス卵巣表層上皮由来細胞株の作成と、活性化癌遺伝子の導入によるトランスフォーム能のアッセイへの利用を明らかにした。本研究はこれまで解析の進んでいなかった卵巣表層上皮細胞の性質と腫瘍化の機序を知るために重要な貢献をなすと考えられ学位の授与に値するものと考えられる。

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