学位論文要旨



No 111363
著者(漢字) 金,珠玉
著者(英字)
著者(カナ) キン,シュギョク
標題(和) マウスの脳中ドコサヘキサエン酸(DHA)の代謝に及ぼす食餌及び加齢の影響
標題(洋) The Effects of Aging and Diet on the Metabolism of Docosahexaenoic Acid in Mice Brain
報告番号 111363
報告番号 甲11363
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1017号
研究科 医学系研究科
専攻 社会医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 脊山,洋右
 東京大学 教授 井原,康夫
 東京大学 教授 高井,克治
 東京大学 教授 清水,孝雄
 東京大学 助教授 久保田,俊一郎
内容要旨 目的

 近年、n-3不飽和脂肪酸、とりわけEPA(エイコサペンタエン酸)とDHA(ドコサヘキサエン酸)に関する研究が盛んとなっている。特にグリーンランドのエスキモーに関する疫学調査以来、EPAは血小板凝集を抑制することにより、脳梗塞や心筋梗塞など血栓性疾患の発生を予防することが明らかにされ、さらに、EPAについては、抗炎症、抗動脈硬化、抗アレルギー、がん細胞成長抑制などの効果が報告されている。DHAはEPA同様、魚油中に多く含まれ、EPA類似の作用を持つことから注目されている。しかし、DHAはEPA類似作用の他に、EPAと異なる側面を持っている。DHAは脳、光受容体、心臓、睾丸などに多く分布している。脳におけるDHAの濃度は中枢神経組織や髄鞘の発生段階で急速に上昇し、n-3不飽和脂肪酸欠乏状態で産まれた動物では、脳、網膜のDHA含有量の低下と同時に視覚弁別力の低下、網膜電位図の異常、学習能力の低下などが観察されている。成熟動物では脳中DHA濃度が安定し、長期間n-3不飽和脂肪酸を含まない食餌を投与した場合でも、血清、赤血球や肝臓などのDHAはわずかしか残らないのに対し、脳や網膜のリン脂質に含まれるDHAは殆ど失われない。このような脳の強固なDHA維持には何らかの特別な機構があるとともに、DHA自身が中枢神経系において重要な役割を果たしているものと考えられる。

 DHAの生理機能の解明には、脳におけるDHA代謝及びその影響要因の解明が不可欠である。そこで、食餌中油脂の脳脂質脂肪酸組成に及ぼす影響、さらに、老齢動物の脳脂質代謝に及ぼす食餌中のn-3脂肪酸の影響について研究を行った。

材料及び方法1)n-3高度不飽和脂肪酸添加食餌が動物脳及び脳細胞亜画分におけるDHAレベルに及ぼす影響

 a)3週齢のマウスをパーム油で8週間飼育したのち、パーム油食(n-3脂肪酸欠乏)、ラード食(-リノレン酸微量);紫蘇油食(-リノレン酸豊富、DHA欠乏);イワシ油食(EPA,DHA豊富、EPA>DHA)及びサケ油食(EPA,DHA豊富、DHA>EPA)で30日間飼育し、食餌中油脂が血漿及び脳脂質脂肪酸組成に及ぼす影響を検討した。脂肪酸組成はガスクロマトグラフィーを用いて測定した。

 b)短期間投与における、脳脂質へのn-3脂肪酸の取り込みを検討するために、3週齢のマウスをパーム油食で11週齢まで飼育したのち、精製した-リノレン酸、EPA、DHA食でそれぞれ6日間飼育し、脳及び血漿脂質脂肪酸組成における変化を検討した。

 c)さらに、マウス脳細胞亜画分へのDHAの取り込みを検討するために、3週齢のマウスをパーム油食、イワシ油食で12週間、或いはパーム油食で11週間飼育後、精製DHA食で6日間飼育した。遠心分画法によりミトコンドリア、シナブトソーム、ミクロソーム画分を分離し、各脳細胞亜画分におけるDHAレベルの変化を分析した。

2)マウス脳中DHAレベル及びホスホリバーゼA2(PLA2)活性に及ぼす加齢及び食餌の影響

 a)4週齢のマウスを購入し、5週齢、5ケ月齢、19ケ月齢まで、市販の餌で飼育した。これらのマウスの血漿及び脳を採取し、その脂質の脂肪酸組成をガスクロマトグラフィーにより測定し、加齢の影響を検討した。

 b)また、加齢動物の脳脂質脂肪酸組成及び代謝に及ぼす食餌の影響を調べるために、5週齢、5ケ月齢、19ケ月齢のマウスをそれぞれ2群にわけ、基本食のラード食またはイワシ油食で1ケ月飼育したのち、脳脂質の脂肪酸組成及び脳細胞膜画分におけるPLA2活性を測定した。PLA2活性の測定では、脳ホモジェネートを100,000×g、1時間遠心により脳細胞膜画分を得、その細胞膜画分をバッファー中で1時間インキュベーションし、放出されるアラキドン酸及びDHAの量を測定し、その活性を評価した。

結果1)食餌中油脂の脳脂質脂肪酸組成に及ぼす影響

 成熟動物に30日間パーム油食、ラード食;紫蘇油食;イワシ油食及びサケ油食を与えた結果、n-3脂肪酸が豊富に存在する紫蘇油食とイワシ油食、サケ油食の摂取により、動物血漿、脳脂質脂肪酸中のDHAの割合が有意に増加することが確認された。脳脂質脂肪酸組成におけるDHAの割合は、サケ油食群(DHA,EPA豊富、DHA>EPA) > イワシ油食群(EPA,DHA豊富、EPA>DHA)>>紫蘇油食群(-リノレン酸豊富、DHA欠乏)>> パーム油食群(n-3脂肪酸欠乏)及びラード食群(-リノレン酸微量)の順で高かった。

 また、精製-リノレン酸、EPA及びDHAで6日間飼育したマウスでは、血漿及び脳脂質の脂肪酸組成が有意に変化した。精製-リノレン酸で飼育した動物の血漿中の-リノレン酸、EPA及びDHAの割合、また脳脂質脂肪酸におけるDHAの割合も有意に上昇した。精製DHA添加食で6日間飼育したマウス脳におけるDHAレベルの上昇は、イワシ油とサケ油食(DHA豊富)食で30日間飼育したマウスのものと極めて類似していた。

 さらに、イワシ油食及びパーム油食で12週間飼育したマウスと精製DHAで6日間飼育したマウスの脳細胞亜画分におけるDHAの分布について分析した結果、DHAはシナブトソーム、ミトコンドリア画分に多く、ミクロソーム画分では最も高い比率であった。イワシ油食群と精製DHA食群では、これら脳細胞亜画分におけるDHAレベルはパーム油食群に比べ高値を示した。また、イワシ油食群と精製DHA食群の脳細胞亜画分におけるDHAの割合には差が認められなかった。

2)脳DHA含有量及びPLA2活性に及ぼす加齢の影響について

 市販の通常飼料を摂取し続けた老齢動物では、脳脂質中のDHAの割合は若齢のマウスに比べ有意に低かった。血漿中のアラキドン酸濃度は老齢動物で有意に高値を示したが、DHAの濃度には有意な変化が認められなかった。

 若、中、老齢マウスにイワシ油食を1ケ月間与えた結果、脳脂質中のDHAの割合は三群ともラード食群より有意に高値を示した。ラード食群では加齢とともに、脳脂質中のDHAの割合は有意に低下したが、イワシ油食群の若、中、老齢マウスの間には差が認められなかった。また、加齢マウスの脳におけるPLA2活性の変化は両食群とも認められなかった。一方、イワシ油食群では、脳のPLA2活性(アラキドン酸放出量+DHA放出量)はラード食群と同様であったが、若齢マウスでは、PLA2活性化によるアラキドン酸放出量はラード食群より魚油食群が有意に少なかった。しかし、老齢のマウスではこのような変化が認められなかった。

考察

 本研究では、脳脂質中のDHAの割合は食用油脂摂取により影響され、-リノレン酸を多く含む紫蘇油よりも、DHAそのものを多く含むイワシ油とサケ油を与えたマウスほど、脳内DHAが増加することを明らかにした。また、n-3脂肪酸欠乏の食餌を30日間マウスに与えた場合、血漿中n-3脂肪酸が著しく低下したにも拘らず、脳脂質中のDHAレベルが影響されないことを確認した。精製n-3脂肪酸を6日間摂取させた実験では、食餌中のDHAが迅速に脳内へ取り込まれることが認められた。DHAが脳シナブトソーム、ミトコンドリア、ミクロソーム画分に豊富に存在し、食餌中の油脂により影響されることが確認された。さらに、高濃度の精製DHAを6日間摂取させた場合、脳及びこれら細胞亜画分のDHAの割合が30日間イワシ油食で飼育したものと同じレベルに達することが明らかにされた。

 また、動物を市販の食餌で飼育した場合、老齢マウスでは、脳脂質におけるDHAの割合が有意に低値を示すことが分かった。加齢に伴う脳中DHAレベルの低下の原因については十分に説明できないが、若、中、老齢いずれの動物の血漿中DHAレベルにも有意差を認めず、DHAの豊富な魚油添加食により老齢動物の脳脂質におけるDHAレベルは若年動物におけるレベルまで回復することより、老齢動物では血漿中DHAを脳内へ取り込む能力が若齢のものよりも低下している可能性が示唆された。脳リン脂質中の脂肪酸組成、特に高度不飽和脂肪酸の占める割合は細胞膜の物理的性質、膜結合酵素の活性化などに大きく影響することが知られている。最近、アルツハイマー患者の脳リン脂質におけるDHAの割合が著しく低いことが報告されている。加齢動物の脳脂質におけるDHAレベル低下が脳の機能にどう影響するかは今後の研究課題である。本研究では、食餌へのDHAの添加により、老齢動物の脳中DHAレベルを若齢動物と同じレベルまで上昇させることが可能であることを明らかにした。ヒトにおいても、食餌コントロールにより脳脂質脂肪酸組成、とりわけDHA含有量を調節することが可能であると思われ、その臨床医学、予防医学的意義が期待できる。

審査要旨

 n-3高度不飽和脂肪酸の一つであるDHAが中枢神経系の発生発達過程及び機能において重要な役割を演じていると考えられる。本研究は、食餌中油脂が脳脂質脂肪酸組成に及ぼす影響、また、老齢動物の脳脂質脂肪酸代謝に及ぼす食餌中の油脂の影響について研究を行い、下記の結果を得ている。

 1)成熟マウスをパーム油食(n-3脂肪酸欠乏)、ラード食(-リノレン酸微量) ;紫蘇油食(-リノレン酸豊富、DHA欠乏) ;イワシ油食(EPA,DHA豊富、EPA>DHA)及びサケ油食(EPA,DHA豊富、DHA>EPA)で30日間飼育し、食餌中油脂が血漿及び脳脂質脂肪酸組成に及ぼす影響を検討した結果、マウス血漿、脳脂質脂肪酸の組成が食餌中脂質組成に影響されることが確認され、n-3脂肪酸が豊富に存在する紫蘇油食とイワシ油食、サケ油食の摂取により、動物血漿、脳脂質脂肪酸中のDHAの割合が有意に増加することが確認された。-リノレン酸を多く含む紫蘇油よりも、DHAそのものを多く含むイワシ油とサケ油を与えたマウスほど、脳内DHAが増加することを示した。

 また、成熟動物に精製n-3脂肪酸を6日間摂取させたところ、食餌中のDHAが迅速に脳内へ取り込まれ、脳リン脂質中のDHAレベルを上昇させることが示された。マウスの脳細胞亜画分におけるDHAの分布について分析した結果、DHAはシナブトソーム、ミトコンドリア画分に多く、ミクロソーム画分では最も高い比率であった。6日間精製DHA食で飼育したマウスでは、これら脳細胞亜画分におけるDHAレベルは12週間魚油食で飼育した動物のそれと同じレベルまで上昇することが示された。

 2)脳DHA含有量に及ぼす加齢の影響について、若(5週齢)、中(5カ月齢)、老(19カ月齢)齢のマウスを用いて調べた結果、市販飼料を摂取し続けた老齢動物では、脳脂質脂肪酸中DHAの割合が若齢のマウスに比べ有意に低いこと、また、食餌へのDHAの添加により、老齢動物の脳内DHAレベルを若齢動物と同じレベルまで上昇させることが可能であることが示された。加齢に伴う脳中DHAレベルの低下の原因について、若、中、老齢いずれの動物の血漿中DHAレベルにも有意差を認めず、DHAの豊富な魚油添加食により老齢動物の脳脂質におけるDHAレベルは若年動物におけるレベルまで回復することより、老齢動物では血漿中DHAを脳内へ取り込む能力が若齢のものよりも低下している可能性が示唆された。また、マウス脳細胞膜画分をインキュベーションし、膜面分より遊離されたアラキドン酸及びDHAの和をもってPLA2活性を評価した結果、老齢マウス脳におけるPLA2活性の変化は認められなかった。しかし、DHA豊富な食餌により、脳内の脂質脂肪酸組成を調節し、脳細胞膜におけるPLA2の活性化によるアラキドン酸の放出をさげることが可能であることが示された。

 以上、本論文はマウス脳内脂質脂肪酸、とりわけDHAの代謝に及ぼす食餌および加齢の影響について研究を行い、食餌中DHAが短期間に有効に脳内へ取り込まれ、脳および細胞亜画分におけるDHAレベルを調節すること、加齢に伴いマウス脳内脂質脂肪酸におけるDHAの割合が低下し、食餌へのDHA添加により矯正できること、また加齢及び食餌中油脂の脳細胞膜におけるPLA2活性に及ぼす影響を明らかにした。本研究はこれまで未知に等しかった中枢神経系における高度不飽和脂肪酸の役割の解明に重要な貢献をなし、予防栄養学的意義も期待でき、学位の授与に値するものと考えられる。

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