学位論文要旨



No 111381
著者(漢字) 津野,ネルソン
著者(英字)
著者(カナ) ツノ,ネルソン
標題(和) 癌の発育、進展における接着因子の役割 : 特に細胞外基質との関係について
標題(洋) The Role of Adhesion Molecules in Cancer Development and Progression : with Special Reference to the Interaction with the Extracellular Matrix Components
報告番号 111381
報告番号 甲11381
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1035号
研究科 医学系研究科
専攻 第三臨床医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 柴田,洋一
 東京大学 教授 黒木,登志夫
 東京大学 教授 鶴尾,隆
 東京大学 教授 町並,陸生
 東京大学 教授 小俣,政男
内容要旨

 転移は臨床上の最大の問題のひとつであり、転移機構の解明は癌治療の重要な課題と考えられる。癌の転移を治療あるいは予防する目的で、放射線療法、化学療法、免疫療法などが試みられているが、いまだ良好な成績が得られている状況とは言えない。癌転移を治療あるいは予防するためには癌転移の過程を十分に理解し、細胞レベルでの検討が必要と考えられる。転移過程において、癌細胞は細胞同志および間質との間で様々な相互作用を呈する。これまでの知見から転移機構を推測すると、まず癌細胞が基底膜から難脱し、間質の蛋白を分解しつつ、血管あるいはリンパ管に浸潤していく。血管内では血流に乗り、輸送されるが、ほとんどの癌細胞は血液中の免疫担当細胞や液性免疫により障害除去されると考えられる。生き残った癌細胞が目標臓器に到達すると、今度は血管内皮細胞と接着し、増殖しつつ内皮細胞間より間質へ浸潤し、転移巣を形成する。このように癌細胞が転移巣を形成するためには、宿主との相互作用が重要であり、各々の過程における相互作用の詳細な検討が現在の課題と考えられる。

 以上の事項を念頭におき、本研究では癌細胞が原発巣から離脱する過程、すなわち、転移の初期段階に焦点をおき、癌細胞・宿主相互作用を接着因子、細胞外基質蛋白の観点から検討することを目的とした。

【材料と方法】1.細胞株

 非悪性の培養細胞として、スイス・マウス胎児由来線維芽細胞株であるNIH3T3細胞を、悪性の培養細胞としてNIH3T3細胞にH-、K-、あるいはN-ras遺伝子を導入し形質転換させた細胞株を用いた。

2.細胞外基質

 fibronectin、lamininについて検討を加えた。

3.サイトカイン

 epidermal growth factor(EGF)、tumor growth factor(TGF)、interlevkin-1(IL-1)、tumor necrotizing factor(TNF-)、interferon-(IFN-)を用いた。

 以上、細胞外基質であるfibronectin、lamininに対する接着能、細胞膜表面の接着因子(integrin)の発現、細胞膜と細胞質におけるfibronectin、lamininの発現および分泌量を両者の細胞株で比較検討した。その概要を下記に示す。

(1)ras遺伝子導入細胞の性質についての検討

 ヌードマウス背部皮下にそれぞれの細胞を注入し、腫瘍形成性を検討した。形成された腫瘍については免疫組織化学的手法により、fibronectin、laminin抗体を用いて染色を行い、その存在部位を確認した。

(2)接着分子の発現および接着能についての検討

 fibronectin、laminin(細胞外基質)に対する上記細胞の接着能をin vitroにて検討するとともに、上記細胞の接着分子(各種integrin)の発現をflow-cytometryで測定した。

(3)細胞の含有する細胞外基質についての検討

 細胞膜と細胞質を超遠心機で分離後、それぞれの分画におけるfibronectin、lamininの存在をwestern blottingにより検討した。

(4)細胞より分泌される細胞外基質についての検討

 上記細胞の分泌するfibronectin、lamininの量をELISAにより測定した。

(5)各種サイトカイン刺激による接着能の変化についての検討

 上記各種サイトカインを用いて、それぞれのサイトカインの存在下で培養された細胞の接着能を検討した。

【結果】1.ヌードマウスに対する腫瘍形成能

 NIH3T3細胞は腫瘍を形成せず、ras遺伝子導入細胞はH-、K-、N-rasとも充実性の腫瘍を形成し、NIH3T3細胞の形質がras遺伝子導入により転換されたと考えられた。

2.fibronectinに関する結果(1)免疫組織化学的染色(ヌードマウス背部腫瘍)

 fibronectinは細胞膜および細胞周囲に瀰慢性に染色された。

(2)fibronectin receptorの発現

 flow-cytometryによる検討の結果、fibronectin receptorの発現は認められたが、正常細胞、形質転換細胞間に差は認められなかった。

(3)接着能に関する検討

 形質転換細胞は濃度依存的に接着率の上昇が認められたが、通常の濃度のfibronectin存在下(20g/ml)では正常細胞、形質転換細胞とも接着率は高く、両者に差は認められなかった(図1)。

(4)細胞内のfibronectin含有量

 fibronectinは正常細胞の膜および細胞質に多く認められ、形質転換細胞では低い含有量であった。

(5)細胞からのfibronectin分泌量

 正常細胞、形質転換細胞のfibronectin分泌量に関しては両細胞間に差はなかった(表1)。

(6)サイトカインの接着能に対する影響

 細胞を炎症性のサイトカイン(IL-1、IFN-、TNF-)および増殖因子(EGF-、TGF-)にて処理した後にfibronectinに対する接着能を検討したところ、正常細胞の接着能は全般に増強傾向にあったが、形質転換細胞は逆に低下傾向にあり、特にEGF-の影響によるH-およびN-ras導入細胞接着能の低下が著明であった。

3.lamininに関する結果(1)免疫組織化学的染色(ヌードマウス背部腫瘍)

 lamininは細胞膜、細胞質および血管基底膜に強く染色された。

(2)laminin receptorの発現

 flow-cytometryによる検討の結果、laminin receptorに関しては正常細胞、形質転換細胞ともその発現は同程度認められた。

(3)接着能に関する検討

 lamininに対する正常細胞の接着率は高いのに対し、形質転換細胞の接着率は低く、両者に有意差がみられた。高濃度のlaminin(10g/ml以上)では正常細胞でも接着率の低下が認められた(図1)。

図1 細胞外基質(fibronectin,laminin)に対する各細胞の接着能
(4)細胞内のlaminin含有量

 fibronectinとは逆に、ras導入形質転換細胞は正常細胞に比べ、lamininを多く合成しており、特に形質転換細胞膜のlaminin含有が強く認められた。

(5)細胞からのlaminin分泌量

 正常細胞、形質転換細胞ともlamininの分泌量はfibronectinに比し低い値であったが、fibronectinと異なり形質転換細胞は正常細胞より多くのlamininを分泌していた(表1)。

表1 各細胞によって分泌される細胞外基質量
【考察】

 接着因子、特にintegrinの発現低化が転移能に関係していることは既に報告されているが、細胞外基質との相互作用についての詳細な検討はなされていない。接着分子が機能するためには、細胞上での接着分子の発現の強度のみでなく、細胞外基質との相互作用という機能面での検討が不可欠である。本研究の結果から、ras導入形質転換細胞の接着機能は正常細胞と比較し、低下していることが判明した。しかし、この形質転換細胞の接着能の低下はlamininについてのみ言えることであり、fibronectinについては通常の濃度の細胞外基質下では両細胞間に差は認められなかった。又、細胞が分泌する細胞外基質の検討では形質転換細胞のlaminin分泌が強く認められたのに対し、正常細胞では低分泌という結果であった。ここでいう細胞外基質の通常濃度とは、confluentになった状態で細胞から分泌される基質の濃度であり、本研究で実際に計測されたものである。これらの結果から推測される癌細胞の転移の初期段階、すなわち、癌細胞の原発巣からの離脱の機序は、癌細胞自身が細胞外基質のひとつであるlamininを多量に分泌し、自己の周囲環境を変化させることにより接着能の低下を招来し、細胞離脱に好ましい状況をつくりだしているという過程が考えられる。本研究と同様に正常細胞と形質転換細胞を用いて接着能の検討を行った研究がいくつか報告されているが、いずれも細胞の接着能の検討のみで、本研究で示された如く細胞内の基質含有状況および基質分泌量の計測検討はなされていない。

 癌細胞と細胞外基質との相互作用に影響を与えると考えられる重要な因子のひとつにサイトカインが挙げられる。本研究ではこれまでの報告で細胞接着と比較的関係が深いとされているサイトカインについて検討を加えた。これまでの報告では、細胞をサイトカインで処理すると細胞上の接着分子の発現が変化するとされているが、サイトカインによる接着機能の変化については報告がなされていない。本研究において得られた結果は、サイトカインが癌細胞の接着能を低下させるというもので、前述の癌細胞の原発巣からの離脱過程において、サイトカインは促進的に作用していると考えられる。生体内に癌が発生した場合、癌細胞はなんらかの抗原変化を呈示する可能性が高く、これによって、局所的にサイトカインの分泌増加がもたらされると考えられる。しかも癌細胞自身が多量のサイトカインを分泌する場合があり、これが癌細胞の原発巣からの離脱に促進的に作用し、転移を成立させる一因となっていると考えられる。

【まとめ】

 1.ras遺伝子導入形質転換細胞(癌細胞)は正常細胞と比較し、細胞外基質であるlamininを多く含み、また分泌能も高い状態であった。

 2.癌細胞のlamininに対する接着能は正常細胞と比較し、低率であった。

 3.サイトカイン刺激による細胞接着能の変化は癌細胞で強くみられ、特にEGF刺激による癌細胞の接着能の低下が著明であった。

 4.以上の結果から、癌細胞は接着能を低下させるlamininを分泌することによって好転移状態を自ら作り出している可能性が示唆された。

審査要旨

 本研究は癌の転移機構の早期段階における接着因子と細胞外基質の関係を明らかにするため、スイス・マウス胎児由来線維芽細胞株およびras遺伝子の導入により形質転換させた細胞株の系を用いた検討であり、下記の結果を得ている。

 1.ras遺伝子導入形質転換細胞は正常細胞と比較し、細胞外基質であるラミニンを多く含み、また分泌能も高い状態であったことを免疫組織化学的、western blotting、およびELISA法で証明している。

 2.in vitroでの接着の実験では、ras遺伝子導入形質転換細胞のラミニンに対する接着能は正常細胞と比較し、低率であった。

 3.また、ELISA法ではras遺伝子導入形質転換細胞はフィブロネクチンを正常細胞と同様分泌していたが、免疫組織学的およびwestern blottingでは細胞が含んでいるフィブロネクチンは正常細胞よりも少ない傾向が認められた。

 4.ras遺伝子導入形質転換細胞の通常濃度のフィブロネクチンに対する接着能は正常細胞と同様であった。

 5.サイトカイン刺激による細胞接着能の変化はras遺伝子導入形質転換細胞で強く認められ、特にEpidermal growth factor(EGF)刺激による形質転換細胞の接着能の低下が著明であった。

 以上、本論文では、ras遺伝子導入形質転換細胞は接着能を低下させるラミニンを分泌することによって好転移状態を自ら作り出していることを明らかにした。本研究は癌転移機構の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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