嘔吐反応は重要な生体防御機構の一つであるが、動揺病(乗物酔い)や癌化学療法剤(シスプラチン)の副作用などにより生じる嘔吐は現代社会では臨床的に大きな問題となる。しかし、嘔吐の発症機構については今なお不明な点が多い。近年臨床的に最も重大な問題となっている癌化学療法剤による嘔吐については消化管に存在するセロトニン(5-HT)が関与することが示され、5-HT3受容体拮抗薬は臨床で既に使用されて効果を上げている。しかし、中枢のセロトニン神経系についてはこれまでほとんど研究されていなかった。我々は、5-HT1A受容体作動薬が動揺病やシスプラチンなどの薬物による嘔吐を抑制することを明らかにし、中枢のセロトニン神経系が嘔吐反応を調節している可能性を示した。本研究では、嘔吐反応における脳内のセロトニン神経系の役割について動揺病を中心にスンクス(Suncus murinus)を用いて検討を行なった。 1.5-HT2受容体の嘔吐反応における関与 現在、嘔吐反応には中枢の5-HT1A受容体刺激が嘔吐を抑制すること、シスプラチン誘発嘔吐には中枢の5-HT3受容体は関与していないことがスンクスを用いた研究によって報告されているが、他のセロトニン受容体サブタイプについてはほとんど研究が行われていない。そこでセロトニン受容体のサブタイプの一つである5-HT2受容体が嘔吐反応に関与しているが検討するために、選択的な5-HT2受容体作動薬である1-(2,5-dimethoxy-4-iodophenyl)-2-aminopropane(DOI)の嘔吐に対する作用を検討した。嘔吐刺激としては、動揺刺激(振幅:40mm.頻度:1Hz,持続時間:300秒)およびシスプラチン(20mg/kg,i.p.)を用いた。動揺刺激の実験に際しては、動揺刺激に感受性を示した個体をあらかじめ選別して実験に用いた。DOIを嘔吐刺激30分前に皮下投与することにより嘔吐は用量依存的に抑制され、動揺刺激およびシスプラチン誘発嘔吐に対するID50値はそれぞれ0.64,0.78mg/kgとなった。このDOIの鎮吐作用が5-HT2受容体を介したものであることを確認するために、5-HT2受容体拮抗薬であるketanserinをDOIと併用してその効果を検討した。Ketanserin(2.0mg/kg)の前投与によって、嘔吐したスンクスの割合は、動揺刺激誘発嘔吐では14%から75%に、シスプラチン誘発嘔吐では0%から60%にまで増大した。さらに、血液脳関門を通過できない5-HT2受容体作動薬である-methyl-5-hydroxytryptamine(2,10mg/kg,s.c.)の作用を検討したところ、動揺刺激およびシスプラチン誘発嘔吐を抑制する作用は認められなかった。これらの結果より、脳内の5-HT2受容体への刺激が嘔吐を抑制する方向に働くことが示唆された。また、DOIは異なる入力経路をもつ二種類の嘔吐刺激による嘔吐をどちらも抑制したことから、「嘔吐中枢」などの嘔吐反応の共通経路を介して鎮吐作用を発現すると考えられる。 2.セロトニン取り込み阻害薬による鎮吐効果 5-HT1Aあるいは5-HT2受容体作動薬が中枢で作用して嘔吐を抑制することから、脳内でのセロトニン濃度の上昇が嘔吐を抑制する方向に働く可能性が考えられた。そこでセロトニン取り込み阻害薬の動揺刺激誘発嘔吐に対する作用について検討した。セロトニン取り込み阻害薬は、神経終末へのセロトニンの取り込みを阻害してシナプス間隙中のセロトニン濃度を高める作用を持つ。セロトニン取り込み阻害薬としては、imipramineとfluoxetineを用いた。Imipramineおよびfluoxetineは、動揺刺激誘発嘔吐を用量依存的に抑制し、ID50値はそれぞれ1.7,26.0mg/kgとなった。この結果から、シナプス間隙でのセロトニン濃度の上昇が嘔吐を抑制する方向に働くことが示唆された。 3.セロトニンおよび5-HT受容体作動薬の脳室内投与が嘔吐に及ぼす影響 セロトニン取り込み阻害薬が嘔吐を抑制したことから、セロトニンを脳内に直接投与した場合の動揺刺激誘発嘔吐に対する影響について検討を行った。スンクスを麻酔下で脳定位固定装置に固定し、左側脳室にガイドカニューレを挿入した。一週間以上の回復期間をおき、動揺刺激20分前に薬物を側脳室に3lの容量で投与した。セロトニンを脳室内に投与すると、5gの用量で嘔吐を抑制する傾向を示し、50gでは完全に動揺刺激誘発嘔吐を抑制した。しかし、どちらの用量においても、セロトニンの脳室内投与だけで嘔吐する個体が5例中2例づつ認められた。この結果から、セロトニンは脳内では嘔吐を抑制する作用と共に、嘔吐を誘発する作用ももつと考えられた。このセロトニンの嘔吐に対する作用がセロトニンのどの受容体サブタイプを介したものであるかを調べるために、5-HT1A受容体作動薬である8-OH-DPATと5-HT2受容体作動薬であるDOI、そして5-HT3受容体作動薬である2-methyl-5-hydroxytryptamine(2-Me-5-HT)を脳室内に投与してその作用について検討を行った。8-OH-DPAT・DOI・2-Me-5一HTの脳室内投与により、動揺刺激誘発嘔吐は用量依存的に抑制された。8-OH-DPATは5.0gの用量で5例中5例、DOIは10.0gの用量で5例中4例で完全に嘔吐は抑制された。2-Me-5-HTは50gの用量で5匹中3匹で動揺刺激による嘔吐を抑制したが、2-Me-5-HTの投与単独で嘔吐する個体が5匹中2匹でみられた。8-OH-DPAT、DOIの脳室内投与だけで嘔吐する個体は認められなかった。これらの結果より、5一HT1Aおよび5-HT2受容体作動薬の鎮吐作用を現わす作用点が中枢であることが直接確認された。したがって、セロトニンの鎮吐作用は脳内の5-HT1Aあるいは5-HT2受容体を刺激することにより発現すると考えられる。また、セロトニンの脳室内投与による催吐作用は5-HT3受容体を介している可能性が考えられる。 4.セロトニン神経破壊が嘔吐に及ぼす影響 嘔吐反応におけるセロトニン神経系の働きを調べるために、セロトニン神経毒である5,7-dihydroxytryptamine(5,7-DHT)を用いてセロトニン神経を選択的に破壊したときの嘔吐に対する影響について検討した。5,7-DHTは、麻酔下で50gを脳室内投与した。薬物投与から一週間後に動揺刺激誘発嘔吐に対する感受性の変化を調べたところ、5,7-DHTを投与した群では、vehicle投与群と比べ統計的に有意ではないものの、嘔吐回数が増加し、初回嘔吐までの潜時は短縮する傾向が認められた。実験後、脳を取りだし脳内のセロトニンとセロトニンの代謝物である5-HIAAの含量をHPLC-ECD法により測定し5,7-DHTの作用を確認したところ、それぞれ26%、30%にまで減少していた。これらの結果から、セロトニン神経系は嘔吐反応時に抑制的に働くと考えられる。また、セロトニンの減少に比して、嘔吐に対する作用が顕著ではなかったのは、セロトニンの減少に対して受容体側でsupersensitivityなどの代償作用がおきた可能性などが考えられる。 5.スンクスの脳におけるセロトニン神経細胞の分布 これまでの結果により、セロトニン神経系が嘔吐反応に対して抑制する方向に働くことが示唆されたが、実際のスンクスの脳におけるセロトニン神経の分布については現在まで調べられていなかった。そこで、スンクスの脳におけるセロトニン神経細胞の分布を抗セロトニン抗体を用いて免疫組織化学的手法により調べた。スンクスの脳では、セロトニン抗体陽性細胞は背側縫線核(dorsal raphe)などの一連の縫線核群と、化学受容器があると考えられている延髄の最後野(area postrema)に高密度に存在していることが認められた。また、「嘔吐中枢」の一部と考えられている孤束核にはセロトニン神経の線維が認められた。従って、最後野や孤束核のセロトニン神経系が嘔吐反応を調節している可能性が考えられる。 6.スンクスの脳における5-HT1A受容体と5-HT2A受容体の分布 5-HT受容体作動薬の鎮吐作用の作用点を明らかにするために、5-HT1A受容体の分布は[3H]-8-OH-DPATを、5-HT2A受容体の分布は[125I]-DOIをリガンドに用いてautoradiography法により調べた。スンクスの脳では、5-HT1A受容体は中隔・海馬・縫線核に高密度に存在していた。また、孤束核にも比較的多くの5-HT1A受容体が存在していた。従って、5-HT1A受容体作動薬は孤束核に作用して嘔吐を抑制する可能性が考えられる。一方、5-HT2A受容体は嗅球・大脳皮質に高密度に存在しており、5-HT1A受容体とは異なる分布を示した。従って、5-HT1A受容体作動薬と5-HT2受容体作動薬はそれぞれ異なる神経部位に作用して鎮吐作用を発現すると考えられる。 [結論] 以上の結果より以下に示すような可能性が考えられた。 1.脳内でのセロトニン濃度上昇が嘔吐に対して抑制的に働くことが示されたことから、嘔吐反応時に活性化されたセロトニン神経系は、嘔吐に対して抑制的に働く可能性が考えられる。 2.本研究によりその鎮吐作用が明らかになった5-HT1A受容体作動薬・5-HT2受容体作動薬およびセロトニン取り込み阻害薬をリード化合物とした、新しいタイプの動揺病予防薬や鎮吐薬の開発への応用も期待できる。 3.5-HT1A受容体が他の嘔吐刺激による嘔吐に比べ、より強力な動揺病予防作用を持っていること、また脳内での5-HT1A受容体と5-HT2A受容体の分布が異なることから、5-HT1A受容体が高密度に分布している海馬・縫線核・中隔などの神経核が動揺病の発症に関与している可能性が示唆された。 今後、海馬などの神経核の局所破壊や5-HT1A受容体作動薬の局所投与などの作用を検討することにより、現在まだ不明な点が多い動揺病発症に関与している神経核を明らかにしていくことができると期待される。 |