審査要旨 | | 免疫応答の時間経過に伴う血清の抗体価の上昇は,抗原に対するより高い親和性を持つ抗体が選択,産生されてくることによる。この現象は抗体の親和性の成熟affinity maturationと呼ばれている。本論文では,抗体レベルでの親和性の成熟の機構を,原子レベルでの三次元構造に基づいて解明することを目的とした。 研究では,抗原のハプテンとして(4-hydroxy-3-nitrophenyl)acetic acid,NP,を認識するマウスの抗ニトロフェノール抗体IgGlのうち,免疫の一次応答のN1G9抗体と二次応答の3B44抗体を取り上げ,これらの抗原結合フラグメントFabの三次元構造をX線結晶構造解析により明らかにした。 ハイブリドーマ培養上清から精製した抗体の限定分解により分子量約45,000のFabフラグメントを調製し,ネーティブ結晶と,ソーキング法によるハプテンNPとの複合体結晶を得た。まず,N1G9 Fabの結晶構造をCHA255 Fab’を探索モデルとする分子置換法により解析し,NP複合体結晶とともに分解能2.4Å,R因子0.19で構造を結晶学的に精密化した。3B44 Fab-NP複合体については,N1G9 Fabを探索モデルとする分子置換法による解析後,分解能2.9ÅにおいてR因子0.21まで構造を精密化した。 解析した結晶構造を詳細に検討し,Fabの可変領域と定常領域が成すFab bend角は,N1G9では197°,3B44では206°と,鎖の抗体に比して著しく大きく,これらは鎖を有する抗体に特徴的であることを見出した。抗原を認識する相補性決定領域CDRループの構造については,鎖でもcanonical構造が存在しうること,L1,L3,H1,H2およびH3のCDRループのアミノ酸残基の側鎖によって形成されるポケット状構造がNPとの結合部位であることを明らかにした。 抗原結合に関しては,以下の知見を得た。抗原結合部位ポケットは約10アミノ酸残基で構成され,N1G9では,その底部にTrp 96LとTyr 95Hが位置し(Lは軽鎖,Hは重鎖の残基を示す),Tyr 32L,Trp 91L,Trp 33HとTyr 97Hの芳香族側鎖が上下に,His 35H,Arg 50H,Lys 58HとSer 100aHの極性側鎖が両端に配置している。Fab-NP複合体中のNPはTrp 91Lと最も多数の原子間接触を有し,His 35H,Arg 50H,Lys 58HおよびSer 100aHと6本の水素結合を形成している。三次元構造上は,Trp 33HとSer 100aHが3B44のLeu 33HとSer 100Hに対応することになる。 複合体の構造を検討した結果,N1G9のTrp 33HとNPのヒドロキシル基根元のC4位炭素との水素原子を介した距離は3.3Åと短く,Trp 33HからH3ループにわたる領域も同様に,密すぎるファンデルワールス接触を生じていると考察した。3B44の対応するLeu 33HとNPとの最短距離を見ると,Leu とNPのニトロ基酸素の間で3.8Åとなり,N1G9での密なファンデルワールス接触が緩和されている。すなわち,N1G9の複合体は過度の原子間近接による反発のエネルギー損を含むのに対し,3B44複合体では,このエネルギー損は緩和され,より安定化されていると結論した。一次応答の抗NP抗体の抗原複合体における過密すぎる原子間接触が,33Hでの点変異と,H3ループでのJ鎖組替えを含む変異が,単独あるいは協調的に機能することにより緩和され,二次応答の抗体の親和性は上昇すると考察した。これらは,二次応答の多くの抗NP抗体では,33Hの体細胞突然変異と,H3ループを構築する遺伝子の変異を示すという知見にも合致している。 このように本論文では,免疫の一次応答の抗ニトロフェノール抗体のネーティブFabとハプテンとの複合体,および二次応答抗体の複合体の三次元構造を詳細に解析した。その結果,鎖を有する抗体の基本構造と,抗体の親和性成熟における抗原の認識と親和性の増大の機構を構造生物学的に明らかにした。本論文での親和性成熟抗体の系統的な構造研究は,遺伝子レベルでのアミノ酸残基の変異と選択がもたらす親和性成熟の分子機構に関する重要な基礎知見を初めて与えるものであり,蛋白質構造生物学,免疫学,および薬学に寄与するところ大と評価した。以上により,本論文は博士(薬学)の学位の授与に値する内容を有すると認定した。 |