癌の転移は、癌細胞が原発巣から遊離し、標的臓器に接着、浸潤し、そして増殖を起こすという多段階のプロセスを経て成立する。癌転移に関する研究は、1970年代に細胞生物学的手法が導入されることにより大幅な進展をみせ、現在癌転移のメカニズムに関与する生体分子が明かにされつつある。このなかで、癌細胞の転移部位における増殖には、転移巣周辺の微小環境との相互作用が重要であることが示唆されてきていたが、良いモデル系がないこともあり、その相互作用の実態は不明であった。 本研究はリンパ節に高頻度に転移を起こすマウス悪性Tリンパ腫CS-21細胞をモデル系として用い、転移先臓器であるリンパ節のストローマCA-12細胞との細胞接着に関与する分子を検索し、接着分子によるCS-21細胞の増殖制御機構、とくに細胞死(アポトーシス)抑制現象への関与を明かにしたものである。 以下、研究結果の要旨を記す。 (1)細胞接着によるCS-21細胞のアポトーシス抑制 CS-21細胞は、実験的転移モデルでは腋窩リンパ節に高頻度に転移を起こす。一方細胞培養系においては、CA-12ストローマ細胞と共培養すると増殖できるが、単独で培養しても増殖できずにアポトーシスをおこして死滅した。CS-21細胞のアポトーシスは、CA-12ストローマ細胞の培養上清を添加しても抑制されなかった。以上よりCA-12ストローマ細胞との細胞接着が、CS-21細胞のアポトーシス抑制に重要な役割を果たしていることを明かにした。 (2)接着阻害抗体によるアポトーシス抑制 CS-21細胞とCA-12ストローマ細胞の細胞接着に関与する分子を明かにするために、細胞接着を阻害するモノクローナル抗体を作製し、15kDa、168kDa、23kDaの抗原を認識する抗体を得た。これらの抗体の内、168kDa蛋白を認識するMCS-5抗体や23kDa蛋白を認識するMCS-19抗体を添加すると、CS-21細胞のアポトーシスが抑制された。以上より、CS-21細胞とCA-12細胞の細胞接着には少なくとも3種類の接着分子が関与しており、このうち23kDa及び168kDa蛋白は、細胞接着に関与するだけでなくアポトーシス抑制シグナルをも伝達する分子であることを明かにした。 (3)アポトーシス抑制シグナルを伝達する23kDa蛋白の同定 既存の抗Thy-1抗体と23kDa蛋白を認識するMCS-19抗体とのcross-blocking実験及び免疫吸収実験を行なったところ23kDa蛋白はThy-1分子であると同定された。 (4)抗Thy-1抗体によるアポトーシス阻害メカニズム CS-21細胞のアポトーシス抑制並びに増殖には、一過性の細胞内Ca2+濃度の上昇が寄与していることが明かとなった。またCS-21細胞はPMA添加によってもアポトーシスが阻害され増殖が誘導されるが、このPMAによるアポトーシス阻害メカニズムにはPKCの活性化のみが関与していた。これらのことからCS-21細胞の増殖には、一過性の細胞内Ca2+濃度の上昇又はPKCの活性化のどちらか一方のシグナルで十分であることが明かとなった。またアポトーシス抑制蛋白bcl-2の発現は、PMA処理で発現誘導が認められたが、抗Thy-1抗体処理では発現誘導は認められなかった。これらの結果は、bcl-2 oncoproteinの発現は細胞内Ca2+濃度の上昇では誘導されずPKCの活性化によって誘導されることを示すと共に、抗Thy-1抗体によるアポトーシス阻害メカニズムにはbcl-2は関与していないことを明かにした。 (5)特殊な抗Thy-1抗体によるCS-21細胞のアポトーシス促進作用 多数作製された抗Thy-1抗体の内、MCS-34抗体はアポトーシスを誘導する活性を示した。MCS-34抗体は通常の抗Thy-1抗体(MCS-19)と比較して、持続的な細胞内Ca2+濃度の上昇を起こすこと、及びカルシウムイオノフォアA23187で持続的な細胞内Ca2+濃度の上昇を誘導するとアポトーシスを誘導できることから、MCS-34抗体によるアポトーシス誘導メカニズムには持続的な細胞内Ca2+濃度の上昇が関与している可能性を明かにした。 このように本研究は、転移巣周辺の微小環境との細胞接着が癌細胞の生存を支持することを分子レベルで明かにすると共に、こうした細胞接着に関わる接着分子が癌細胞の選択的転移に重要な役割を果たしていることを明かにしたものである。本研究は様々な文献に引用されていることからも判るように、癌細胞の転移形成機構の解明に寄与するところ大きく、博士(薬学)の学位に値するものと判断した。 |