学位論文要旨



No 111439
著者(漢字) 樋口,雄介
著者(英字)
著者(カナ) ヒグチ,ユウスケ
標題(和) 無限平面グラフにおける酔歩と等周不等式
標題(洋)
報告番号 111439
報告番号 甲11439
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(数理科学)
学位記番号 博数理第38号
研究科 数理科学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,陽一郎
 東京大学 教授 岡本,和夫
 東京大学 教授 楠岡,成雄
 東京大学 助教授 長田,博文
 東京大学 助教授 矢野,公一
内容要旨 0.序.

 グラフはリーマン多様体の離散的類似物としてしばしば扱われるが,近年,無限グラフ上の酔歩に関する研究([Th])や,無限グラフ上で離散的ラプラシアンを考え,そのスペクトルの性質や幾何的な性質に関する研究([DKa][DKe][SS])などが盛んに行われている.

 本論文では,非コンパクトな単連結2次元リーマン多様体の離散的類似物として自然に扱うことができる無限平面グラフを対象として,その無限平面グラフGと,Gの双対グラフG*における単純酔歩の性質(非再帰性)の相互関係,および,幾何的な指標である等周不等式の相互関係などを調べた.主なテーマは次の通りである:

 (1)G上の単純酔歩が非再帰的なとき,G*上の単純酔歩も非再帰的であるか?また,その逆はどうか?

 (2)Gが双曲的であるとき,G*も双曲的であるか?

 (3)平面グラフに対して,"曲率"は定義できるのか?

1.準備.

 グラフGに対して,頂点集合をV(G),(無向)辺集合をE(G)とする.ここで我々の扱うグラフは,V(G)が可算集合で,多重辺・自己ループのない連結無限グラフとする.さらに,m(x)で点xの次数(接続している辺の数)を表し,各点xでm(x)は有限と仮定する(局所有限性).各辺xy∈V(G)に対して向きを与えた時は,[x,y]もしくは-[y,x]で点xから点yへの有向辺を表し,有向辺集合をArc(G)で表す.平面に埋め込み可能で,実際にある埋め込みを与えられたグラフGを平面グラフといい,F(G)でGの面集合,E(F)で面Fの境界をなす辺集合を表わし,また,d(F)で面Fの次数(E(F)の要素の数)を表わす.

 G上の関数および1-formsのl2-空間をそれぞれ次のように定義する.

 

 さらに,外微分dがdf([x,y])=f(y)-f(x)で定義されると,dの随伴作用素d*となる.(ここでNG(x)はGにおける点xの近傍,つまり,{y∈V(G)|xy∈E(G)}を表す.)以上より離散的ラプラシアンは次のように定義される:

 

 グラフ上の単純酔歩(simple random walk)についてはさまざまな研究がされている.良く知られているのは,2次元以下の格子では再帰的で,3次元以上の格子では非再帰的という事実である.一般のグラフにおける単純酔歩の挙動の判定には、次の定理([Ly])を使う.

 定理1.1(Lyons).G上の単純酔歩が非再帰的であることと,次の条件を満たすArc(G)上のが存在することは同値である:

 

 さて,本論文では次の2種類の等周定数(G)と*(G)を用いる.

 

 

 上記のそれぞれの定数は,分母が有限グラフKの"面積",分子がKの境界の"長さ"に対応しているという意味で,多様体での等周定数の離散的類似物になっていると思える.

 等周定数(G)は,リーマン多様体におけるチーガー定数([Ch])の離散的類似物として知られているが,それは-のスペクトルの下限(G)との関係が次の定理のようになっているためである:

 定理1.2([DKe][DKa]).任意のグラフGに対して,

 上の定理より,(G)>0ならば(G)>0となり,よって,G上の単純酔歩は強い非再帰性を持つ.平面グラフGは前に述べたように,非コンパクトな単連結2次元リーマン多様体の離散的類似物として扱っているので,(G)>0なる性質を持つ平面グラフGは双曲的であると考えられる.

 一方,組み合わせ群論において,*(G)>0はグラフGに付随する群が双曲的であることを意味しているので([LS][GH][Gr]),*(G)>0という性質を持つ平面グラフGも,双曲的であると考えられる.次の事実は組み合わせ群論では良く知られているものを,グラフの言葉で表わしたものである:

 定理1.3(Small Cancellation Theory).各F∈F(G),x∈V(G)に対して3m0m(x)<∞,かつ,3l0d(F)<∞と仮定する.

 

2.平面グラフ上の単純酔歩.

 Gが平面グラフならば,Gの双対グラフG*が存在する.さて,単純酔歩の挙動はG上とG*上と同じであろうか.この問いに対して次の結果を得た.

 定理2.1.Gを次数が有界であるような無限平面グラフとする.G上の単純酔歩が非再帰的ならば,Gの双対グラフG*上の単純酔歩も非再帰的である.

 証明方針は,G上に存在する定理1.1の条件を満たす1-formを用いてG*上に条件を満たす1-formを構成してする.しかし,直接構成するのは困難なので,その際,GとG*をより密接につなぐ放射グラフ(Radial graph,[AR]参照)の導入や,適当なグラフの各種変形を用いている点が本質となっている.

 グラフGをある2次元多様体の離散モデルとすればG*も同じ多様体のGに付随した離散モデルと考えられるので,上の定理2.1は期待通りのものである.しかし次数の有界性は一般には外せない.実際,次数の有界性がない無限平面グラフGで,G上の単純酔歩は非再帰的だがG*上の単純酔歩は再帰的になるグラフ("Yoh-Chang graph")が構成出来た.

3.平面グラフにおける等周不等式.

 無限平面グラフにおける(・)と*(・)の関係について主に次の定理を得た:

 定理3.1.

 G*をGの双対グラフとする.このとき,*(G)が正であることと(G*)が正であることは同値である.

 定理3.2.

 d(F)とm(x)がGにおいて有界とする.このとき,次の4つの主張は互いに同値である:

 

 定理3.2もやはり期待通りのものである.しかし,定理2.1と同様に有界条件は一般にははずせない.実際,定理2.1における反例Gがそのまま,(・)は正であるが,*(・)が0になる例になっているためである.この反例Gは,(G)>0だが,(G*)=0となっている.

4.平面グラフの組み合わせ的曲率.

 多様体における次の事実は良く知られている:

 事実4.1.Xを単連結で,距離空間として完備なものとする.断面曲率K(X)がK(X)-2<0であるとき,Xにおいて,滑らかな閉曲線Cを境界に持つ各円板Dに対して

 

 が成立する.さらに,K(X)0であることと,Xにおいて滑らかな閉曲線Cを境界に持つ各円板Dが

 

 を満たすことは同値である.

 さて,上記の事実に対応する性質を持つようなグラフの"曲率"は定義できるのか?

 本論文では,平面グラフに対して,多様体における断面曲率の離散的類似物を導入し,それによるグラフの双曲性に対する特徴付けを与えた.

 平面グラフGの各点xに対して,点xにおける組み合わせ的曲率G(・)は次のように表現される.この曲率の定義自体は,別の文脈で石田([Is])によって導入された:

 

 ここで,F1,F2,…,Fm(x)は点xの周りの面を表わす.

 Gromovは別の曲率(・)を彼の論文([Gr])で導入したが,G*でGの双対グラフを表わし,f*∈V(G*)をf∈F(G)に対応するものとしたとき,これらの曲率の間には(f)=(f*)という関係がある.

 上記の曲率を用いて,次の定理を得た:

 定理4.2.

 (i)各点x∈V(G)に対してG(x)<0であるとき,*(G)>0となる.

 (ii)各面F∈F(G)に対して(F)<0であるとき,(G)>0となる.

 定理4.2の証明においては,次の命題で示されるG(・)の持つ予想外の性質が,本質的である.

 命題4.3.G(・)<0であることとG(・)-1/1806は同値である.

 5.付記.

 本論文では以上のことを中心に議論されているが([H1][H2]),その他に,無限グラフとその線グラフ(line graph)における酔歩の挙動の関係,および,等周定数の関係などに関して得られた結果([H3])についても述べてある.

参考文献[AR]D.S.Archdeacon and R.B.Richter,Construction and classification of self-dual polyhedra,J.Combin.Theory,Ser.B.54(1992),37-63.[Ch]J.Cheeger,A lower bound for the lowest eigenvalue of the Laplacian,Problems in Analysis,A Symposium in honor of S.Bochner(1970),Princeton Univ. Press,195-199.[DKa]J.Dodziuk and L.Karp,Spectral and function theory for combinatorial Laplacians,A.M.S.Contemporary Mathematics 73(1988),25-40.[DKe]J.Dodziuk and W.S.Kendall,Combinatorial Laplacians and isoperimetric inequality,in "From local times to global geometry,control and physics"K.D.Elworthy ed.,Pitman Research Notes in Mathematics Series 150(1986),68-74.[GH]E.Ghys and P.de la Harpe ed.,Sur les groupes hyperboliques d’apres Mikhael Gromov,Progress in mathematics 83(1990),Birkhauser.[Gr]M.Gromov,Hyperbolic groups,Essays in group theory,S.M.Gersten ed.,M.S.R.I.Publ.8,Springer,1987,pp.75-263.[H1]Y.Higuchi,Isoperimetric inequalities of infinite planar graphs,in preparation.[H2]Y.Higuchi,Random walks on infinite planar graphs and their duals,in preparation.[H3]Y.Higuchi,Isoperimetric inequality and random walks of an infinite graph and its line graph,in preparation.[Is]M.Ishida,Pseudo-curvature of a graph,lecture at ’Workshop on topological graph theory’,Yokohama National Univ.,31st Oct.1990.[Ly]T.Lyons,A simple criterion for transience of a reversible Markov chain,Ann.Probab.11(1983),393-402.[LS]R.S.Lyndon and P.E.Schupp,Combinatorial group theory,Springer,1977.[SS]P.W.Sy and T.Sunada,Discrete Schodinger operator on a graph,Nagoya Math.J.125(1992),141-150.[Th]C.Thomassen,Isoperimetric inequalities and transient random walks on graphs,Ann.Probab.20(1992),1592-1600.
審査要旨

 提出された論文は、2つの内容から構成されており、それぞれ独立した論文として公表される予定である。そのうち、論文提出者が主なものとしたのは、第2章および第5章で論じられている無限平面グラフ上の単純酔歩の再帰性に関する結果で、平成7年2月2日に行われた論文審査会においても、主としてこの結果について発表した。他の1つ目は、修士課程以来研究してきた、無限平面グラフにおける等周不等式および組み合わせ論的曲率に関する結果である。いづれも、無限グラフ、とくに、無限平面グラフ上の組み合わせ論的ラプラシアン(隣接行列に付随するラプラシアン)に関連する結果であり、負曲率曲面に特有な諸定理のグラフにおける類比を追求したものと見ることが出来る。なお、最後に補遺として、無限正則グラフとそのライングラフのラプラシアンのスペクトルの関係に関する最新結果にも触れている。

 グラフの組み合わせ論的ラプラシアンに関する研究はかなり長い歴史をもち、様々な分野の立場から調べられてきているが、論文提出者の研究の契機となったのは、J.Dodziukによる主に正則無限グラフに関する等周不等式の研究(1984)、および、T.Lyonsが与えた可逆マルコフ連鎖の再帰性のための必要十分条件(1983)である。

 前者はもちろん、Cheegerの不等式などの微分幾何学における諸結果、およびM.Guromovを中心としたhyperbolic groupの研究などと密接な関係があり、従って、主に正則、乃至は、半正則グラフをその対象と限定されているが、無限平面グラフGとその双対グラフG*における等周不等式に関する双対性を初めて論じている。論文提出者は、2種類の等周定数*を導入して、(G)、*(G)、(G*)、*(G*)の間の関係を見出し(定理B)、頂点の次数の有界性がある場合には、一般の無限平面グラフにこれらの正値性の間の同値関係が拡張できること(定理C)、しかし、非有界な場合には反例が構成できることを示した。M.Ishidaが別の目的のために導入した曲率が、J.Dodziukのものよりも有効に機能することも示している(定理D,E)。

 また、後者はもちろん、H.L.Royden(1952)や角谷静夫(1961)によるリーマン面上でのポテンシャル論に端を発した研究である。よく知られているように、リーマン面上の酔歩の非再帰性は、グリーン関数の存在と同値であり、さらに、それは円板の面積の増大度によって決まる。これを具体化したのが、グリーン関数の存在に関するRoydenの判定条件、あるいは、Nash William’s testであり、Lyonsはこれらを整理し、グラフ上の二乗可積分な流れの存在として使いやすい形にしている。これに関する主結果は無限平面グラフとその双対グラフにおける酔歩の再帰性の同値性に関するもので、論文提出者は頂点の次数が有界性がある場合には、一般の無限平面グラフに対して同値であること、しかし、非有界な場合には、偶然にも上と同じ構成法により、反例が構成できることを示した。さらに、無限グラフとそのライングラフにおける再帰性についても、次数の有界性に関するある条件があれば同値であり(定理A)、無ければ、反例が構成できることを示した。

 また、その証明においては、微分幾何、あるいは、解析的な様々な量がグラフのどのような量に相当するかを見抜くことと、グラフに落とした後の証明方法の発見である。これらについても本論文は興味深く、とくに以下の点には独創性がある。無限平面グラフG上の酔歩の非再帰性から、その双対グラフ上G*の酔歩の非再帰性を導くために、GとG*の共通の被覆グラフと見なすことができるradial graphの上に流れをリフトすることによって、二乗可積分な流れを構成している。さらに、無限グラフG上の酔歩の非再帰性から、そのライングラフL(G)上の酔歩の非再帰性を導く際に、同様の手法を適用するために、paraline graphと呼んでいる新しいクラスのグラフを導入している。

 これらの結果は、正則グラフで無い一般の無限グラフに対して意味のある結果を与えたものであり、また、その手法においても独創性が認められる。よって、論文提出者樋口雄介は、博士(数理科学)の学位を受けるにふさわしい充分な資格があると認める。

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