学位論文要旨



No 111440
著者(漢字) 足立,匡義
著者(英字)
著者(カナ) アダチ,タダヨシ
標題(和) N体シュタルクハミルトニアンに対する散乱理論
標題(洋) Scattering Theory for N-body Stark Hamiltonians
報告番号 111440
報告番号 甲11440
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(数理科学)
学位記番号 博数理第39号
研究科 数理科学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 谷島,賢二
 東京大学 教授 小松,彦三郎
 東京大学 教授 金子,晃
 東京大学 助教授 北田,均
 東京大学 助教授 中村,周
 東京都立大学 教授 望月,清
内容要旨

 定電場の中にある量子力学的なN粒子系の運動を考える。結果を述べるために、記号の説明を加えながら進めていく。このような粒子系の運動は、total Hamiltonian

 

 により支配される。但し、j粒子の質量、電荷、位置ベクトルをそれぞれmj,ej,rj∈Rdとし、Rd内の定電場を≠0とし、は、j粒子とk粒子との相互作用ポテンシャルVjkの和である。通常、散乱理論では、を重心座標系で考える。そのために、計量,∈RNd、配位空間,Xcm={r∈RNd|rj=rk for 1j<kN}を導入する。また、正射影:RNd→X,cm:RNd→Xcm,を用いて、x=r,xcmcmr,

 

 と書くことにする。このとき、は、L2(RNd)=L2(X)L2(Xcm)上、Id+IdTcmと分解され、そのうちHの方のみ考える。但し、

 

 ,cmは、それぞれX,Xcm上のLaplace-Beltrami作用素である。E≠0のとき、Stark効果を持つといい、HをN体Stark Hamiltonianと呼び、その場合を考える。

 この論文での目的は、Schrodinger方程式idt/dt=Htの解t=cxp(-itH)0の、t→±∞における漸近挙動を調べることにある。

 {1,…,N}の空でない部分集合(クラスター)による直和分解をクラスター分解と呼び、1クラスター分解(1,…,N)以外の全てのクラスター分解の集合をと表す。クラスター分解aがクラスター分解bの細分のとき、a⊂bと書く。=(j,k)は、クラスター分解{(j,k),(1),…,(),…,(),…,(N)}を表す。ここで、クラスター内部の運動を記述する配位空間Xa、クラスター間の相対運動を記述する配位空間Xaをそれぞれ

 

 と定義し、Xa,Xaの座標をそれぞれxa,xaで表し、,∂aとする。簡単のため、=(j,k)とし、()=Vjk(rj-rk)と書く。subsystem Hamiltonian 、free Hamiltonian をそれぞれ

 

 と定義し、L2(X)=L2(Xa)L2(Xa)上のcluster Hamiltonian Ha=HaId+IdTaを定義する。但し、Ea,Eaは、それぞれEのXa,Xa成分、a,aは、それぞれXa,Xa上のLaplace-Beltrami作用素である。また、クラスター間の相互作用ポテンシャルをIa=H-Haで表し、=Ia-Icと書く。

 この論文での目的の一つは、考えている系に対する波動作用素の漸近完全性を示すことにある。ここで、波動作用素とは、

 

 である。但し、Pa:L2(Xa)→L2(Xa)はHaの固有空間への正射影、Ua(t)はHaに対応するpropagatorで、short-rangeの場合にはexp(-itHa)を採る。漸近完全性とは、

 

 のことである。但し、(H)⊂L2(X)はHに関する連続部分空間である。これは、散乱状態(H)の時間発展exp(-itH)が、漸近的に

 

 ∈L2(X),のように、各クラスターが束縛状態を形成しながら、クラスター同士は自由粒子であるかの如く振る舞う状態の重ね合わせで表せることと同値である。

 いま、質量と電荷との比が等しい粒子同士をまとめたクラスター分解をcで表す。ポテンシャルの仮定を、次のように置く。

 は実数値関数で、

 

 を、⊂cのときには-1<p1、cのときには0<1/2、に対して満足している、

 または、

 は実数値関数で、

 

 を、ある-1<1に対して満足している。

 ここで、⊂cのとき、j粒子とk粒子の質量と電荷との比は等しく、cのとき、j粒子とk粒子の質量と電荷との比は異なることに注意する。上の条件を満足しているならば、ポテンシャルはlong-rangeであるという。まず、(V)Gを仮定し、a⊂cなるクラスター分解のみ考える。このとき、aのクラスター内の粒子同士では、質量と電荷との比が等しいことに注意しておく。いま、Graf型波動作用素

 

 で定義する。但し、Daとする。このとき、次の結果が主要な結果の一つである。

 定理1.1.1.(V)Gを仮定する。このとき、Graf型波動作用素,a⊂c,が存在し、それらは漸近全である、つまり、

 

 次に、(V)Dを仮定する。このとき、Dollard型波動作用素を

 

 で定義する。但し、Da,⊥=Da-E〈E,Da〉/|E|2は、Daの、Eに直交する成分である。このとき、次の結果がもう一つの主要な結果である。

 定理1.1.2.(V)Dを仮定する。このとき、Dollard型波動作用素,a⊂c,が存在し、それらは漸近完全である、つまり、

 

 上の二つの定理を示すのには、

 

 という形の積分評価で与えられた伝播評価が、非常に重要な役割を果たしてきた。但し、Btは、時刻tに依存する有界な擬微分作用素、あるいは、より一般的な作用素であり、f∈(R)とする。これに対して、時刻tについての各点評価

 

 なるものも、定電場がない場合には、Skibsted氏等により研究されているが、定電場のある場合には、まだ研究されていないようである。そこで、この論文の後半では、各点評価の形の伝播評価を、N体のStark Hamiltonianに対して導出している。ここで得られた評価は、オブザーバブルDとxが、t→∞のときに、ほぼD-Et=o(t)とx-Et2/2=o(t2)のように振る舞うことを示したものであり、これまでの積分評価よりもシャープな結果も得られている。より精密に結果を述べるために、次のようなポテンシャルの仮定を置く。

 は実数値関数で、

 

 を満たす。

 このとき、次の結果を得る。

 定理2.1.1.Vが(V.1)と、(V.2)または(V.3)を満たしているとする。>0,s>s’>0とする。このとき、次の評価がt1に対して成立する。

 

 この結果は、時間発展に従って、|D-Et|=o(t),|x-Et2/2|=o(t2)となることを示している。次の定理は、上の性質の精密化である。特に、(V.2)を0<1/2で仮定すると、クラスター間の相対運動(xc,Dc)と全運動(x,D)の、tについての増大度には差異が生じ得ることを示している。

 定理2.1.2.Vが(V.1)と、(V.2)または(V.3)を満たしているとする。(V.2)が0<<1/2で満たされているならば、とし、(V.2)が=1/2で満たされているならば、s0()=1,1(t)=(logt)1/2,2(t)=t(logt)1/2とし、(V.2)が>1/2で、あるいは、(V.3)が満たされているならば、s0()=1,1(t)=1,2(t)=tとする。とする。このとき、次の評価がt1に対して成立する。

 

 更に、Vが(V.1)と(V.2)を0<1/2で満たしているならば、クラスター間の相対速度Dcと相対位置xcは、次の評価をt1に対して満たす。

 

 系2.1.3.Vが(V.1)と(V.2)を、0<1/2で満たしているとする。s0(),1(t),x2(t)は、定理2.1.2と同じとする。,0<<s0()とする。このとき、次の評価がC>0,t1に対して成立する。

 

 次に、cがNクラスター分解である場合を考える。次の定理は、Dt-Et2/2の方がEt2/2よりも、xの良い近似であることを示している。

 定理2.1.4.Vが(V.1)と、(V.2)または(V.3)を満たしているとする。s0(),1(t)は、定理2.1.2と同じとする。このとき、次の評価が任意のmulti-index,s>2||s0(),t1に対して成立する。

 

 特に、定理2.1.2の最初の二つの評価が、波動作用素の漸近完全性を示すのに利用できることに注意しておく。

審査要旨

 定電場のもとにある2N個の非相対論的な量子力学的粒子の運動を考える。各粒子の配位空間をRd,その位置をrjで表せば,粒子の状態はHilbert空間=L2(RNd)のunit vector,その運動は上の自己共役作用素

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 によって記述され、時刻tの状態はで与えられる。但し,mj,ejはj粒子の質量,電荷,V==1(rj-rk)でVjkは粒子間相互作用のポテンシャルである。この論文は,Vjkに対する適当な条件のもとで粒子の状懸のt→±∞における漸近的な振る舞いを研究し,いわゆる散乱の漸近完全性を証明したものである。

 定電場内の古典粒子は,定加速度e/mを受ける。従って,t→±∞の時、電荷と質量の比が相異なる粒子の間の相対運動におけるポテンシャルVjkの寄与は無視されるであろう。一方、その比が同一なものどうしの相対運動は電場が存在しない場合と同じである。そこで,粒子系をこの比が同一のものをまとめて分割し

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 とする。一般に{1,…,N}のdisjoint subsets(clusterと呼ぶ)への分解をcluster分解と呼びaなどで表す。(ij)はcluster分解{{1},…,{},…,{},…,{N},{i,j}}を,a⊂bはaがbの細分であることを表し,cは上記の特別な分解を指すものとする。ポテンシャルVjkに対して次の仮定をする。

 仮定1Vjk(y)は実数値C関数で,ある-1<1に対して,|y|→∞の時,

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 加速度一定の直進運動をする重心の運動を分離し,粒子間相対運動のみに着目する。この重心運動の分離は次の様に行われる。配位空間RNdに計量111440f36.gifを導入し、重心の運動を記述する配位空間Xcm={x=(r1,…,rN):r1=…=mNrN}と相対運動の配位空間x={x=(r1,…,rN):m1r1+…+mNrN=0}を導入する。この時、RNd=XXcmと直交分解し、状態空間は=L2(X)L2(Xcm)と分解する。は粒子の間の相対運動を表すH=L2(X)上の作用素H=-(1/2)+(E,x)+Vと重心の定加速運動を記述するL2(Xcm)上の作用素Tの和となる。但し,はX上のLaplace-Beltrami作用素,EはのXへの正射影である。Tを無視し,H上でのe-itHの漸近挙動を考えるのである。

 クラスタ分解a={D1,…,Dm}に対して,aの異なるクラスター間を結ぶ相互作用の和111440f37.gifをHから取り去ったHamiltonianをHaとかく。Haは各クラスターを独立系とみなしたときのクラスターDJに含まれる粒子の運動を記述するHamiltonian の和である。全粒子系に対して行ったと同様に、から重心運動を分離すれば、HaはDj内の相互作用を記述する,j=1,…,mの和Haとクラスター重心間の自由相対運動を表すHamiltonian Taとの和となり、これらは各々可換である。Haの各固有関数は,各クラスターの束縛状態を記述する。Haの固有関数で張られる閉部分空間への直交射影をPaとかく。

 漸近挙動の考察のため,ポテンシャルのlong range性を考慮した修正波動作用素を

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 と定義する。ここで,Daはクラスター分解aにおけるクラスター重心の運動量,Da,⊥=Da-111440f39.gifである。本論文で得られた結果は次の通りである。

 定理1(1)上記の仮定の下にが全てのa⊂cに対して存在し完全:111440f40.gifである。

 (2)Vjkの微分に対するより早い減衰条件を仮定すれば,より簡単な修正波動作用素に対して(1)と同じ結果が成立し,粒子の運動をより詳しく記述する、"sharp propagation estimate"が得られる。

 散乱理論は量子力学誕生以来多くの物理数学者によって取り扱われてきた問題で,そこでの数学的主要問題の一つはいわゆる散乱の漸近完全性であった。この問題は,孤立系に対しては,多くの著者の長い間の仕事の積み重ねの末,粒子数Nが2の時には,短距離型相互作用の力に対してはKuroda,Agmonによって,長距離型相互作用に対してはKitadaによって解決された。また。粒子数がN3の時には,Faddeev等の先駆的な仕事の後,最近になって短距離型相互作用に対しては,Sigal-Soffer,Graf,Kitada,Tamura等によって,長距離型相互作用に対してはEnss,Derezinski等によって(ある種の制限付きで)解決された。

 一方,本論文で考察されている定電場による外力を受けた粒子系に対するHamiltonian Hは下に有界ではなく,その取り扱いには多くの技術的な困難が伴う。このために散乱の完全性は,N=2に対してはHerbst,Jensen-Yajima,White等によって解決されたが,N3の場合には,特に長距離型相互作用に対しては,長い間,何の結果もなかった。この論文ではこれらの困難を巧みな創意によって克服し,この問題をほぼ完全に解決し,さらにGerard-Skibstedなどによるsharp propagation estimatesをこの系に拡張している。以上の結果は目覚ましいものであり,これらを短期間の間に導いた論文提出者の数学的能力が極めて高度なものであることを示している。

 以上により、本論文提出者足立匡義は、博士(数理科学)の学位を受けるにふさわしい充分な資格があると認める。

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