硫黄を含む配位子を有する遷移金属複核錯体は生体中の例えばニトロゲナーゼ等の活性中心モデルや水素化脱硫触媒の表面モデル化合物として合成され、その電気的、分光学的などの物性的な見地からの検討は種々なされているが、その反応性や触媒能を検討したものは比較的少ない。そこで本研究ではチオラートを架橋配位子に有するRu二核錯体を合成し、その反応性や触媒能について検討を行った。 1.Ru(II)-Ru(III)の金属中心を有する複核ルテニウム錯体の合成とその反応性 [Cp*RuCl2]2より誘導される錯体[Cp*Ru(3-Cl)]4はTHF中NaSR(R=Pri,But,2,6-Me2C6H3)と反応し一連の二核のチオラート架橋錯体[Cp*Ru(-SR)2RuCp*]((1a):R=Pri;(1b):R=But;(1c):R=2,6-Me2C6H3)を与えた。 (1a)についてはTHF中で既知の[Cp*Ru(-OMc)2RuCp*]と(TMS)SPriの反応でも合成することが出来た。(1c)についてはTHF溶液を冷却することで良好な単結晶が得られたためX線構造解析を行った。その結果この錯体はRu-Ru間の距離が3.500(2)Aと長く、従ってRu-Ru結合が存在しない、すなわち16電子の配位不飽和な金属中心を2つ有する架橋チオラート錯体であることが示された。事実、錯体(1c)は反磁性であり、常温での1H-NMRの測定により所定の強度でCp*およびチオラートに帰属される吸収が観察される。ところが一方錯体(1a),(1b)については常温の1H-NMR測定ではCp*のシグナルのみが観察されるため温度可変の1H-NMRを測定したところ、これらの二つの錯体はフラクショナルな挙動をとることが明らかになった。 次に錯体(1a)のRXとの反応性を検討した。錯体(1a)はヘキサン溶媒中、当量のRX(RX=MeI,EtI,PhCH2Br,PhCH2CH2Br)と反応しdinuclear oxidative additionがおこった化合物に相当する一連の錯体[Cp*Ru(R)(-SPri)2RuCp*X]((2a):R=Me,X=I;(2b):R=Et,X=I;(2c):R=PhCH2,X=Br;(2d):R=PhCH2CH2,X=Br)を生成した。 錯体(2d)はベンゼン/ヘキサン中で再結晶を行い良好な単結晶が得られたのでX線構造解析により所定の構造を有していることを確認した。すなわち錯体(2d)はRu-Ru間距離は2.844(1)AでありRu-Ru結合を有する18電子の二核錯体であり、2つの架橋チオラート配位子を有していて、複核構造を保持したままdinuclear oxidative additionが起きていることがわかった。さらに興味深いことに錯体(2c)は熱的に不安定でありこれまでに例を見ない分解反応を起こすことも明らかとなった。 この錯体の分解反応をスピントラップ剤ButNOの存在下行ったところベンジルラジカルが捕捉され、この反応はラジカル的な反応であることが示唆された。 2.Ru(III)を有する一連の錯体(2a)〜(2d)と求核試薬との反応 このようにしてRXが二核サイトに酸化的付加した一連の錯体が得られたので、それらの錯体と求核試薬との反応について検討した。複核錯体(2a),(2d)はそれぞれMeLi,PhCH2CH2MgBrと室温で反応させることによりホモジアルキル錯体[Cp*(R)Ru(-SPri)2RuCp*R](R=Me(3a),R=CH2CH2Ph(3d))が生成した。さらに錯体(2d)はPhCCLiと反応させることによりアルキルーアセチリド錯体も合成することが出来た。 なお錯体(3d)ではトルエン/MeCN溶液を冷却して良好な単結晶が得られたのでX線結晶構造解析を行った。その結果、この錯体は複核構造を保っており、Ru-Ru間距離が2.846(2)AでありRu-Ru結合が存在し、しかも二つのRu金属中心上に-フェネチル基を有する18電子の錯体であることが明らかになった。そこでこの錯体のI2による分解反応を検討した。錯体(2d)は当量のI2の反応によりPhCH2CH2IとPh(CH2)4Phを与えながら錯体は[Cp*RuI(-SPri)2RuCp*I]として回収された。そこでこのカップリング生成物が分子間反応によるものか分子内反応によるものかを確認するためヘテロジアルキル錯体[Cp*(R)Ru(-SPri)2RuCp*R1]の合成を試みた。ところが、錯体(2d)とEtMgBrの反応の結果はジアルキル錯体は生成せず[Cp*RuH(-SPri)2Ru(CH2CH2Ph)Cp*]のみが生成した。このように同じように-水素を有する求核試薬でありながら脱離がおこるものとおこらないものが存在するのは大変興味深い。一方錯体(2a)とPhCH2MgClから合成したメチルーベンジル錯体[Cp*(Me)Ru(-SPri)2RuCp*(Bn)](3e)はベンジルーブロミド錯体と異なり熱的に安定であった。 3.既知の常磁性錯体[Cp*Ru(-SPri)3RuCp*]とPhCH2Brから誘導される新規錯体[Cp*(Br)Ru(-SPri)2Ru(SPri)Cp*]の合成、キャラクタリゼーションと反応性 既知の形式的にRu(II)-Ru(III)を有する錯体[Cp*Ru(-SPri)3RuCp*]はPhCH2Brと反応しほぼ定量的にPhCH2CH2Phを与えながら[Cp*(Br)Ru(-SPri)2Ru(SPri)Cp*](4)を与えた。この錯体はRCCH(R=But,p-Tol)と反応し[Cp*Ru(CCR)(.-SPri)2RuCp*Br](R=But(5a),p-Tol(5b))を与えた。また、錯体(4)はMeOH中、H2と速やかに反応し[Cp*(Br)Ru(-SPri)2RuCp*H](5c)となった。興味深いことに、この反応は他の溶媒、例えばTHF、トルエン、MeCN、CH2Cl2等を用いても、ほとんど全く進行しない。そこで錯体(4)の1H-NMRをCD3OD中で測定したところ2つのCp*、3つのチオラートのメチル基が全て等価で観測され、また電気伝導度測定の結果からは錯体(4)はイオン的な構造をとっていることが示唆された。そこでこの反応は次のような経路で起こっているものと推測した。 Br原子がアニオン的に引き抜かれた複核錯体はチオラートがterminal配位から架橋配位へと変化しているために反応性が向上しているものと考えることができる。一方錯体(5c)はRMgXと反応しアルキルーヒドリド錯体[Cp*Ru(R)(-SPri)2RuCp*H](R=PhCH2(5d).PhCH2CH2(5e))を与えた。興味深いことに錯体(5e)は熱的に安定で全くそれ自身では反応しないのにもかかわらず、錯体(5d)は室温でも徐々に分解し、PhCH3を複核サイトから還元的脱離しながら錯体(1a)を与えることが明らかになった。この反応は配位飽和な複核錯体からのdinuclear reductive elimination反応がおこっていることに相当し、大変興味深く、機構の解明が待たれる。 |