本研究は肝細胞癌(以下HCCと記す)発生の最も早い段階の変化、すなわち、いわゆる初期病変を形態学的に探ることを目的とし、肉眼的、病理組織学的及び免疫組織化学的検討ならびにレクチン染色による検討を行なったものであり、下記の結果を得ている。著者の、組織学的分類および診断基準は日本肝癌研究会:臨床病理・原発性肝癌取り扱い規約.3版,金原出版,東京,1992に拠っている。 1.HCC発生の初期病変を形態学的に探るため、手術摘出例のHCCの中から直径2cm以下の細小HCCの29症例31結節の癌結節を選び出して、その組織学的特性を検討した。さらに、HCCの全くの未治療の状態および初期の小さいHCCの病像を明らかにする目的で、生前には画像上HCCの診断が下されておらず、剖検時に偶然に発見された、いわゆる潜在性の細小HCC15例29腫瘤を抽出して合計60腫瘤の細小HCCを病理組織学的に検討した。 その結果、発生初期ないし早期のものと見做される直径2cm以下の細小HCCの組織学的分化度は高分化型ないし中分化型であり、低分化のものは存在しなかった。そして、輪郭が不鮮明であることが多く、細胞異型および構造異型がともに軽微な高分化型HCCの腫瘍組織からなることが多かった。結節の大きさを直径の平均値で比較すると、輪郭不明瞭型のほうが輪郭明瞭単結節型より小さい傾向にあり、腫瘍被膜形成に乏しかった。 2.東京大学医学部病理学教室における肝硬変剖検例のうち、剖検時に偶然に発見された2cm以下の細小HCC15例について、病理学的に検討した。2cm以下の小さい段階の、脈管侵襲および転移の可能性が乏しい、潜在性HCCでも複数の腫瘤が発見された症例が15例中9例存在した。この事実はHCCの多中心性発生を強く示唆しており、HCCが同時性で多中心性に発生する事は稀ではないと推定した。 3.肝硬変の偽小葉結節の大きさにはバラツキがあるのが通例であるとの認識のもとに、HCC非合併肝硬変27症例において、目立って大型の背景をなす平均的大きさの偽小葉結節より50%以上大型の偽小葉を『大型偽小葉結節』と定義し、101結節を検索対象とした。高分化型細小HCCの組織学的特徴とされるMallory小体、偽腺管様構造、小型肝細胞の密在する領域(『小型肝細胞巣』とした)、および限局性脂肪変性の有無および頻度を光顕的に検討した。 『小型肝細胞巣』は、N/C比の高い小型の肝細胞が高密度で認められる病巣で、画像解析装置を用いて周囲の偽小葉結節を構成する肝細胞密度の1.5倍以上であることを確認し、『小型肝細胞巣』の肝細胞核面積を計測して、大型偽小葉結節以外の肝細胞核に比して20〜30%小さい小型肝細胞が密在する病変を選んだ。小型肝細胞巣の出現頻度は、大型の偽小葉結節内で有意に高頻度で認められることを明かにし、注目すべき所見として強調した。筆者は、高分化型HCCの病理組織学的診断で最も重要な診断価値の高い所見は核の密在化であると考えており、ヒトにおける肝発癌の最も早い段階の変化は肝細胞の小型化であると推定している。 4.HCC非合併肝硬変剖検例で、Mallory小体は、大型の偽小葉結節内に認められる頻度が高いことが明かになったが、その周囲の背景をなす偽小葉内にも認められたことから、これの存在をもってただちにHCCの前癌病変であると意義付けることはできないと考えた。 5.肝細胞の限局性脂肪化は肝発癌に関与した腫瘍細胞の1形態と考えられており、本研究で検討した症例でも細小HCC27%に脂肪化を認めた。しかし、8mm以下のHCCやHCC非合併肝硬変剖検例の大型の偽小葉結節には脂肪化はほとんど認められなかったことから、脂肪化は肝発癌に先行する所見ではないと考えた。 6.HCCの腫瘍細胞における糖鎖構造の変化を調べる目的で、8種のレクチン染色による組織化学的検討を行なった。細小HCC手術摘出例のレクチン染色の結果、HCC症例の癌部と非癌部でレクチン結合性が異なる場合がみられた。UEA-1では50%で癌部血洞型の、LCAでは55%に非癌部肝細胞型の結合性を認めたことが注目された。HCCで非癌部と比較してこれらのレクチンの結合状態が変化していたことは、肝発癌に伴って細胞膜あるいは細胞質の糖鎖に変化が生じたものと考えられた。 7.増殖期の細胞核内に発現するとされるKi-67抗原(抗Ki-67抗体としてはMIB-1を使用)およびPCNA抗原(抗PCNA抗体としてはPC10を使用)を免疫組織化学的に検索し、2cm以下の細小HCCの細胞増殖活性を定量的に検討することを試みた。MIB-1の陽性標識率(LI)は高分化型HCCで2.4±0.9%、中分化HCCでは13.8±8.9%、非腫瘍部では0.9±0.2%であった。PC-10のLIは高分化HCCで9.5±5.4%、中分化HCCでは35.0±5.4%、非腫瘍部は2.3±0.7%であった。HCCの分化度別にLIを比較すると分化度が低くなるに従ってLIが有意に高かった(p<0.01)。高分化型HCCも非腫瘍部と比較して活発な細胞増殖能をもちLIが増加していることが予想されたが、HCC初期病変の主体を占める高分化型HCCは非癌部に比べて細胞増殖活性の増加はわずかであることを明らかにし、それは臨床的観察の結果に合致する所見と考えた。 さらに、いまだ2cm以下の分化型HCCにおいて異常の指摘されていないP-53がコードする蛋白の発現異常の有無を免疫組織化学的に検討し、P-53のコードする蛋白の発現異常は、細小HCC例では非腫瘍部も含めて認められないことを明らかにした。 以上、本論文は、臨床的に注目を集めていながら、いまだ十分には明らかにされていないHCCの発生初期の病像を形態学的に探ることを目的とし、細小HCCおよび硬変肝の大型偽小葉結節について種々の方法を用いて多面的に検討しており、HCCの発生初期の病像の形態学的研究のさらなる発展と実際の診療レベルでの診断に寄与しうるものとして学位の授与に値するものと認められる。 |