学位論文要旨



No 111451
著者(漢字) 木村,昌弘
著者(英字)
著者(カナ) キムラ,マサヒロ
標題(和) トンネル電流による有機分子のキャラクタリゼーション
標題(洋)
報告番号 111451
報告番号 甲11451
学位授与日 1995.05.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3486号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 講師 宮村,一夫
 東京大学 教授 合志,陽一
 東京大学 教授 澤田,嗣郎
 東京大学 助教授 樋口,精一郎
 東京大学 助教授 北森,武彦
内容要旨

 本論文では導電性試料の表面を原子オーダーで観察可能な走査型トンネル顕微鏡(STM)を発展させ、種々の測定条件に対するトンネル電流の挙動を解析する装置を開発し、従来にない新しい知見を得た。中でも、特にトンネル電流(I)のギャップ巾(s)依存性(I-s特性)に着目し、それをもとに新しい分析顕微鏡の開発を行ない、有機分子のキャラクタリゼーションを最終的な目的とした。

 非導電性分子がSTMで観測される機構については現時点でまだ解明されていないため、本論文ではトンネル電流(I)の距離(s)依存性について詳しく検討し、観測条件によって像が変化することに対するアプローチを行なっている。

液晶分子の観察

 高配向熱分解黒鉛(HOPG)上に滴下したネマティック液晶分子、7CB(4-cyano-4’-heptyl-biphenyl)のSTM像を観測したところ、高バイアス電圧では液晶分子の大きさに対応した周期的な構造を示したのに対し、低バイアス電圧では像が不明瞭になり、太い大きな縞状構造の上に細かい凹凸が重なって同時に観察された。さらに、狭い領域を観測した結果から、この細かい凹凸が基盤であるHOPGの炭素原子に対応することが分かった。条件を元に戻したとき、始めとほぼ同じ構造を示したことから低バイアス電圧条件において分子膜が破壊された可能性は否定された。

 条件によって分子像が変化することを理論的に解釈すると、分子像の生成には測定時のトンネルギャップ巾が重要な役割を果たすことが考えられる。

装置系の開発

 プローブであるトンネル電流(I)のギャップ巾(s)依存性を詳しく検討するため、電流-距離特性(I-s特性)取得の装置を新しく開発した。

 Nanoscope Iのトンネル電流検出部をユニットとして持つ、独自のSTM測定系を構築した。I-s特性取得のため、STM観測中に設定電流値を増減させてトンネルギャップ巾(探針-試料間距離)制御を行なうことが本手法の特長である。これにより安定したトンネルギャップが実現し、制御回路を切らずに探針を鉛直方向に移動させることが可能になった。

 この手法では熱ドリフトによる探針位置の変化が結果に大きな影響を与えるため、補正法について本論文中で詳しく論じている。

I-s特性の取得

 本実験では、STM像の観測中に探針を水平面内で固定し、電流値を0.1nAから4.0nAまで走査することで探針を数nmにわたって鉛直方向に制御することにより広範囲のI-s特性を取得した。トンネル電流は探針と試料の電子雲の重なりによって流れるため、I-s特性は、探針の電子雲をプローブとして観測した、試料表面にある電子雲の鉛直方向への密度分布に対応する。

 HOPG試料、7CB/HOPG試料で観測した結果、距離に対して指数関数的に減少するトンネル電流が観測され、I-s特性の取得システムの完成を確認した。10回の測定を積算することで、位置による違いを平均化して評価している。

 距離の厳密な絶対値は定義上も実測上も決定が難しいが、ピエゾ素子の駆動電圧から探針が実際に動いた距離を見積もったところ、HOPGの場合、トンネル電流は表面から1nmを越えた領域でも流れることが明らかになった。したがって、分子が吸着した場合にもHOPGの電子雲は吸着分子の上空まで分布することになり、分子が吸着した系で基盤が観察されても問題のないことが証明された。

 トンネル障壁()を導出するには、I-s特性の傾きに相当するdI/dsを用いる。I-s特性測定の結果、分子の乗った系では障壁が変化したことから、試料によって異なる電子の流れ方の変化をI-s特性によって捉えたことを示している。

I-s特性のバイアス電圧依存性

 システムが完成したところで、バイアス電圧をパラメータとして各試料のI-s特性を測定し、dI/dsからトンネル障壁を見積もったところ、それぞれの障壁のバイアス電圧に対する依存性が明らかになった。HOPG試料に比べ、7CB/HOPG試料では、大きなバイアス電圧依存性を示した。分子が存在する系では、高バイアス電圧でトンネル障壁は減少したが、このことはバイアス電圧の増大によりトンネル電流に関与する表面の電子雲が空間的に拡がったことを示している。これは高バイアス時に分子像が得られやすいことに対応するデータであり、分子像が電子雲の拡がりの違いを反映していることが示唆された。

I-s特性の位置依存性

 試料表面の水平面内で、連続して取得したI-s特性を等電流線として表示したものがI-sマッピングである。電子雲の密度分布を高さ方向と水平方向の二次元で測定したことに対応するため、電子雲マッピングと呼ぶこともできる。

 HOPG試料で測定した結果、探針が表面に近いところで数A周期の凹凸が確認された。ほぼ同時に観測されたHOPG表面のSTM像から判断して、I-sマッピングの山が炭素原子に相当することが分かる。探針がHOPG表面から遠ざかるにつれてこの周期構造の振幅は次第に小さくなった。これは、測定条件によってHOPG表面の凹凸の大きさが変化することと一致した結果となっている。ここで示された電子雲の垂直方向の分布は、本論文で初めて報告された結果である。

 7CB/HOPG試料のI-sマッピングでは、高バイアス電圧(800mV)のときには探針距離によらず液晶分子に対応した構造が現れたが、低バイアス条件(20mV)では、探針が表面から離れた状態でしか液晶分子の構造を示さない。トンネルギャップ巾に対する液晶分子像の変化がここで示されたことになる。

 以上のように、I-sマッピングでは距離に応じたSTM像を連続的に捉えることが可能であり、探針-試料間の距離を変化させることで、STM像がどのような距離依存性を示すか、視覚的に可能となる。

総括と展望

 以上、I-s特性測定により表面近傍の電子雲の拡がり具合を原子オーダー以下でモニターすることの可能なシステムを完成した。このシステムで、分子像は電子雲の拡がり方が変化した結果得られることを明らかにした。

 通常、STMによる分子のキャラクタリゼーションには走査型トンネル分光法(STS)としてI-V特性が用いられる。バイアス電圧をパラメータとして本I-sマッピングの電圧依存性を取得することで、従来のSTSに電子雲の高さ方向への分布が情報として付加されることとなり、より詳細なキャラクタリゼーションが可能になると思われる。

審査要旨

 本論文では導電性試料の表面を原子オーダーで観察可能な走査型トンネル顕微鏡(STM)を発展させ、単なる表面を観察する方法としてではなく、ナノスケールの高い空間分解能で分子種を分析する手法へとそのアプリケーションの幅を広げる先駆的な試みを行っている。その目的から、STMにおける種々の測定条件に対するトンネル電流の挙動を解析する装置を独自に開発し、従来にない新しい知見を得ている。中でも、トンネル電流Iのギャップ巾s依存性(I-s特性)にもとづく新しい分析顕微鏡の提案と開発を独力で行ない、有機分子のキャラクタリゼーションをナノスケールで行う装置を実現している点は高く評価できる。

 本論文は9章からなる。第1章は、緒言であり、研究の目的とその研究を遂行するに至った動機を解説している。また、第2章は、本論文で開発したトンネル電流によるキャラクタリゼーションを行う装置のもとになったSTMについて、原理から応用まで解説している。この中で、STMで観察される有機分子の像が単なる分子の形状ではなく、分子の存在によるトンネル電流の流れ易さの変化を表したものであることが解説されている。

 第3章以降は論文提出者の研究内容に関する解説である。まず第3章は、論文提出者が開発した装置系の解説であり、ハードウエアからソフトウエアまで詳細に解説されている。ここで開発された装置のハードウエアは基本的にはSTMと同様であるが、単なるSTM測定にとどまらず、トンネル電流の制御、印加電圧、ギャップ巾などのパラメータを、測定者が自在に制御できるよう工夫されている。独自に開発したソフトウエアの測定ルーチンにより熱ドリフトの補正などが行えるようになっているほか、第5、6章で行うようなギャップ巾依存性測定を行うソフトウエアの開発も行っている。開発した装置の性能に関する評価では、原子分解能が達成されている。

 第4章は、開発した装置を用いた有機分子および金属錯体の観察と、得られる像の電圧依存性について議論している。一般に分子の観察では分子運動があるため、分子像を得るためには分子の固定が必要である。論文提出者は自己配向性を持ったネマチック液晶分子、7CB(4-cyano-4’-heptyl-biphenyl)を測定対象に選び、分子像を得ることに成功している。さらに印加電圧の変化により分子像が消失する現象を見出している。この解釈として、印加電圧によるギャップ巾の変化が原因と考え、研究を第5、6章へと発展させている。ほかに、自己配向性が分子運動の抑制に効果的である点に着目して、自己配向性を持った金属錯体の分子像観察を行っている。

 第5章では、トンネル電流のギャップ巾依存性(I-s特性)を測定するシステムに関する解説と測定結果について議論している。I-s特性の測定ではトンネル電流を制御する方法を考案し、熱ドリフトの補正などに独自の工夫を加えて、測定システムを実現している。STMの測定では印加電圧を増加するとギャップ巾が大きくなる。したがって印加電圧による分子像の変化がギャップ巾によるトンネル電流の変化が原因であると考え、それを実験的に実証するのに成功している。またトンネル電流の流れるギャップ巾の範囲が予想を上回り、1nm以上にもわたることも明らかにしている。

 第6章では、第5章の成果に基づき、I-s特性の位置依存性を測定するシステムの開発について解説している。ここでは同じ電流値を与える高さを結ぶことにより、高さ方向でのトンネル電流の変化を2次元的に測定するシステムが実現されており、これは他に例のないものである。このシステムによる液晶試料の測定から、電圧による液晶分子の像の変化が、トンネル電流の試料からの鉛直方向位置での変化によっていることを実験的に明らかにしている。

 最後に第7章は総括と展望、第8章は謝辞、第9章は補遺である。数多くの成果とともに、論文提出者の研究に対する真摯な態度、考察の深さなどが随所にうかがえる論文になっている。

 よって本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認められる。

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