本論文では導電性試料の表面を原子オーダーで観察可能な走査型トンネル顕微鏡(STM)を発展させ、単なる表面を観察する方法としてではなく、ナノスケールの高い空間分解能で分子種を分析する手法へとそのアプリケーションの幅を広げる先駆的な試みを行っている。その目的から、STMにおける種々の測定条件に対するトンネル電流の挙動を解析する装置を独自に開発し、従来にない新しい知見を得ている。中でも、トンネル電流Iのギャップ巾s依存性(I-s特性)にもとづく新しい分析顕微鏡の提案と開発を独力で行ない、有機分子のキャラクタリゼーションをナノスケールで行う装置を実現している点は高く評価できる。 本論文は9章からなる。第1章は、緒言であり、研究の目的とその研究を遂行するに至った動機を解説している。また、第2章は、本論文で開発したトンネル電流によるキャラクタリゼーションを行う装置のもとになったSTMについて、原理から応用まで解説している。この中で、STMで観察される有機分子の像が単なる分子の形状ではなく、分子の存在によるトンネル電流の流れ易さの変化を表したものであることが解説されている。 第3章以降は論文提出者の研究内容に関する解説である。まず第3章は、論文提出者が開発した装置系の解説であり、ハードウエアからソフトウエアまで詳細に解説されている。ここで開発された装置のハードウエアは基本的にはSTMと同様であるが、単なるSTM測定にとどまらず、トンネル電流の制御、印加電圧、ギャップ巾などのパラメータを、測定者が自在に制御できるよう工夫されている。独自に開発したソフトウエアの測定ルーチンにより熱ドリフトの補正などが行えるようになっているほか、第5、6章で行うようなギャップ巾依存性測定を行うソフトウエアの開発も行っている。開発した装置の性能に関する評価では、原子分解能が達成されている。 第4章は、開発した装置を用いた有機分子および金属錯体の観察と、得られる像の電圧依存性について議論している。一般に分子の観察では分子運動があるため、分子像を得るためには分子の固定が必要である。論文提出者は自己配向性を持ったネマチック液晶分子、7CB(4-cyano-4’-heptyl-biphenyl)を測定対象に選び、分子像を得ることに成功している。さらに印加電圧の変化により分子像が消失する現象を見出している。この解釈として、印加電圧によるギャップ巾の変化が原因と考え、研究を第5、6章へと発展させている。ほかに、自己配向性が分子運動の抑制に効果的である点に着目して、自己配向性を持った金属錯体の分子像観察を行っている。 第5章では、トンネル電流のギャップ巾依存性(I-s特性)を測定するシステムに関する解説と測定結果について議論している。I-s特性の測定ではトンネル電流を制御する方法を考案し、熱ドリフトの補正などに独自の工夫を加えて、測定システムを実現している。STMの測定では印加電圧を増加するとギャップ巾が大きくなる。したがって印加電圧による分子像の変化がギャップ巾によるトンネル電流の変化が原因であると考え、それを実験的に実証するのに成功している。またトンネル電流の流れるギャップ巾の範囲が予想を上回り、1nm以上にもわたることも明らかにしている。 第6章では、第5章の成果に基づき、I-s特性の位置依存性を測定するシステムの開発について解説している。ここでは同じ電流値を与える高さを結ぶことにより、高さ方向でのトンネル電流の変化を2次元的に測定するシステムが実現されており、これは他に例のないものである。このシステムによる液晶試料の測定から、電圧による液晶分子の像の変化が、トンネル電流の試料からの鉛直方向位置での変化によっていることを実験的に明らかにしている。 最後に第7章は総括と展望、第8章は謝辞、第9章は補遺である。数多くの成果とともに、論文提出者の研究に対する真摯な態度、考察の深さなどが随所にうかがえる論文になっている。 よって本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認められる。 |