学位論文要旨



No 111464
著者(漢字) 鄭,圭永
著者(英字)
著者(カナ) チョン,キュヨン
標題(和) 京城帝国大学に見る戦前日本の高等教育と国家
標題(洋)
報告番号 111464
報告番号 甲11464
学位授与日 1995.07.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第46号
研究科 教育学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 天野,郁夫
 東京大学 教授 箕浦,康子
 東京大学 教授 浦野,東洋一
 東京大学 教授 土方,苑子
 東京大学 助教授 金子,元久
 名古屋大学 教授 馬越,徹
内容要旨

 本研究では,植民地朝鮮に設立された京城帝国大学について,それが日本の国家により設立され,また国家により規定されつつ植民地朝鮮において教育と学術研究を行う様相を具体的に描き出すことによって,戦前日本の高等教育のあり方の一端を明らかにすることを課題とした。京城帝国大学は,韓国に設立された最初の近代大学であり,また戦前日本が植民地に設立した最初の本格的な大学であるにもかかわらず,未だその実態は解明されていない。これに対し,本論文では,大学の設立に至るまでの過程,大学の構造的な特徴,学術研究の三つの側面を中心に,「高等教育と国家の関係」という視点から,京城帝国大学の実態を明らかにすることを目指した。

 本稿における研究は内容的に以下の3点に要約される。

 第一に,大学の成立に関しては次のことが明らかにされた。日本の為政者たちが韓国併合以来の朝鮮教育政策の問題性を認め,朝鮮に大学を設置する必要性を認識したのは3・1運動直後であった。首相原敬は,朝鮮人に対しても日本人と同じ教育機会を与えることが,朝鮮人を日本帝国に同化させる効果的な方法であるという判断から,新任の朝鮮総督府首脳に「内地」の制度に準拠した教育制度を実施することを求めた。このような本国政府の意向に従い,斎藤実総督は赴任と同時に大学設立の方針を具体化していった。1920年12月23日に総督諮問機関として設立された臨時教育調査委員会は,朝鮮の新学制案に関する審議を行ったが,同委員会に参加した沢柳政太郎が委員会解散直後の1921年6月10日に,法,文,理,工,農,医の6学部を有する官立総合大学「朝鮮大学」の設置に関する意見書を斎藤総督に提出した事実から,同委員会の段階ですでに官立総合大学の設立が予定されていたと見られる。つまり,従来,朝鮮総督府が朝鮮人の手による私立大学の設立の動き(「朝鮮民立大学設立運動」)に対抗するために,官立大学の設立を進めたという理解があったが,実は総督府側が最初からたいへん積極的に大学設立を推進していたわけである。

 大学創設過程においては,「朝鮮帝国大学創設委員会」の核心的な役割が明らかにされた。朝鮮総督府は大学創設委員会を18人の総督府高級官吏と1人の東京帝国大学教授から構成し,朝鮮人関係者は1人も参加させなかった。委員会のメンバーの中では,とくに服部宇之吉,小田省吾,志賀潔,高橋徹の4名が中心的役割を果し,後に京城帝国大学の重要なポストにも就いた。中でも東京帝国大学教授服部宇之吉は,当時日本において国際的に活躍する漢学者として,日本皇室とも関係が深い人物であったが,大学創設において事実上全権を行使したのは彼であった。彼は,大学官制案の大綱,教授の人選,講座の種類と数,大学敷地の選定など,大学創設に関するほとんどすべての事柄の決定に関与し,大学の産婆役と言われた人物である。

 このような日本人中心の大学創設に対し,朝鮮人識者からは,総督府が官立大学の創設に際し朝鮮人たちの理想や意見を全く無視していると厳しく批判したが,結局,朝鮮総督府は,朝鮮における唯一の大学の設立に際し朝鮮の人々の意見を採用しようとせず,京城帝国大学は日本人による日本帝国のための大学として設立されることとなった。

 第二に,京城帝国大学の基本的な特徴については,まず,京城帝国大学は「東洋文化の研究」を特色とすべきであり,大学令第1条の精神に従い,帝国日本のために奉仕する大学でなければならないという考え方が正統的な大学像として最初から明瞭に提示されたことが確認された。「東洋文化の研究」を重視する考え方は,講座構成においてはとくに朝鮮語学・朝鮮文学や朝鮮史学のような朝鮮関係の4講座の設置として表れた。これらの講座は京城帝国大学の朝鮮研究の中心として位置づけられた。

 しかしながら,京城帝国大学の法文学部および医学部の講座構成は,東京帝国大学の該当する学部のそれと基本的に同一であった。そもそも京城帝国大学は,朝鮮教育令によらず本国の大学令および帝国大学令により設立されたため,本国の帝国大学と同一の組織原理と理念に基づいていた。

 京城帝国大学の教育と研究に関しては,国家を助けるものでなければならないことが,繰返し強調された。大学開設の時から京城帝国大学の代表的な大学人たちは,大学令第1条が集約的に表す国家至上的な高等教育の理念について,大学の学者や学生にその重要性を認識させる努力を怠らなかった。国家のための大学という価値観は,京城帝国大学においては,多数の教官と学生が参加する中で毎年厳粛な雰囲気の中で挙行された,各種の国家主義的儀式や行事を通じて大学へ浸透させられたが,それらのセレモニーにおいては「御真影」への礼拝や「勅語」の朗読が中核をなしていた。さらに朝鮮総督府は,1930年以降,四大節のような一般的な祝祭日におけるセレモニーの他にも,日本皇室への忠誠を中核とする国家中心主義的思想の育成を図るため,様々なセレモニーを次々と考案し,京城帝国大学にもその実施を求めた。大学人が,そのような植民地政府の政治的な要求に対し,大学の自治または学問の自由という原理から異議を唱えた形跡はなかった。

 京城帝国大学は他の帝国大学同様,研究中心の大学である。1931年現在,1講座当り学生の数は7.0名であり,法文学部のそれは4.6名であった。1930年度から1941年度までの間,京城帝国大学からは毎年平均126名ほどの学士が輩出されたが,この11年間,その数はほとんど増加していない。1926年から1943年の間,京城帝国大学における朝鮮人学生の学生全体のなかで占める割合は,概ね30%代であった。また,朝鮮にただ一つ存在するこの大学からは,毎年平均42名の朝鮮人の学士が輩出されたが,1930年から1941年までの11年の間に,その数はほとんど増えていない。

 第三に,京城帝国大学の学問的営みに関しては,一人ひとりの学者の学問的営みをその社会的な文脈のなかに定置することを通して,彼らの知的営みの全体的な意味ないしはそのイデオロギー性を解明することを目指した。

 京城帝国大学の学者たちの学術研究には二つの流れがあった。大学開設の時から1930年代半ばまでは,朝鮮に関する研究が中心であり,その後は東アジア大陸に関する研究が中心であった。

 朝鮮を対象とする学問的研究に関しては,朝鮮に関する思想・宗教,歴史,言語,そして,植民地政策論の四つの分野を考察の対象として選んだ。分析に際してはとくに朝鮮総督府の関連政策との関連性および時代的背景の解明が追究された。その結果,思想・宗教と歴史の分野における朝鮮研究が朝鮮総督府の朝鮮統治政策と密接な関係を持っていたことが確認された。朝鮮語学・朝鮮文学第1講座の高橋亨の研究活動は,儒教と仏教を教化政策に利用しようとする朝鮮総督府の文化政策と密接な関連性を持つものであった。また,朝鮮史学講座の教授たちは朝鮮総督府の朝鮮史編修事業において中心的役割を演じたが,同事業の目的は日本による韓国併合を歴史的に正当化する朝鮮史を編纂することであった。

 これに比べて朝鮮語学者である小倉進平(朝鮮語学・朝鮮文学第2講座)の知的営為は,朝鮮総督府の朝鮮統治政策と直接的な関係があるものではなく,むしろ朝鮮語の科学的解明に貢献した功績も認められる。しかしながら,小倉が皇民化政策の時期における朝鮮総督府の朝鮮語弾圧を黙認し,さらには「大東亜共栄圏」の論理に基づく,帝国主義的な日本語海外進出論に同調した事実は,彼の学問的営為が決して自民族中心主義と無関係ではなかったことを示すと言える。

 国際公法学講座の泉哲は,京城帝国大学内の自由主義的学風を代表する学者であった。彼は,20世紀における植民地支配が「強者の権利」ではなく,「文明の責務」としてのみ正当化されるという認識に基づき,朝鮮人に対する日本政府の民族同化政策の不合理性を厳しく追及した。彼は,朝鮮を日本国と日本人のために利用しようとする本国本位主義を批判し,朝鮮人に対しては日本人以上の援助を与える朝鮮本位の政策をとらなければならないと主張した。しかしながら泉は,自説に対する朝鮮総督府の言論弾圧に屈し,自分の朝鮮論を貫徹することができなかった。さらに彼は,満州国問題をめぐる論議においては明確に愛国主義的な態度を取ることとなる。

 戦時期における京城帝国大学の学術研究の特徴は,「満蒙文化研究会」とその後身「大陸文化研究会」の活動に集約的に表れた。とくに「京城帝国大学蒙疆学術探検隊」(1938年7月〜9月)と2回の「大陸文化講座」(1939年9月〜11月と1941年5月〜6月)は,この時期の京城帝国大学のあり方を如実に表わすものであった。前者は朝鮮総督府や関東軍など国家権力の支援の下で大陸で行われた学術調査であり,後者は延べ1万人以上の聴講者を集めた,朝鮮では初めての大規模の大学公開講座であった。戦時期の京城帝国大学では,安田幹太教授のように,総督府学務当局による大学統制に抵抗した例もあったが,「正統派」の教授らは朝鮮総督府の皇民化政策と朝鮮民衆の戦時動員政策に積極的に協力した。

 このように,京城帝国大学の歴史における中心軸は,日本の「国家」であった。この「学問の府」と,異民族に対する民族同化政策を強行し,そのうえ無謀な対外進出を繰り広げる国家の統治者たちとの間にはほとんど「距離」がなかった。また,植民地の最高学府と植民地民の間には,意味ある相互作用がほとんどなかった。結局,このような植民地朝鮮の帝国大学のあり方が表わしているのは,「学問に権なくして却て世の専制を助」ける(福沢論吉)という,高等教育と国家との戦前日本的な関係の一側面に他ならない。

審査要旨

 戦前期、日本が朝鮮と台湾に創設した2校の植民地大学は,近代日本大学史の影の部分として長く日本の研究者の研究対象とされることがなかった。それは韓国においても同様であり、日本の敗戦とともに廃校になった同大学は、歴史の暗闇に放置されてきた。本論文は、その忘れられた京城帝国大学に光をあて、同大学の成立と発展の過程を、主として学術研究と理念・イデオロギーの側面に焦点をしぼって分析することを通して、戦前期日本における国家と大学の関係を明らかにしようとするものである。

 1926年の京城帝国大学の創設については、これまでの数少ない研究によれば、朝鮮人自身による「民立大学」創設運動への対抗的措置とする解釈が支配的であった。本論文は枢密院記録、公文類聚等の日本側、東亜日報などの韓国側の新資料の発掘を踏まえて、この「定説」を否定し、それが日本政府=朝鮮総督府による積極的な、対朝鮮植民地政策としての文化的同化政策の一環であることを明らかにするとともに、その政策的意図が同大学の学術研究活動にきびしく貫ぬかれていたことを分析している。それによれば京城帝国大学は他の帝国大学とまったく同等の「日本国家」の大学として、しかも「東洋文化の研究」、なかんずく朝鮮の文化、歴史、社会の研究を重視する「植民地」大学として創設され、教育研究活動はその使命に忠実に営まれた。朝鮮関係の諸講座を中心とした日本人教授の学問的営為や、日中戦争後の大学における研究活動の変化の克明な分析は、抑制された記述のなかに、そうした同大学の植民地大学としての性格と限界を描き出すことに成功している。そしてその分析は同時に、国家の大学としての帝国大学の、日本人研究者によってともすれば見逃されがちな、国家主義的な側面を実証的に浮き彫りにするものとなっている。

 京城帝国大学という一大学の、しかも視点を国家と大学の関係性という一点にしぼった分析に、いくつかの問題がないわけではない。たとえば同大学が当時の朝鮮の教育体制、なかんずく高等教育体制のなかで、どのような位置をしめ役割をはたしていたのか。また本論文が焦点をしぼっている東洋・朝鮮研究以外の、同大学の学問的営為はどうであったのか。さらには同大学が解放後の韓国の高等教育や学術研究に残した「遺産」はいかなるものであったかなど、興味深い重要な課題が分析の対象とされぬままに残されている。

 しかし、そのことは本論文の価値を損なうものではない。短い歴史と植民地大学という性格、そして廃校という悲運の故に長く本格的な研究の対象とされぬままに残されてきた京城帝国大学に、はじめて緻密で実証的な分析の光をあてた本論文は、日韓両国の教育史・高等教育史の空白を埋める最初の、しかも本格的な努力の成果として、重要な意義をもっている。

 審査委員会は以上の審査の結果から、本論文が博士(教育学)の学位を授与するにふさわしいものと判断する。

UTokyo Repositoryリンク