学位論文要旨



No 111468
著者(漢字) 市川,創作
著者(英字)
著者(カナ) イチカワ,ソウサク
標題(和) 逆ミセルを利用したタンパク質の抽出に関する基礎的研究
標題(洋)
報告番号 111468
報告番号 甲11468
学位授与日 1995.07.13
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3490号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古崎,新太郎
 東京大学 教授 戸田,清
 東京大学 教授 長棟,輝行
 東京大学 助教授 鈴木,栄二
 東京大学 講師 関,実
内容要旨

 本研究は、酵素や生理活性タンパク質などの有用物質を生産するプロセスで重要となるバイオ生産物の分離・精製の分野において、両親媒性分子により自発的に形成される分子集合体である逆ミセルを利用する新規なタンパク質の抽出法の実用化を目指す基礎として、工学的に重要なタンパク質の正抽出と逆抽出、及び活性回収に対する両親媒性分子濃度の影響を定量的に評価すると共に、タンパク質の可溶化状態について検討を行い、これを基に、効率的な抽出操作条件を設計する指針を提案したものである。以下に各章ごとの内容を要約し、その成果と意義を記述する。

第一章緒論

 本研究の背景として、逆ミセルを利用した生化学物質の抽出分離に関する既往の研究をまとめ、正抽出と逆抽出の挙動、及び活性回収に対する両親媒性分子濃度の影響を明らかにし、効率的な抽出条件の設計指針を示すことの重要性を指摘し、本研究の目的を述べた。

第二章cytochrome cの正抽出に対するAOT濃度の影響

 逆ミセルを利用したタンパク質の正抽出操作は、タンパク質が両親媒性分子、水分子と共に分子集合体を形成し、非極性有機溶媒に可溶化される現象と捉えることができる。両親媒性分子は、本分離法に必要不可欠な成分であり、その濃度がタンパク質の抽出挙動に及ぼす影響を検討することは重要である。そこで、本章では、モデルタンパク質としてcytochrome cの正抽出挙動に対する、両親媒性分子スルホコハク酸ジ-2-エチルヘキシルナトリウム(以降 関連分野での慣例に従いAOTと略記する。)の濃度の影響を実験的に検討した。結果と結論を以下に要約する。

 (1)初期水相のcytochrome cを100%正抽出できる至適なpH領域が存在し、そのpH範囲はAOT濃度の減少に伴って狭くなることを示した。

 (2)至適なpH条件の下で、初期水相中のcytochrome cを100%正抽出するために最少限度必要なAOTの濃度が存在することをはじめて示し、その濃度をminimal AOT濃度と呼んだ(図1参照)。このminimal AOT濃度は、効率的な正抽出操作を行うための、両親媒性分子濃度の条件設計の指標として重要である。

 minimal AOT濃度は、lysozyme(Naoe,1993)、及びribonuclease A(Natsume,1993)を正抽出した場合にも測定された。この結果から、AOTを用いた逆ミセル抽出において、minimal AOT濃度が一般的に存在し、この条件では、タンパク質の種類の相違を越えた一般的な抽出可溶化の機構的な背景が存在することが示唆される。

第三章minimal AOT濃度におけるタンパク質の可溶化状態

 本章では、minimal AOT濃度の条件において正抽出を行った逆ミセル有機相中のタンパク質と水分との量論的な関係を検討し、タンパク質の可溶化状態につて考察を行い、minimal AOT濃度が定まる背景について論じた。結果と結論を以下に要約する。

 (1)minimal AOT濃度の条件で抽出を行った逆ミセル有機相中では、cytochrome c濃度やAOT濃度によらず、cytochrome cと水分子とが一定の比率で存在していることを示した(図2参照)。

 図2の傾きは、タンパク質1分子に対して平均的に存在する水分子の数を表わしていると考えることができる。そこで、この傾きをタンパク質の正抽出・可溶化に必要な親水的環境H.S.(hydrophilic surroundings)と呼ぶことにした。

図表図1 cytochrome cの正抽出率に対する両親媒性分子AOT濃度の影響pH8,KCl0.1M / 図2 minimal AOT濃度の条件における逆ミセル有機相中のcytochrome c濃度と水分濃度の関係

 lysozyme(Naoe,1993)とribonuclease A(Natsume,1993)を正抽出した場合にもH.S.が測定された。この結果は、通常、非極性有機溶媒には溶解しないタンパク質が、逆ミセル有機相に正抽出・可溶化されるためには、有機相に親水的な環境の形成が必要であることを示唆している。

 (2)各タンパク質の正抽出・可溶化に必要なH.S.は、タンパク質の疎水性-親水性の指標と関係することが予想される。そこで、タンパク質の疎水性-親水性の指標としてFisher(1964)の提案したp値を用いると、各タンパク質のH.S.とp値とは、図3に示した様に、実験の範囲で良好な相関を示した。

 p値は、(極性残基の体積の和)/(非極性残基体積の和)で定義され、親水性の高いタンパク質ほど大きな値を示す。図3の相関は、親水性の高いタンパク質ほど、逆ミセル有機相中に、正抽出・可溶化のための水分子を多く必要とすることを示している。

 (3)図3で得られたH.S.とp値との相関を利用して、タンパク質の正抽出に必要な両親媒性分子AOT濃度の推算方法を提案した。

 すなわち、タンパク質のアミノ酸組成から、疎水性-親水性の指標であるp値を算出する。図3の相関を利用して、算出されたp値に対応するH.S.を求める。次に、抽出するタンパク質の数とH.S.の積から、可溶化に必要な逆ミセル有機相の水分量を算出する。そして、予め求められている有機相水分濃度とAOT濃度の相関から、正抽出に必要なAOT濃度が推算できる。

図3 タンパク質の可溶化に必要な親水的環境H.S.とタンパク質の疎水性-親水性の指標p値との相関

 (4)minimal AOT濃度の条件においてcytochrome cを正抽出・可溶化した逆ミセル有機相は、タンパク質を含まない同じAOT濃度の有機相に比べて多くの水を可溶化していることを示した。また、lysozyme(Naoe,1993)についても同様の結果が得られた。一方、ribonuclease A(Natsume,1993)を正抽出した場合、過剰な水の可溶化は測定されなかった。

 これらタンパク質の正抽出に伴う水分子の可溶化挙動について、AOT逆ミセル中でのタンパク質の可溶化位置と関連付けて考察を行った。すなわち、cytochrome cは逆ミセル内のwater poolと有機溶媒の界面に形成されるAOT分子層に可溶化していると考えられる。cytochrome cやlysozymeは、逆ミセルのAOT分子層に可溶化することで、water poolと有機溶媒との界面積を拡張し、過剰な水の可溶化を促したと考えられる。一方、ribonuclease Aは、AOT逆ミセルのwater pool内に可溶化していると考えられ、この様な位置に可溶化された場合、界面積は拡張されず、過剰な水の可溶化は行われなかったと考察される。

第四章タンパク質の活性収率に対するAOT濃度の影響

 酵素などのバイオ生産物は、希薄な濃度で生産され、また、活性を有するものが多い。従って、分離操作を経て得られる目的物質の回収率と活性が工学的に重要となる。本章では、AOT逆ミセルを利用してcytochrome c(初期水相中の濃度7.8x10-2mM)を抽出する系を取り上げ、正抽出と逆抽出を行った後に得られる活性収率に対する、AOT濃度の影響を実験的に検討した。結果と結論を以下に要約する。

 (1)正抽出率は、AOT濃度と共に増加し、minimal AOT濃度、すなわち、15mM以上のAOT濃度では100%の正抽出率を示した。

 (2)cytochrome cを正抽出後、水相と逆ミセル有機相が共存する状態で、25℃の恒温中に静置した場合、AOT濃度50mM以下の条件では、cytochrome cが赤褐色のゲル状物質となって水相と逆ミセル有機相の界面に沈殿した。

 通常の操作では、正抽出後、直ちに逆抽出操作を行うことで沈殿の生成を避けることができる。しかし、このような沈殿生成を抑制、あるいは遅延できる操作条件を示すことができれば、操作条件設定の選択の幅を広くすることができる。そこで、10℃の低温で正抽出を行った。その結果、minimal AOT濃度を変えずに、cytochrome cの沈殿生成を遅延できることがわかった。

 (3)正抽出されたcytochrome cをKCl1.0Mの水相で逆抽出した場合、逆抽出率はAOT濃度50mM以下の条件で90%以上の高い値を示した。一方、これを超える高いAOT濃度の条件において、逆抽出率は、AOT濃度の増加に伴い減少した。

 高い逆抽出率が得られたAOT濃度の条件が、cytochrome cの沈殿が観察されたAOT濃度の条件とほぼ一致している結果より、経時的に不安定な状態で正抽出されたcytochrome cは、逆抽出されやすいと考えられる。

 (4)正・逆抽出操作を経て水相に回収されたcytochrome cのアスコルビン酸による還元反応活性は、いずれのAOT濃度においても、ほぼ100%保持されていた。

 また、円偏光二色性スペクトルの測定結果から(図4参照)、cytochrome cは、構造変化を伴って正抽出されていることがわかった。しかし、水相に逆抽出すると水相中のnativeなcytochrome cと同様のスペクトルを示すことから、逆抽出を行うと水相中のnativeな構造にリフォールディングすることがわかった。この結果は、正・逆抽出操作後の反応活性がほぼ100%保持されていた結果と対応している。

図4 正抽出、及び逆抽出後のcytochrome cの円偏光二色性スペクトル

 (5)正抽出と逆抽出を行った後に回収されたcytochrome cの活性収率は、AOT濃度20mMにおいて極大を示し、活性収率に対して至適なAOT濃度が存在することを示した(図5参照)。

図5 正抽出と逆抽出を行った後に回収されたcytochrome cの活性収率に対するAOT濃度の影響

 活性収率の極大値を与える至適なAOT濃度が、100%の正抽出に必要な最少限の両親媒性分子濃度であるminimal AOT濃度の近傍に見い出された結果は、経時的に安定な可溶化が行われるAOT濃度の過剰な条件よりも、不安定ではあっても100%の正抽出が行われるminimal AOT濃度近傍の条件が、正・逆抽出プロセス全体をとらえた場合にも、重要であることを示している。

 また、正・逆抽出操作の一連の定量的な評価から、高い活性収率を得るための操作方法として、minimal AOT濃度の近傍の条件において正抽出を行い、直ちに逆抽出を行う操作方法を提案することができる。

第五章本研究の総括

 本研究を総括し、逆ミセルを利用したタンパク質の抽出に関する今後の展望を述べた。

参考文献Fisher,H.F.,Proc.Natn.Acad.Sci.,51,1285(1964).Naoe,K.,Master’s Thesis(Tokyo Univ.of Agri.& Tech.),1993.Natsume,T.,Graduation Thesis(Tokyo Univ.of Agri.& Tech.),1993.
審査要旨

 酵素や生理活性タンパク質などの有用生化学物質を生産するバイオプロセスにおいては、バイオセパレーション技術の進展は重要である。本論文は、"逆ミセルを利用したタンパク質の抽出に関する基礎的研究"と題し、両親媒性分子により非極性有機溶媒中に自発的に形成される分子集合体である逆ミセルを使った新規なタンパク質抽出法の工学的な基礎研究として、タンパク質の正抽出と逆抽出、及び活性回収に対する両親媒性分子濃度の影響を定量的に評価すると共に、タンパク質の可溶化状態について検討を行い、これを基に、効率的な抽出操作条件を設計する指針を提案したものである。論文は全5章から成っている。

 第一章では、本研究の背景として、逆ミセルを利用したタンパク質の抽出分離に関する既往の研究をまとめ、本研究の目的、及び、論文の構成を述べている。

 第二章では、モデルタンパク質としてcytochrome cの正抽出挙動に対する、両親媒性分子 ジ(2-エチルヘキシル)スルホコハク酸ナトリウム(登録商標名 Aerosol OT; 以降AOTと略記する)の濃度の影響を実験的に検討している。その結果、初期水相のcytochrome cを100%正抽出できる至適なpH領域が存在し、そのpH範囲はAOT濃度の減少に伴って狭くなることを示した。また、至適なpH条件の下で、初期水相中のcytochrome cを100%正抽出するために最少限度必要なAOTの濃度、すなわち、minimal AOT濃度が存在することをはじめて示した。このminimal AOT濃度は、効率的な正抽出操作を行うための、両親媒性分子濃度の条件設計の指標として有効である。また、minimal AOT濃度が見い出されたことで、第三章で展開されているタンパク質の可溶化状態に関する考察に価値ある展開を示した点で評価できる。

 第三章では、minimal AOT濃度の条件において正抽出を行った逆ミセル有機相中のタンパク質と水分との量論的な関係について、cytochrome c、lysozyme、及び、ribonuclease Aの結果について検討し、タンパク質の可溶化状態について考察を行い、minimal AOT濃度が定まる背景について論じている。その結果、この条件で正抽出を行った逆ミセル有機相中では、タンパク質やAOTの濃度によらず、タンパク質と水分子とが一定の比率で存在していることを示した。その比率は、タンパク質1分子の正抽出・可溶化に必要な親水的環境H.S.(hydrophilic surroundings)を逆ミセル有機相に提供している水分子の数と考察し、各タンパク質のH.S.とタンパク質の疎水性-親水性の指標の一つであるp値との正比例の相関を示した。また、この相関を利用して、タンパク質の正抽出に必要な両親媒性分子AOT濃度の推算方法を提案した。この手法は、抽出操作条件を設計する際に有効である。minimal AOT濃度の条件において、各タンパク質に共通する正抽出・可溶化の背景を示した成果は、可溶化挙動に対する、より一般的な解釈と整理法を示した点で評価できる。

 第四章では、工学的に重要な、正・逆抽出操作を経て得られるタンパク質の回収率と活性に着目し、AOT濃度の影響を検討している。その結果、正・逆抽出操作後、水相に回収されたcytochrome cの活性は、いずれのAOT濃度においても、100%保持されていることがわかった。また、円偏光二色性スペクトルの測定結果から、cytochrome cは、構造変化を伴って正抽出されるが、逆抽出すると水相中のnativeな構造にリフォールディングすることを示し、活性測定の結果と対応することを指摘した。回収されたcytochrome cの活性収率は、AOT濃度に対して極大を示し、minimal AOT濃度の近傍に至適なAOT濃度が存在することを示した。この結果は、効率的な抽出操作条件を選択する指針を示した点で評価できる。

 第五章では、本論文を総括し、今後の展望を述べている。

 以上、本論文は逆ミセルを利用した新規なタンパク質の抽出法において、タンパク質の正抽出と逆抽出、及び、活性回収に対する両親媒性分子濃度の影響を詳しく検討し、抽出・可溶化の一般的な挙動を指摘し、これに基づき効率的な抽出操作条件を設計する指針を提案したもので、生物化学工学とくに生物分離工学の進展に寄与するところが大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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