学位論文要旨



No 111469
著者(漢字) 武田,俊哉
著者(英字)
著者(カナ) タケダ,トシヤ
標題(和) ベニバナ培養細胞によるビタミンE生産に関する工学的研究
標題(洋)
報告番号 111469
報告番号 甲11469
学位授与日 1995.07.13
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3491号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古崎,新太郎
 東京大学 教授 戸田,清
 東京大学 教授 長棟,輝行
 東京大学 助教授 鈴木,栄二
 東京大学 講師 関,実
内容要旨

 本研究は,植物細胞培養法による物質生産を対象とした,バイオリアクターシステムの設計指針を確立することを目的とした。植物細胞培養法は,脱分化した細胞を用いて植物由来の有用物質を大量かつ環境条件に対して安定に生産する上で有望な方法である。特に,植物の二次代謝産物である薬効成分,染料,食品添加物等の生産法として期待されている。しかしながら、商業的生産に結び付いた例は少なく,また生産操作法も経験的な知見に依るところが大きい。

 本システムの確立のためには,植物細胞における目的物質の生産性制御方法,リアクター操作にともなう物理的ストレスに対する植物細胞の耐久性を明らかにしなくてはならない。そこで,本研究ではバイオリアクターの操作条件に対する植物細胞の増殖性,二次代謝産物の生産性の応答を速度論的に解明し,生産法の改良を行うための指針を示すことを目指した。

 対象として,ベニバナ細胞によるビタミンE生産を選択した。ベニバナは良質のビタミンEを多く含有するため商業的価値が高く,また既に安定的な脱分化細胞が得られているため,本研究の対象として適している。

第1章緒論

 本研究の背景として,植物細胞培養に関する研究の流れを示し,植物細胞培養の課題,特に細胞の増殖および二次代謝系の,培養操作条件およびリアクター中の流体ストレスに対する応答性を解明することの重要性を指摘し,本研究の目的を述べた。また,本研究で対象としたベニバナ細胞およびビタミンEについてその性質を示した。

第2章ベニバナ細胞によるビタミンE生産に対する有効因子の評価と制御

 本章では,ベニバナ細胞によるビタミンE生産について,培養操作条件に対する応答を実験的に検討した結果を示した。植物細胞による物質生産性は,細胞内代謝系の複雑な関連による制御下にあり,その機構は解明されていない。培地組成,ガス環境などの培養操作条件は多成分系であり,すべての成分に対する個々の応答についての検討は有益ではない。本研究では,回分培養および反復回分培養で観察された細胞の増殖,ビタミンEの生産の挙動,実験計画法を用いた培地成分の検討より,特に増殖,生産に作用すると考えられた成分についてさらに検討を進めることにより,有効因子の効果について評価をおこなった。以下に結論を要約する。

 (1)回分培養において,ビタミンEの比生産速度は,培養の極初期に低い値を示したのち最大値を示し,その後細胞量の増加にともない低下する挙動を示した(図1)。

 (2)6日毎に90%の細胞懸濁液を新鮮培地に交換する反復回分培養を行った。この操作により,細胞の比増殖速度,ビタミンEの比生産速度がともに高く維持された。また,その天然種子中の含有量を超える高いビタミンE含有量をもつ培養細胞が得られた(図2)。

図表図1.回分培養における細胞の増殖とビタミンE(トコフェロール)含有量の変化(DCW:乾燥重量) / 図2.反復回分培養における細胞の増殖とビタミンE(トコフェロール)含有量の変化

 (3)細胞の増殖,ビタミンEの生産は,細胞濃度が低いときに低下すること,既に細胞を培養した培養液(培養ろ液)の添加により,増殖,生産性が向上することから,一定量以上の細胞放出性の物質(コンディショニング因子)が細胞の増殖およびビタミンEの生産に必要であることを示した。

 (4)気泡筒を用いて,供給ガス中の酸素分圧を操作することにより溶存酸素濃度(DO)を制御した短期的な細胞の培養を行って,ビタミンEの比生産速度の応答を測定した。その結果,溶存酸素濃度の9ppmまでの増加によってビタミンEの生産が促進することが観察された(図3)。

図3.溶存酸素濃度と比生産速度の関係

 (5)酸素分圧を調整した空気を上面通気した,フラスコ振とう培養により,DO濃度を8ppmに制御した30日間の回分培養を行った。その結果,培養の初期においては,対照として行ったDO非制御培養において見られた比生産速度の低下を示さず,高い比生産速度を維持したが,その後対照培養と同様に低下する挙動を示した。

 (6)培地成分についての評価により,リン酸塩が長期的な細胞の増殖に,糖濃度がビタミンE生産に関与していることを明らかにした。さらに,糖濃度の効果については,主に浸透圧の効果によることを示した。

第3章構造化モデルによる増殖と生産の解析

 操作条件の制御を行う上で,増殖,二次代謝生産の挙動を予測を可能とするためのモデルが必要となる。植物培養細胞における増殖・二次代謝生産については,数例のモデルが提案されているが,未だ確立されていない。

 培養操作条件に対する植物細胞の応答は,細胞内の構造変化をともなう。従って,植物細胞のモデル化にあたっては,細胞内の構造を考慮に入れた構造化モデルの構築が必要となる。本研究では,回分および反復回分培養における,細胞の増殖およびビタミンE生産の記述を目的とした構造化モデルを提案した。本モデルは,細胞内の呼吸基質を中心にしたコンパートメントモデルの構築,コンディショニング因子の効果の導入により,植物細胞の増殖および二次代謝生産の記述を可能とした。

 植物細胞は,動物・微生物細胞を比較して,細胞内にデンプン等の形で呼吸基質原料を貯蔵する点に特異性を有すること,アミノ酸等の細胞構造体や二次代謝系の前駆体が,呼吸基質を出発物質としていることから,コンパートメントモデルの構築にあたって呼吸基質を考慮する必要がある。細胞内の組成区分を,「呼吸基質」を中心に「貯蔵炭水化物」,「細胞構造体」に分け,呼吸基質と貯蔵炭水化物の変換速度をエネルギー物質量を代表するリン酸塩濃度の関数とした。また,コンディショニング因子については,細胞の増殖に比例して生産され,細胞内外に一定比で分配するものと仮定した。

 これらの仮定により,細胞外の糖の消費前後にわたる細胞の増殖挙動,反復回分培養における増殖挙動に適合するモデルを提案した。

 また,ビタミンEの生産に関しては,前章で得られた実験結果より,前駆体量が呼吸基質量に対応し,溶存酸素濃度により生産速度が制御されると仮定することにより,回分および反復回分培養における挙動を表わすことができた。

第4章撹拌操作により生じる流体ストレスによる細胞の変化

 リアクター内での培養を行ううえで,通気撹はん操作により生じる流体ストレスは,流体の混合,細胞の懸濁,主に気体成分の物質移動を実現するうえで必然的に生じる。しかしながら,通気撹拌操作は,多くの場合増殖性、生産性の低下を生じることが指摘されている。従って,リアクター操作にあたっては,細胞の生存性維持のための物理的条件を考慮することが必要となる。そこで,細胞の生存率の流体ストレスに対する応答を知ることが要求される。

 植物培養細胞の流体ストレスに対する応答については,報告例は少ない。動物細胞についての検討では,流体ストレスが細胞内に伝達されることが指摘されているが,その機構は明らかにされていない。

 温度(27℃)および撹拌速度(200〜400rpm)を制御した撹拌槽中で,24時間の培養を行い,細胞量,撹拌操作後の細胞増殖,呼吸活性,膜透過選択性の評価を行った。その結果,撹拌速度の増加にともない,呼吸活性,膜透過選択性の低下が見られた(図4)。さらにその過程における,呼吸活性,膜透過選択性の経時変化を測定したところ,呼吸活性は培養初期より,撹拌操作による低下が観察された。細胞破壊が観測されず,膜透過選択性に低下が見られない撹拌条件下において,呼吸活性の低下が見られたため,植物細胞においても流体ストレスの細胞内への伝達機構が存在することを示した。さらに,細胞内のATP含有量を評価したところ,撹拌操作により減少する挙動が見られた(図5)。

図表図4.撹拌操作による生存率の変化 (a)膜透過選択性,(b)呼吸活性,(c)撹拌操作後の増殖(○:DO非制御,●:DO7ppm) / 図5.撹拌操作によるATPの減少(△▲)ADP,(○●)ATP,(▲●)振とうフラスコ,(△○)撹拌槽

 ここで得られた知見により,撹拌操作による細胞の増殖,生産活性の低下は,細胞内のエネルギー代謝の変化に起因することが推察された。

第5章本研究の総括と展望

 本研究を総括し,植物細胞培養法による物質生産に関する今後の展望を述べた。

審査要旨

 植物細胞培養法は,脱分化した細胞を用いて植物由来の有用物質を大量かつ環境条件に対して安定に生産する上で有望な方法である。植物細胞の二次代謝系は環境条件に対して鋭敏に反応するため,植物培養細胞を物質生産に広く利用するためには,化学的および物理的な培養操作条件に対する植物細胞の代謝応答の解明およびその評価法の確立が必要とされる。本論文はベニバナ細胞によるビタミンE生産を対象として,培養操作条件に対する植物細胞の増殖性,二次代謝産物の生産性の応答を速度論的に解明し,生産法の改良を行うための指針を示すことを目指したもので,「ベニバナ細胞によるビタミンE生産に関する工学的研究」と題し,全5章から成っている。

 第1章では,本研究の背景として,植物細胞培養に関する研究の流れを示し,植物細胞培養の課題,特に細胞の増殖および二次代謝系の,化学的因子および物理的因子に対する応答性を解明することの重要性を指摘し,本研究の目的を述べた。

 第2章では,ベニバナ細胞によるビタミンE生産について,培養操作法,特に化学的因子に対する応答を実験的に検討した。ベニバナ細胞の増殖,ビタミンEの生産に対して,細胞接種量,既に細胞を培養した後の培養ろ液の添加量を増加することにより,細胞の比増殖速度,ビタミンEの比生産速度が増加することから細胞分泌物(コンディショニング因子)が必要であることが明らかになった。また,培養初期においては溶存酸素濃度の9mg/Lまでの増加により比生産速度が増加すること,その一方長期的な回分培養においては溶存酸素濃度の制御により比生産速度は維持されないことがわかった。また,実験計画法を用いた培地成分の検討により,特に天然物であるカサミノ酸の量,糖の浸透圧調整効果によりビタミンEの生産速度が律せられていることが明らかになった。さらに,反復回分(半連続)培養を行うことにより,細胞の比増殖速度,ビタミンEの比生産速度がともに高く維持され,天然種子中の含有量を超える高いビタミンE含有量をもつ培養細胞が得られた。

 第3章では,構造化モデルを開発し,ベニバナ細胞の増殖とビタミンEの生産の速度論的な解析を行った。呼吸基質を代謝の中心にとらえ,貯蔵炭水化物,細胞構造体への変換をリン酸塩による調節を考慮して記述することにより,コンパートメントモデルを構築した。また,有効成分が同定されていないコンディショニング因子について,半連続培養における細胞増殖の挙動から,生産速度,細胞内蓄積割合を推察する方法を示した。ここで開発したコンパートメントモデルおよびコンディショニングの効果を組み合わせることにより,回分および反復回分培養における,細胞の増殖およびビタミンE生産の挙動を速度論的に記述することが可能であることを示した。

 第4章では,撹拌操作により生じる流体ストレスによる細胞内代謝系の変化を検討した。温度および撹拌速度を制御した撹拌槽中で,24時間の培養を行い,その結果,撹拌速度の増加にともない,細胞数が増加,呼吸活性および膜透過選択性が低下することを示した。さらに,撹拌操作による呼吸活性の低下は,細胞の破壊,膜透過選択性の低下に先行して,培養初期より起こっていることがわかった。さらに,細胞内のATP含有量を評価し,撹拌操作により減少する挙動を明らかにした。これらの知見は,植物細胞において撹拌により生じる流体ストレスの細胞内の特にエネルギー代謝系への伝達機構が存在することを示すものである。また,画像処理を用いた解析により撹拌培養の初期(2.5時間)にアグリゲートの細分化が進行することを明らかにした。

 第5章では,本論文を総括した。

 以上,本論文はベニバナ細胞の増殖,ビタミンEの生産に関与する化学的因子を系統的に探索し,半連続培養により高い増殖速度,生産速度が維持されることを実験的に示すとともに,新規な構造化モデルを開発してその解析に用い,また,リアクター培養における撹拌ストレスにより細胞内に生じる代謝系の変化を明らかにしたもので,植物細胞培養における物質生産の今後の発展に対して,有用な知見および手法を提示したものであり,植物培養細胞を利用するバイオテクノロジーの展開に寄与するところが大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/53889