学位論文要旨



No 111484
著者(漢字) 只,金芳
著者(英字)
著者(カナ) シ,キンポウ
標題(和) スピロピラン誘導体を用いるマルチモード光電気化学スイッチングに関する研究
標題(洋) A multi-Mode Optical-Electrical Molecular Switching : Electrochromic and Photochromic Behavior of Spirobenzopyrans
報告番号 111484
報告番号 甲11484
学位授与日 1995.09.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3502号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤嶋,昭
 東京大学 教授 堀江,一之
 東京大学 助教授 辰巳,敬
 東京大学 助教授 橋本,和仁
 東京大学 講師 岸本,昭
内容要旨

 光、電気等の外部刺激に応答する分子は、情報を変換する分子素子として、メモリーやスイッチへの応用が期待されている。さらに、1分子中に複数の刺激応答機能を集積化することができれば、分子機能の高密度化と同時に、それらが共役的に働くことにより新たな機能の発現を可能にする。本研究では、分子の光化学応答と電気化学的応答を組み合わせることによる高密度分子素子の構築を目指している。そのために、最も代表的なフォトクロミズム分子の一つであるスピロピランを機能性分子として用いて、これまでほとんど研究されていなかったその電気化学的性質及びエレクトロクロミズム挙動を検討した。その結果、ニトロ基置換スピロピラン誘導体において可逆的に光異性化する開、閉環体、及び電気化学還元体である閉環ラジカルとの間にユニークな光電気化学的反応系を見いだした。この反応系を利用して、実用的な多重、多機能記録材料としての可能性について種々の検討を行った。

 本研究で用いたスピロピラン誘導体(日本感光色素研究所及び東京化成)の分子構造をFig.1に示す。フォトエレクトロクロミズムについては、主に薄層セルを用いた分光電気化学的手法によって検討した。また、反応機構の解明および制御のために、低温下(-30〜-50℃)でのin-situ分光測定を透明デユワー中で行った。反応中間体に関する検討には、低温NMRおよびFT-IRなどを用いた。なお、測定はすべて減圧密閉したガラスセルの中で行った。

スピロピラン誘導体の電気化学特性

 a) 還元 ニトロ置換基を持たないスピロピラン(SP-0,SP-Br,SP-OCH3)のDMF/TBAPF6中でのサイクリックボルタモグラム(CV)には、0Vから-1.8 Vまでの範囲において、酸化波も還元波も観察されなかった。これに対してニトロ置換基を有するスピロピランは電気化学的な挙動を示した。 -1.0V付近から観察される還元波はNO2のNO2ラジカルへの還元に起因している。一方、メトキシ基置換されたSP-2とSP-18のNO2還元電位はSP-1とほぼ同じであった(Table1)。この理由としては、NO2基の還元反応は、分子骨格にほんどん影響されず、従って、注入電子はニトロ基に局在するものと示唆された。

 b) 酸化 スピロピラン誘導体の酸化波は+1.2V〜+1.4Vの範囲でピークを示した。この電位はインドリン環の酸化に対応することが推定された。Table 1に種々の置換基を持つスピロピラン及びインドリンの酸化ピーク電位をまとめた。ベンゾピラン環を有するスピロピランにおけるインドリン環の酸化電位は1,3,3-トリメチル-2-メチレンインドリン(TMI)より高くなる傾向を示し、電子吸引性のニトロ基を持ったスピロピランの酸化電位が高くなることが観測された。

図表Fig.1 Molecular structure and photochromic process of spirobenzopyrans studied. / Table 1.Comparison of redox peak potentials for the spirobenzopyrans
ニトロスピロピラン誘導体の光電気化学特性

 a) 溶媒中のフォトクロミズム

 Fig.2にDMF中でSP-1の紫外光照射前後の常温及び低温(-42℃)における吸収スペクトルを示す。DMF中では当初無色体(SP)だが、紫外光照射によって、フォトクロミック反応を起し速やか吸収極大が560nmの着色体(MC)に変化する。低温でこの吸収帯は短波長側にわずかにシフト(556nm)して、吸光強度が増大することも観測された。この結果は、低温でMCが安定することを示唆している。

 b) 開環着色体(MC)の電気化学特性開環体の寿命が短く単離することが難しく、また、常温では MCへの転化率を上げることも容易でないため、可視光、紫外光照射のいずれの場合もCVの形状はほとんど変わらず、しかも、多くの副反応を含むと推察される複雑な挙動を示した。そこで、開環体から閉環体に戻る熱的な異性化反応を抑えるために、低温でのCVを測定した。

 -42℃で、-1.8V〜+1.0Vまでの電位範囲において、SP-1のDMF/TBAPF6溶液中で測定した。この温度でも開、閉環どちらの場合もCVはほとんど同じであったが。還元された生成物ニトロラジカルが安定化するために、再酸化波が得られ、-1.0V付近に明瞭な準可逆酸化還元ピークが観測された。このことより、ニトロ基の還元はスピロ環の開、閉にはほとんど影響されず、また、注入された電子はニトロ基近傍に局在化するものと考えられる。同様な酸化還元挙動は他のニトロ基置換スピロピラン誘導体(SP-2とSP-18)でも観測された。

 c) 分光電気化学特性

 常温では、6-ニトロ基置換体(SP-1,SP-2,SP-18)について、-1.8Vから+1.0Vまでの電位掃引に伴って、作用極の周囲の溶液は黄紫(青)の色変化挙動を繰り返すことが観測された。また、温度が低いほど繰り返し耐久性が向上することが観察された。この電気化学挙動について、薄層セルを用いて分光電気化学的な検討を行った。

 (閉環体SP) SP-1のDMF/TBAPF6溶液に可視光を照射した後、-42℃で作用極の電位を自然電位から-1.3Vあるいは+0.8Vに順次ステップさせて一定量の電気量を流し、開回路状態で吸収スペクトルの変化を測定した。この操作を繰り返し行った時の、酸化還元によるスペクトル変化を追跡した結果をFig.3に示した。-1.3Vでは還元に伴い、ニトロラジカルに帰属される440nmの吸収ピークが観察された(Fig.3a)。そして、酸化反応が進行すると、酸化電気量の増大に伴って440nmの吸収ピークは減少し、代わりに556nmの吸収極大が現われた(Fig.3b)。この酸化体の吸収極大は紫外光照射に伴うフォトクロミズム反応により生成した開環体MCの特性吸収極大(556nm)とほぼ一致した(Fig.2)。さ。らに、ここで得られた酸化生成物の吸収極大が可視光により消滅し、元の閉環体SPへ戻ることを観測された。このことから、酸化生成物は開環体MCと認められた

Fig.2. Absorption spectra of SP-1 in DMF atroom temperatureand at -42℃.a)Vis irradiation.b)UV irradiation at room temperature.c)UV irradiation at -42℃.Fig.3.Absorption spectral changes of SP-1 solution at -42℃.a): reduction of SP at -1.3 V. b):oxidation of reduction species at +0.8 V,passed charge arc a〜g)0; 0.2; 0.4; 0.6; 0.8; 1; 1.2,respectively.

 (開環体MC) 紫外光照射を行い、濃い紫色となった開環体MC溶液の酸化還元に応答した吸収スペクトル変化を同様な方法で測定した結果がFig.4に示した。開環体MCは556nmに吸収極大を持つが、電位を-1.3Vにステップさせると480nmに等吸収点を持ちながら556nmの吸収極大が減少し、逆に閉環体と同様のニトロラジカルの440nmの吸収ピークが徐々に増大した(Fig.4a)。また、この440nmピークが再酸化により消滅して元の開環体の特性吸収極大556nmが現れることが観察された(Fig.4b)。すなわち、開環体MCは還元によるNO2ラジカルになったのち、再酸化で再びMCにもどることが示された。

Fig.4.Absorption spectral changes of SP-1 solution at -42℃.a)reduction of MC at -1.3V.b)oxidation of reduction species at +0.8 V.passed charge are same in Fig.3

 SP-2及びSP-18でも同様な現象が観察された。

光-電気情報変換機能分子システム

 ニトロ基置換スピロピランの光電気化学特性は三つの状態を持つ共役システムを形成することが分った。すなわち、閉環体SPから還元によって生成したNO2ラジカルは酸化により開環体MCになり、またNO2ラジカル開環体MCの異性化は酸化還元によって駆動され可逆的なエレクトロクロミズムを示し、SPMCの光化学的なフォトクロミズムと組み合わせることにより、Fig.5に示した様な、可逆的な交互変換システムとして機能することが見出された。このシステムを記録材料として用いた場合、記録方法には光学モードと電気化学モードの2通りが考えられる。

Fig.5.Molecular structure and photochromic process of spirobenzopyrans.
酸化還元反応のNMRとFT-IRよる解析及び着消色繰り返し特性の検討

 SP-1の低温におけるNMR測定をを行った(Fig.6)。1〜2ppmに見られるピークがインドリン環を形成している(CH3)2CのCH3によるものであるが、還元状態ではピラン環が形成されるので二つの-CH3が等価でない状態になって、二つピークが観察され(Fig.6a)、酸化状態では一つのピークとなる(Fig.6b)。一方、IRスペクトルでは、酸化状態開環態の特徴吸収が観測される。

Fig.6.NMR spectra at -40℃.a) reduction at -1.3V.b)oxidation at +0.8 V, Solvent: CD3CN

 +1.0V〜-1.8Vvs.Ag/Ag+の範囲で電位を繰り返し掃引した時の440nmにおける吸光度の時間変化からエレクトロクロミズムの繰り返し特性及び注入電荷量と吸光度の関係を検討した。

 室温では,SPラジカルMCの応答における可逆性が劣り、低温(-42℃)で良好な可逆的再現性が観測されたのは、室温では、還元反応により生成したNO2ラジカルが後続する化学反応により分解するためと考えらるからである。

 なお、この分子を用いて実用的な素子構造の実現を検討するために、この化合物の真空蒸着膜を固体電解質LiBF4/(Ethyl-eneoxide/Propylene oxide/copolymer triol)と組み合せて全固体形のセルを作製し、そのフォトエレクトロクロミズムを繰返し特性、発消色特性の面などから検討した。

 以上の結果より、記憶材料としてニトロスピロピランを見た場合、フォトクロミズムによる光記憶とエレクトロクロミズムによる電気化学的記憶の二つのモードを持っている。従って、光と電気の情報変換機能を一つの分子に集積化できて、光と電気に対する刺激応答が相互に制御される共役システムを発現することが可能である。

審査要旨

 本研究では、代表的なフォトクロミック分子の一つであるスピロピランを機能性分子として用いて、これまでほとんど研究されていなかったその電気化学的性質及びエレクトロクロミック拳動を検討した。本論文は全6章より成る。以下に各章を簡潔にまとめる。

 第1章は序論であり、分子スイッチングとマルチモード光電気化学分子スイッチングとについて概説を行った。現在までに行われてきた研究を整理することによって、本研究の意義と目的について述べている。

 第2章ではニトロ基置換スピロピラン誘導体の分光電気化学的挙動について検討した結果が記述されている。スピロピラン類のフォトクロミック反応は消色型で、閉環体またはスピロピラン(SP)と呼ばれ、開環体またはメロシアニン(MC)と呼ばれる。本研究では、6-ニトロ基置換体(SP-1,SP-2,SP-18)においては、-1.8Vから+1.0Vまでの電位掃引に伴って、作用極の周囲の溶液が黄紫(青)の色変化挙動を繰り返すことが観測された。この電気化学挙動について、薄層セルを用いたin-situ分光電気化学的な検討及びFT-IR、NMRによる構造解析を行った。その結果、閉環体スピロピランから還元によって生成したNO2ラジカルは酸化により開環体MCになり、またNO2ラジカル開環体MCの異性化は酸化還元によって駆動され可逆的なエレクトロクロミズム現象を示すことが新たに見い出された。更に、着色―消色の繰り返し、吸光度と注入された電荷量Qの関係及び電位変化による吸光度の変化特性などが明らかにされた。これらの結果は、ニトロスピロピランを用いたエレクトロクロミックディスプレイの構築の可能性を示唆するものである。

 第3章では、ニトロスピロピランの特異なエレクトロクロミズムの反応機構を明らかするために、これまでほとんど研究されていなかったスピロピラン誘導体の閉環体の電気化学挙動が検討されている。ニトロ置換基を持たないスピロピランは+1.0Vから-1.8V(vs.Ag/Ag+)までの範囲において、酸化波も還元波も観察されなかった。これに対してニトロ置換基を有するスピロピランは特徴的な電気化学的な挙動を示した。-1.0V付近から観察される還元波はNO2のNO2ラジカルへの還元に起因していることが明らかにされた。すなわち、ニトロスピロピランのエレクトロクロミズム現象はニトロ基の還元反応と一義的な関連を持っていることが示唆された。一方、スピロピラン誘導体の酸化波は+1.2V〜+1.4V(vs.Ag/Ag+)の範囲で観測された。この電位はインドリン環の酸化に対応することが判明した。更に、用いたスピロピラン誘導体の置換基定数と電気化学的に得られた酸化還元電位の間に直線関係が認められ、スピロピラン化合物の構造と電気化学的に得られた電位の相関を定量的に評価できることが示された。

 第4章ではスピロピラン誘導体の開環体の電気化学挙動が検討されている。開環体から閉環体に戻る熱的な異性化反応を抑えるために、低温でLiClO4支持塩としてCV(cyclic voltammogram)測定を行った。LiClO4/DMF溶液では、低温で、Li+の極性のために、開環体の両性イオン構造が安定化することが示された。LiClO4/DMF溶液中での電気化学挙動を調べたところ、開環体の特徴的な還元波が観察された。更に、この結果を閉環体の電気化学挙動と比べると、ニトロスピロピランの閉環体および開環体から還元されて生成したラジカルは酸化されると双方とも開環体になることが結論され、これは分光電気化学方法で得られた結果と一致した。

 第5章ではニトロ基置換スピロピランの光電気化学特性の応用面について記述されている。すなわち、ニトロスピロピラン誘導体において可逆的に光異性化する開、閉環体、および電気化学還元体であるラジカルとの間でユニークな三つの状態を持つ光電気化学システムを形成できることが見いだされた。この結果は、この分子のマルチモード分子スイッチング素子としての可能性を支持するものである。このシステムを記録材料として用いた場合、フォトクロミズムによる光記録およびエレクトロクロミズムによる電気化学的記録の、光学モードと電気化学モードの2通りの方法が考えられる。スピロピラン分子を用いて得られたこれらの結果は分子レベルでの情報変換機能集積化と多様化の見地からも非常に興味深い。

 第6章は、全体の総括である。

 以上をまとめると、本研究の結果は基礎、応用いずれの見地からも高く評価でき、よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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