学位論文要旨



No 111488
著者(漢字) 野崎,大地
著者(英字)
著者(カナ) ノザキ,ダイチ
標題(和) 運動を支配する神経系にみられるゆらぎ
標題(洋)
報告番号 111488
報告番号 甲11488
学位授与日 1995.09.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第47号
研究科 教育学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮下,充正
 東京大学 助教授 鈴木,眞理
 東京大学 助教授 佐々木,正人
 東京大学 講師 山本,義春
 東京大学 助教授 合原,一幸
内容要旨

 ヒトが運動を正確に遂行するためには、運動を制御する系が安定していることが重要である。ところが、運動制御の接続点の1つである運動ニューロンプールの興奮性を示すH反射の大きさを調べてみると、全ての測定条件を一定に保っていても、試行ごとにかなりの変動を示す。この事実は、大脳から運動ニューロンプールに同一の運動指令が伝達されたとしても、そこから発現する"運動"がいつも同じとは限らないことを意味する。この意味で運動制御系は必ずしも安定であるとはいえない。

 H反射テストはヒトの運動神経回路の同定手段として広く用いられてきた。H反射の評価には、通常、その変動の影響を軽減するために数回の試行の加算平均値が用いられる。このような手続きのもとでは、H反射の変動とはある真値まわりのランダムな振る舞いであり、そのこと自体が本質的に意味をもったものではない。そして、この見解に従えば、運動制御の不正確さをもたらす運動ニューロンプールの興奮性の変動もまた、ランダムな誤差として生ずるのだという認識ができることになる。

 しかし、近年発展を遂げてきたカオス、フラクタル理論は、一見無意味にみえる不規則な変動の中には時間的な意味をもつものがあることを実証してきた。この事実が明らかとなってきた現在、H反射の変動がランダムであるという仮定はもはや自明ではない。そして、仮にH反射の変動がランダムでないならば、従来無意味と切り捨てられてきた変動に何らかの情報が含まれていることとなり、ヒトの運動制御の理解に新たな情報がもたらされるものと考えられる。本論文は、以上のような視点から、H反射の変動の時間的な性質を調べ、その時間的性質と運動制御との関わりを検討していくことを目的としたものである。

 本論文の主な内容は以下のとおりである。

 (1)生体は極めて非線形性の強いシステムと考えられる。したがって、そこから導出される信号の時間的性質の解析手段として、スペクトル解析のような線形解析のみを適用するのでは不十分である。本論文では、非線形な特性を持つ変動を解析する手段として、フラクタルとカオスの概念を取り入れたアプローチを試みた。フラクタルとは、観測のスケールを変えても分布型が変化しないという自己相似的な性質をもつ変動のことを指す。フラクタル解析を用いると、このような変動の自己相似性から不規則さを定量化し、そこに内在する時間的性質を調べることができる。本論文では、フラクタル解析の一つとして信頼性の高い方法である粗視化スペクトル法(CGSA法)について特に詳細に説明をおこなった。CGSA法により、変動内に占めるフラクタル成分の割合(%Fractal)、およびそのフラクタル性()を定量的に求めることができる。変動がフラクタル的である場合、が大きいほど変動は強い時間相関をもつ(本論文では、これをフラクタル相関と呼ぶこととする)。一方、カオスとは少数自由度の決定論的なダイナミクスが、非常にランダムな振る舞いを示すことを指す。本論文では、カオスの存在を検証する手段として、相関次元解析、非線形予測の2つの方法について説明した。(以上3章)

 (2)健常者5名のヒラメ筋より刺激頻度1HzでH反射を1050回誘発した。刺激強度として1.2MTと0.9MT(MT;Motor Threshold)の2つの強度を用い、各強度につき2回の測定を行った。得られた時系列にCGSA法を適用した。H、M波時系列ともに%Fractalは90%以上の高い値を示し、これらの時系列がフラクタルの性質をもつことを確認した。またの値はH波が0.75±0.26(1.2MT;平均値±SD)、0.80±0.39(0.9MT)、M波が0.26±0.14(1.2MT)であり、H波の方が有意に大きな値を示した(ANOVAp<0.01)。

 以上の結果から、まず、H反射時系列は強いフラクタル相関を有する変動であることが明らかとなった。また、M波時系列のフラクタル相関との差異から、H反射時系列のフラクタル相関は神経線維の伝導性や、筋神経接合部の性質によって生じるのではないことがわかる。もし、そうであれば、M波時系列にもH反射時系列同様のフラクタル相関がみられるはずである。ただし、1.2MTの実験では、H反射以前にM波によって筋収縮が生じる、運動神経線維に逆行性の活動電位が生じるため、これらの要因がH反射時系列のフラクタル相関をうみだしている可能性も依然として残る。しかし、0.9MTの実験、-すなわち、M波が存在しない条件-において、なおも1.2MT同様のフラクタル相関がH反射時系列にみられたことは上記の可能性を完全に棄却する。したがって、H反射時系列は強いフラクタル相関を有し、そのフラクタル相関は脊髄内のレベルで生じているものと断定した(4章)。

 (3)健常者6名(NS)および脊髄損傷患者7名(SCI)の両脚のヒラメ筋よりH反射を1050回誘発した。刺激強度は1MTとし、測定を2回行った。(2)同様の解析に加え、両脚から誘発されたH反射の変動について時系列間のクロススペクトルを計算し、各周波数成分のコヒーレンスおよびフェイズを求めた。NS、およびSCIのH反射時系列は全ておよそ90%という高い%Fractalの値をもつフラクタル変動であることを確認した。NSではの値が0.84±0.33(左脚)、0.88±0.34(右脚)であり、H反射時系列が実験(1)の結果同様に強いフラクタル相関をもつことが追証された。それに対し、SCIではの値が0.35±0.16(左脚)、0.41±0.19(右脚)とNSと比べて有意に(P<0.001)小さな値を示した。両脚から誘発されたH反射時系列の変動の間には、NSでは高いコヒーレンスが周波数域0〜0.2Hzでみられたのに対し、SCIではそのようなコヒーレンスの高い周波数域は全くみとめられなかった。さらに、両脚のH反射時系列のの間には、NSで高い相関関係(R=0.78)がみられたが、SCIではそのような相関関係はみとめられなかった(R=0.16)。

 NSとSCIのH反射時系列から求められたの値を比較すると、H反射時系列にみられる強いフラクタル相関は、高位中枢による何らかの調節を反映している可能性が高い。また、NSで両脚のH反射の変動間に高いコヒーレンスがみられること、H反射時系列のの値が、両脚間で高い相関関係を示していたことは、両脚H反射時系列の高位中枢に起源をもつコヒーレントな変動がH反射時系列の強いフラクタル相関の大部分を説明することを意味する。そして、NSで両脚から得られるH反射の変動が同じようなうねりを示すことから、一見不規則にみえながらもそれは単なる雑音とみなすことは適当でないことが明らかとなった(5章)。

 (4)H反射の変動は、そのフラクタル性からみると非定常性が強く、評価値を求める際に通常用いられる加算平均という手続きでは、変動の影響を十分に軽減できない可能性があることが示された(6章1節)。

 (5)H反射のフラクタル変動が決定論的なダイナミクスに起因するのかどうかを検証するために、(2)で得られたH反射時系列に対しカオス解析を適用した。その結果、埋め込み次元を多くしても(12次元まで)相関次元は一定値に収束しなかった。一方、非線形予測解析の結果、H反射時系列は短期の予測度が高く、予測時間が長くなるにしたがって予測度が急激に低下するというカオスの特徴を示した。しかし、このような性質は同じパワースペクトルをもつ確率的なデータにもみられたため、H反射時系列が低次元のカオスである確証は得られなかった(6章2節)。

 (6)H反射の変動のフラクタル性はあくまで安静時のものであり、そのような性質が実際の運動制御時にも発現するかどうかは自明ではない。そこで、姿勢保持筋であるヒラメ筋運動ニューロンプールに内在するフラクタル性が姿勢制御時に発現するかどうかをみるために、3名の被検者の直立姿勢時の足圧中心の軌跡の変動について調べた。その結果、足圧中心の軌跡は時間スケール0.1s〜1sにおいてが約3程度のフラクタル変動であることがわかった。このような性質はH反射の変動を積分したものとして説明できることから、実際の運動遂行時にもH反射の変動のフラクタル性が発現している可能性があることが示された(6章3節)。

 (7)3名の被検者の橈側手根屈筋からH反射を誘発し、CGSA法を適用したところ、ヒラメ筋より誘発したH反射時系列同様のフラクタル性がみとめられた。したがって、このようなフラクタル性は、特定の筋のみにみられる性質ではなく、運動系に普遍的に内在する性質であることが明らかになった(6章4節)。

 以上の実験結果から、H反射の変動は時間的にランダムではないフラクタルの性質をもち、そのような性質は高位中枢の関与があってはじめて発現することが明らかとなった。さらに、H反射の変動は、運動ニューロンプールへのランダムな入力の結果生ずるといった受動的なものではなく、運動ニューロンプールに対する高位中枢の能動的な働きかけの結果生じることも判明した。そして、重要なことに、このような性質は実際の運動制御時においても発現しうる。従来、無意味であると加算平均等を用いて切り捨てられてきた変動が「時間的な意味」をもつという認識は、ヒトの運動制御の理解において新たな視点を与えるものであると結論づけた。

審査要旨

 ヒトの運動は筋の収縮によって生じるが、その生起・制御のメカニズムの解明は、体育学の重要な課題である。筋の収縮は、脊髄運動ニューロンに生ずる活動電位が、筋に伝播することによって起こる。脊髄運動ニューロンには大脳皮質などの高位中枢、あるいは末梢からの多数の神経が影響を与えており、その興奮性はたえず変動しているものと考えられる。この興奮性は、運動ニューロンと単シナプス結合をもつIa求心性線維への電気刺激によって誘発されるH反射の大きさから評価することができる。実際にH反射を誘発すると、測定条件を一定に保っていても、その大きさは試行ごとにかなりばらつく。このばらつきは、従来、運動ニューロンプールへのランダムな神経入力、あるいは測定誤差的なもの、すなわち単なる雑音とみなされ、加算平均によって除去されてきたものであった。本論文は、このような従来の見解に対し、H反射の大きさの変動が実は時間的にランダムではなく、その変動自体が運動神経系の何らかの情報を内包しているのではないかという仮説の検証をおこなったものである。

 本論文では、まず、健常人から誘発したH反射の変動が、非常に長期の時間相関を有するフラクタルの性質を有していることが実証された。さらに、運動神経線維が直接刺激されることによって生ずるM波の振幅の変動が時間相関をもたない白色雑音様の時間特性をもつことから、H反射の変動のフラクタル性が神経線維の伝導や神経筋接合部の性質によってではなく、脊髄レベルで生じていると結論づけられた。この結果を受け、続いてH反射の変動のフラクタル性が高位中枢からの下行性指令に関与しているかどうかを、健常人と脊髄損傷患者を被検者とした結果の比較により検証した。その結果、脊髄損傷患者から誘発したH反射の変動の性質が、健常人の場合と比べて白色雑音に近い性質をもつことから、健常人のH反射の変動のフラクタル性には高位中枢が関与していることが示された。すなわち、H反射の変動は時間的な意味をもたない雑音であるという従来の見解に反し、実は高位中枢によって能動的に生成された時間的な意味をもつ変動であることが実鉦された。

 本論文で実証された運動ニューロンプールの興奮性の変動は、大脳皮質から運動ニューロンプールに伝達される運動指令が一定であったとしても、その結果起こる運動の不安定さを招来しうるものである。実際、本論文では、直立姿勢保持時の足圧中心の変動の時間的特性が、運動ニューロンプール興奮性の変動のフラクタル性から説明できるものであることが示されている。ヒトの運動とは機械のように正確無比なものではない。本論文が示しているのは、そのような運動の不安定さが、必ずしも外乱的な要因のみによるものではなく、高位中枢からの能動的な何らかの意味をもった働きかけの結果生ずるのだという見解である。このような見解は、既存のヒトの運動制御の研究に新たな認識を与えるものである。

 以上のように旧来の定説をくつがえす新しい知見をもたらした本論文は、体育学の発展に大きく寄与するものであり、教育学博士の学位論文として十分優れたものであると判断された。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/53890