本研究は、東シナ海世界における12世紀末から14世紀末までの麗・日間交流・関係史をテーマとするものである。この分野の研究は、これまで主に日本人研究者によって行われてきたが、残存史料の不足などの理由で、未だ明らかにされていない点が多い。特に、倭寇以前の両国間の交流の実像と、倭寇以降のそれとが、有機的に関連づけて説明されていないのが実情である。本研究は、既往の研究のもつこのような問題点に対する反省に立って、その具体的解明を試みたものである。すなわち、従来日中関係史の関連で、あるいはそれに従属するものとしてしか考察されてこなかった麗・日交流のあり方を、主に『高麗史』を積極的に再検討するこおによって、全面的な見直しを試みた。以下、簡単に既往の研究史の問題点とこれに対する本研究の成果について要約しておきたい。 まず、本研究の前提となる両国の交流状況を略述しておけば、日本の商人達が最も多く高麗へ来航したのは、11世紀後半の文宗朝期である。文宗朝は日本に対して医師派遣を要請するが、日本の朝廷はそれを拒否する。しかし、その後も、薩摩や対馬の使者あるいは筑前・大宰府の商人らの来航がみられることから、医師派遣の要請を拒否したことが、直ちに日本商人や地方官の使者の往来に悪影響を与えることはなかったようである。ところが、1093年(宣宗10、寛治7)7月に高麗国安西都護府管轄下の延平島巡検軍が、海賊船とみられる船1艘を拿捕した事件が発生して以降、日本からの商人・使者の来航に関する史料は急減する。森克己氏は、この事件を契機に日本の商人達が高麗へ来なくなったと主張される。 日本からの来航が急減した理由として田村洋幸氏は、12・13世紀の麗・日間の甚だしい経済的発展の格差のゆえに、高麗政府が自らの経済的基盤に危機を感じ、貿易を拒否したとされ、三浦圭一氏は、高麗側の医師派遣要請を断ったことや日宋貿易が本格的に展開しはじめてきたことを、その理由として挙げられている。特に、森克己氏は、「高麗内部の政情不安による治安の乱れ」や日本の商人達が航海の経験を蓄積したこと、そして宋に比べて貿易の利益も少なかったこと等を理由として挙げ、高麗への渡航を避け、直接宋へ渡るようになり、高麗へはその動揺に乗じ、商船に入れ替わって倭寇が略奪に向かうことになった、とされたのである。以降、麗・日両国間の交流はごく小数の商人がわずかの物をもって金州へ商売にいくというようなものに過ぎなかったとされる。 第1編ではこのような諸説を、森克己氏の主張を中心的に検討し、日本商人の高麗来航が見えなくなるのは、高麗の内政不安による治安不在や日宋貿易の本格化等のためではなく、都までの来航を認めていた一時的な政策を改め、日本との窓口を慶尚道の金州に限るという政策転換を行ったためであること、そしてこのような変化は、決して日本との交流が途絶えたことを意味しないことを明らかにした。 院政期における麗・日交流に関する森氏のこのような見解は、鎌倉時代に入っても変わらない。すなわち、13世紀の麗・日両国の史料にみえる「進奉」という用語に関して、氏は、11世紀後半に盛んに行われていた日本商人の私献貿易の延長としか評価しなかったのである。この史料上にみえる「進奉」という用語に関しては、森氏の他にも、単なる対馬の対高麗貿易の呼称として見る青山公亮氏や、高麗と武藤氏との関係としてとらえる川添昭二氏説等、貿易以上の関係とみない説や、当事者を高麗と大宰府当局とする中村栄孝氏、具体的言及は避けているものの「単純な貿易以上の意味をもつ」と評価する山内晋次氏など、貿易以上の関係とみる説等とにわかれている。 第2編では、このように先学達が積極的に評価することのなかった「進奉」という史料を再検討し、中世前期における両国関係のあり方の解明を試みた。すなわち、「進奉」という用語は単なる私的な貿易関係を指すのではなく、12世紀末の高麗の毅宗朝、日本でいえば平氏、具体的に大宰大貳頼盛あるいは大宰少貳宇佐公通らの主導によって恒常的な外交関係として成立したとみられる、ある程度公的な性格を有するものであった。この関係は平氏滅亡後も、鎌倉幕府によって黙認されるが、蒙古が高麗を征服し、日本侵寇を企てる時期になって、日本との「通好」を否定するために、高麗側が一方的にこれを断絶するに至ったことを初めて明らかにした。 元寇における高麗の役割についても、既往の研究は、単に元寇の道案内をし、軍事的に協力したとする批判的な見解と、三別抄に象徴される高麗民衆の対蒙抗争が蒙古の侵攻を遅延させたとする肯定的な見解とにわかれていて、元寇以前の麗・日交流のあり方と結び付けて元寇の動機や高麗の外交的対応等を考察されることは行われなかった。つまり、元寇が準備されていた時期に、高麗国内の諸勢力がそれぞれどのような動きをみせ、それが元寇にいかなる影響を与えたか、またはかかる各勢力の動向がかつての麗・日関係といかなる関連にあるか、という視点での考察が欠如していたのである。 第3編では、このような既往研究の問題点を再検討し、元寇の動機やそれをめぐる趙彝・李蔵用・三別抄に代表される、高麗国内の3つの異なる政治勢力があり、それらは各自蒙古の日本侵寇・外交交渉による阻止・日本との連合による対蒙抗戦という相異なる動きを示す。が、これらの動きはかつての対馬の高麗への進奉に代弁される両国関係と密接にに関わっていることを明らかにした。 また、倭寇問題に関しても、まず、倭寇が始まった時期はいつ頃であるが、という問題がある。すなわち、高麗高宗10年(1223)と忠定王2年(1350)のいずれを倭寇の始まりとすべきかという問題で見解がわかれているのである。例えば、中村栄孝・田村洋幸・村井章介氏らは前者を、田中健夫氏は後者を主張している。この問題は、13世紀に発生した倭寇と庚寅年(1350)以降の倭寇が、本質的に同じなのかあるいは異質的なものなのか、という問題でもあり、未だ両者の共通点及び相違点についての具体的な考察はなされていない。さらに、元寇と倭寇との関連性、つまり高麗侵攻以前にすでに小規模ながら高麗の南海岸を侵寇していた倭寇に、元寇がいかなる影響を与えたかという視点での考察が行われていない。つまり倭寇は、13世紀はじめに史料上に現われ、元寇を境にして庚寅年までの約85年間にはほとんど発生しない、空白期ともいうべき時期が存在するが、その理由やその歴史的意味についての研究が見られない。 このような理由から、倭寇がいかなる社会的性格の存在であったのか、あるいはなぜ倭寇が発生し跋扈したのか等についても、森克己氏の〈武装商人団〉説や田中健夫・田村洋幸氏らの〈高麗側の貿易制限・高麗田制の乱れ=倭寇の原因〉説、青山公亮氏の〈倭寇=元寇の復讐〉説、〈対馬・壱岐等の九州地域の経済的貧困〉説、河合正治氏の〈倭寇=経済的成長〉説等、様々な説が主張されているものの、未だ根源的な説明とはなっていない。 第4編では、このような問題点の解明のため、第1・2・3編で検討した麗・日関係の成果の延長線上に立って、倭寇問題を日本の国内外情勢と結び付けて考察する。そこでは、「l3世紀の倭寇」と「庚寅以降の倭寇」との共通点と相違点、倭寇の空白期とその理由、倭寇と元寇との相関関係、倭寇の特徴や行動様式が、当時「悪党」と呼ばれていた武士の非合法的な行動と一致することを明らかにし、倭寇が庚寅年以降、大規模化する理由等についてお、元寇や南北朝の内乱等、国内・国際情勢との関連での考察を通じて、明らかにした。 既往説では、庚寅年以降倭寇が大規模化する理由についても、合理的な解明が得られず、『高麗史』の倭寇関連史料の信憑性を疑い、倭寇集団の規模や侵寇回数が過大に記録されたと主張されたり、あるいは当時の倭寇集団のなかに多くの高麗・朝鮮人が含まれていたとする説さえ行われている。その概要は、賤民集団である禾尺・才人等の賤民集団が倭寇と連合あるいは主体となって倭寇を行ったとするものであり、中村栄孝・田村洋幸・太田弘毅氏等、倭寇研究者の間で早くからみられるが、最近の田中健夫・高橋公明氏によって一層補強されるに至っている。 第5編は、第4編で述べた自説を、倭寇構成員の問題に関する既往説を批判するこによって補うものでもあり、既往の倭寇研究者達によって主張されてきた〈倭寇=高麗・朝鮮人加担・連合〉説を批判的に再検討した。その結果、この説の前提になっていた、高麗・朝鮮の支配層が済州島と対馬島を同じく自国の領土として認識していたという主張や、禾尺・才人等の賤民集団が身分解放のために倭寇と連合していたという主張、そして倭寇集団のなかに大量の馬がみえることから、禾尺や済州島人等が倭寇と連合していたとの主張は、倭寇の実像とは無縁の虚像に過ぎないものであることが明らかとなった。 以上、本研究が検討の対象とした、12世紀から14世紀の麗・日交流のあり方を総括すると、東シナ海諸国の民族・社会に至大な影響を与えた元寇や倭寇に占める麗・日交流の位置が、非常に大きかったことが明らかになった。本研究で得た結論を土台とすれば、全盛期における倭寇の動向と日本の国内情勢の変動との関連性を再検討する視野が開けてくるとともに、室町初期における両国関係に関する既往説についても、その根源的な再検討が要求されることになるのである。 |