学位論文要旨



No 111491
著者(漢字) 李,領
著者(英字)
著者(カナ) イ,ヨン
標題(和) 東シナ海世界における麗・日関係史の研究
標題(洋)
報告番号 111491
報告番号 甲11491
学位授与日 1995.09.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第63号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 義江,彰夫
 東京大学 教授 平野,健一郎
 東京大学 助教授 三谷,博
 東京大学 教授 伊藤,亜人
 東京大学 教授 村井,章介
内容要旨

 本研究は、東シナ海世界における12世紀末から14世紀末までの麗・日間交流・関係史をテーマとするものである。この分野の研究は、これまで主に日本人研究者によって行われてきたが、残存史料の不足などの理由で、未だ明らかにされていない点が多い。特に、倭寇以前の両国間の交流の実像と、倭寇以降のそれとが、有機的に関連づけて説明されていないのが実情である。本研究は、既往の研究のもつこのような問題点に対する反省に立って、その具体的解明を試みたものである。すなわち、従来日中関係史の関連で、あるいはそれに従属するものとしてしか考察されてこなかった麗・日交流のあり方を、主に『高麗史』を積極的に再検討するこおによって、全面的な見直しを試みた。以下、簡単に既往の研究史の問題点とこれに対する本研究の成果について要約しておきたい。

 まず、本研究の前提となる両国の交流状況を略述しておけば、日本の商人達が最も多く高麗へ来航したのは、11世紀後半の文宗朝期である。文宗朝は日本に対して医師派遣を要請するが、日本の朝廷はそれを拒否する。しかし、その後も、薩摩や対馬の使者あるいは筑前・大宰府の商人らの来航がみられることから、医師派遣の要請を拒否したことが、直ちに日本商人や地方官の使者の往来に悪影響を与えることはなかったようである。ところが、1093年(宣宗10、寛治7)7月に高麗国安西都護府管轄下の延平島巡検軍が、海賊船とみられる船1艘を拿捕した事件が発生して以降、日本からの商人・使者の来航に関する史料は急減する。森克己氏は、この事件を契機に日本の商人達が高麗へ来なくなったと主張される。

 日本からの来航が急減した理由として田村洋幸氏は、12・13世紀の麗・日間の甚だしい経済的発展の格差のゆえに、高麗政府が自らの経済的基盤に危機を感じ、貿易を拒否したとされ、三浦圭一氏は、高麗側の医師派遣要請を断ったことや日宋貿易が本格的に展開しはじめてきたことを、その理由として挙げられている。特に、森克己氏は、「高麗内部の政情不安による治安の乱れ」や日本の商人達が航海の経験を蓄積したこと、そして宋に比べて貿易の利益も少なかったこと等を理由として挙げ、高麗への渡航を避け、直接宋へ渡るようになり、高麗へはその動揺に乗じ、商船に入れ替わって倭寇が略奪に向かうことになった、とされたのである。以降、麗・日両国間の交流はごく小数の商人がわずかの物をもって金州へ商売にいくというようなものに過ぎなかったとされる。

 第1編ではこのような諸説を、森克己氏の主張を中心的に検討し、日本商人の高麗来航が見えなくなるのは、高麗の内政不安による治安不在や日宋貿易の本格化等のためではなく、都までの来航を認めていた一時的な政策を改め、日本との窓口を慶尚道の金州に限るという政策転換を行ったためであること、そしてこのような変化は、決して日本との交流が途絶えたことを意味しないことを明らかにした。

 院政期における麗・日交流に関する森氏のこのような見解は、鎌倉時代に入っても変わらない。すなわち、13世紀の麗・日両国の史料にみえる「進奉」という用語に関して、氏は、11世紀後半に盛んに行われていた日本商人の私献貿易の延長としか評価しなかったのである。この史料上にみえる「進奉」という用語に関しては、森氏の他にも、単なる対馬の対高麗貿易の呼称として見る青山公亮氏や、高麗と武藤氏との関係としてとらえる川添昭二氏説等、貿易以上の関係とみない説や、当事者を高麗と大宰府当局とする中村栄孝氏、具体的言及は避けているものの「単純な貿易以上の意味をもつ」と評価する山内晋次氏など、貿易以上の関係とみる説等とにわかれている。

 第2編では、このように先学達が積極的に評価することのなかった「進奉」という史料を再検討し、中世前期における両国関係のあり方の解明を試みた。すなわち、「進奉」という用語は単なる私的な貿易関係を指すのではなく、12世紀末の高麗の毅宗朝、日本でいえば平氏、具体的に大宰大貳頼盛あるいは大宰少貳宇佐公通らの主導によって恒常的な外交関係として成立したとみられる、ある程度公的な性格を有するものであった。この関係は平氏滅亡後も、鎌倉幕府によって黙認されるが、蒙古が高麗を征服し、日本侵寇を企てる時期になって、日本との「通好」を否定するために、高麗側が一方的にこれを断絶するに至ったことを初めて明らかにした。

 元寇における高麗の役割についても、既往の研究は、単に元寇の道案内をし、軍事的に協力したとする批判的な見解と、三別抄に象徴される高麗民衆の対蒙抗争が蒙古の侵攻を遅延させたとする肯定的な見解とにわかれていて、元寇以前の麗・日交流のあり方と結び付けて元寇の動機や高麗の外交的対応等を考察されることは行われなかった。つまり、元寇が準備されていた時期に、高麗国内の諸勢力がそれぞれどのような動きをみせ、それが元寇にいかなる影響を与えたか、またはかかる各勢力の動向がかつての麗・日関係といかなる関連にあるか、という視点での考察が欠如していたのである。

 第3編では、このような既往研究の問題点を再検討し、元寇の動機やそれをめぐる趙彝・李蔵用・三別抄に代表される、高麗国内の3つの異なる政治勢力があり、それらは各自蒙古の日本侵寇・外交交渉による阻止・日本との連合による対蒙抗戦という相異なる動きを示す。が、これらの動きはかつての対馬の高麗への進奉に代弁される両国関係と密接にに関わっていることを明らかにした。

 また、倭寇問題に関しても、まず、倭寇が始まった時期はいつ頃であるが、という問題がある。すなわち、高麗高宗10年(1223)と忠定王2年(1350)のいずれを倭寇の始まりとすべきかという問題で見解がわかれているのである。例えば、中村栄孝・田村洋幸・村井章介氏らは前者を、田中健夫氏は後者を主張している。この問題は、13世紀に発生した倭寇と庚寅年(1350)以降の倭寇が、本質的に同じなのかあるいは異質的なものなのか、という問題でもあり、未だ両者の共通点及び相違点についての具体的な考察はなされていない。さらに、元寇と倭寇との関連性、つまり高麗侵攻以前にすでに小規模ながら高麗の南海岸を侵寇していた倭寇に、元寇がいかなる影響を与えたかという視点での考察が行われていない。つまり倭寇は、13世紀はじめに史料上に現われ、元寇を境にして庚寅年までの約85年間にはほとんど発生しない、空白期ともいうべき時期が存在するが、その理由やその歴史的意味についての研究が見られない。

 このような理由から、倭寇がいかなる社会的性格の存在であったのか、あるいはなぜ倭寇が発生し跋扈したのか等についても、森克己氏の〈武装商人団〉説や田中健夫・田村洋幸氏らの〈高麗側の貿易制限・高麗田制の乱れ=倭寇の原因〉説、青山公亮氏の〈倭寇=元寇の復讐〉説、〈対馬・壱岐等の九州地域の経済的貧困〉説、河合正治氏の〈倭寇=経済的成長〉説等、様々な説が主張されているものの、未だ根源的な説明とはなっていない。

 第4編では、このような問題点の解明のため、第1・2・3編で検討した麗・日関係の成果の延長線上に立って、倭寇問題を日本の国内外情勢と結び付けて考察する。そこでは、「l3世紀の倭寇」と「庚寅以降の倭寇」との共通点と相違点、倭寇の空白期とその理由、倭寇と元寇との相関関係、倭寇の特徴や行動様式が、当時「悪党」と呼ばれていた武士の非合法的な行動と一致することを明らかにし、倭寇が庚寅年以降、大規模化する理由等についてお、元寇や南北朝の内乱等、国内・国際情勢との関連での考察を通じて、明らかにした。

 既往説では、庚寅年以降倭寇が大規模化する理由についても、合理的な解明が得られず、『高麗史』の倭寇関連史料の信憑性を疑い、倭寇集団の規模や侵寇回数が過大に記録されたと主張されたり、あるいは当時の倭寇集団のなかに多くの高麗・朝鮮人が含まれていたとする説さえ行われている。その概要は、賤民集団である禾尺・才人等の賤民集団が倭寇と連合あるいは主体となって倭寇を行ったとするものであり、中村栄孝・田村洋幸・太田弘毅氏等、倭寇研究者の間で早くからみられるが、最近の田中健夫・高橋公明氏によって一層補強されるに至っている。

 第5編は、第4編で述べた自説を、倭寇構成員の問題に関する既往説を批判するこによって補うものでもあり、既往の倭寇研究者達によって主張されてきた〈倭寇=高麗・朝鮮人加担・連合〉説を批判的に再検討した。その結果、この説の前提になっていた、高麗・朝鮮の支配層が済州島と対馬島を同じく自国の領土として認識していたという主張や、禾尺・才人等の賤民集団が身分解放のために倭寇と連合していたという主張、そして倭寇集団のなかに大量の馬がみえることから、禾尺や済州島人等が倭寇と連合していたとの主張は、倭寇の実像とは無縁の虚像に過ぎないものであることが明らかとなった。

 以上、本研究が検討の対象とした、12世紀から14世紀の麗・日交流のあり方を総括すると、東シナ海諸国の民族・社会に至大な影響を与えた元寇や倭寇に占める麗・日交流の位置が、非常に大きかったことが明らかになった。本研究で得た結論を土台とすれば、全盛期における倭寇の動向と日本の国内情勢の変動との関連性を再検討する視野が開けてくるとともに、室町初期における両国関係に関する既往説についても、その根源的な再検討が要求されることになるのである。

審査要旨

 本論文については、本学大学院2研究科(総合文化研究科、人文社会系研究科)より、本論文を総合的かつ厳正に評価すべく、日本史学(古代・中世・近世)、日韓文化人類学、東アジア国際関係史をそれぞれ専門とする5人の教官が審査委員会を構成し、慎重に審査を行った結果、以下の諸点にわたり、一致して博士(学術)の学位を授与するにふさわしい評価を与えられるとの結論に到達した。以下5つの論点にわけて、この結論に至る審査結果の要旨を記す。

 第1に、本研究が何よりも画期的なのは、12世紀から14世紀にわたる日韓関係史を、交易・外交・戦争などの諸側面を総合しつつ、一貫性ある体系的な業績として、はじめて大成した点にある。従来この分野の研究は、主として日本人によって、11世紀末〜12世紀の間の日麗間の民間交易、それと並行して現れる日宋貿易、13世紀後半のモンゴル襲来とその先兵としての高麗軍の動き、その後数十年の断絶を経て14世紀半ば(1350年)以来活発化する倭寇の活動について、各々個別ないし系統的に研究されてきたが、これほど有機的・体系的に把握されたことはなかった。

 李氏は本論文において、これら従来の諸研究を逐一検討し、従来の研究では充分に利用されてこなかった『高麗史』など高麗側の史料を存分に活用し、それを日本側史料と有機的に結合させて用いる道を開き、それを通して各時期の既成研究を根本的に批判するとともに、それらが持っていた研究の限界を突破し、同時代に起こる両国間の諸問題の相互関係、時系列の中で生成・消滅する諸問題の相関関係、すなわち構造的関係と動態的関係を有機的に関連させながら、12世紀から14世紀に至る日麗関係史を、真に多面的かつ一貫性ある国際関係史として築き上げ、研究史の水準を大きく変えたのである。

 いまその成果の諸断面を最小限指摘すれば、12世紀後半に平氏主導の形ではじまる日宋貿易の背後には、従来殆ど注目されていない大宰府指揮下での対馬国の高麗朝への半公的な進奉関係の成立があり、それが高麗を経ての日宋貿易を円滑に成功せしめる鍵であった。この進奉関係は、鎌倉幕府下でも継承され、13世紀半ばから散発的に生ずる倭寇にも拘わらず継承されるが、13世紀後半モンゴル襲来に直面して、高麗側からその継続の限界を知って断絶される。モンゴル襲来時における高麗朝内部には、親モンゴル派から反モンゴル=親日派まで多様な勢力と葛藤があり、それがモンゴルの日本襲来を遅らせ、中挫させる大きな原因であったと、従来の研究成果をふまえつつ、さらに多面的に論ずる。しかし、モンゴル襲来は日麗双方に大きな緊張関係を残し、従来ほとんど研究されていないことだが、特に鎌倉幕府の海賊(倭寇)取締令によって、日本内部に倭寇形成の条件は次第に熟しつつあるものの、殆ど顕在化せず、また進奉関係の復活もなかった。

 14世紀半ばの1350年から倭寇が本格的に活発になったのは、日本の社会が南北朝内乱という未曽有の権力の分裂と葛藤の時代に入り、海賊取り締まりが出来ないばかりか、むき出しの軍事衝突とそのための兵糧調達が必要となってきた必然の結果であり、それが1350年庚寅年倭乱という形で顕在化したのは、足利尊氏・義詮と対立する直義とその養子直冬に味方した対馬少弐頼尚が、翌年全面対決する両者の合戦に対処すべく、国内に兵糧調達の場が極端に少なくなったことから、それを一衣帯水の高麗南岸に求めた結果であり、これを端緒として、以後倭寇が連年激化するのは、南北朝内乱がそれを必要とするほどますます激化したからに他ならないと、まったく新しい見解を樹立する。近年日本人研究者の間にはこの時期の倭寇の主体に日本人のみならず高麗人が多く含まれると説くものが現れているが、以上の点からも、また史料的にもそれは実証されず、一部が倭寇に取り込まれることはあっても、主要勢力とは考えられないと論ずる。

 以上摘出した主要な論点を見るだけでも、本論文が、旧来の日本の学説の根本的書き換えを迫る内容であることは勿論、各問題が縦横前後に有機的に関連し、12世紀から14世紀に及ぶ多面的で一貫性のある日麗関係史となっていることが確認されよう。このような研究は、韓国人の視点を堅持した上で、日韓双方の研究成果を充分に摂取し、完全に研究対象を客体化する姿勢を貫き通そうとする李氏にしてはじめて成しえたことであり、画期的成果ということが出来る。

 第2には、上述した日麗双方の関係史にかかわる諸事象を、単に現象としての関係の説明に終わらせず、可能な限り、日麗双方の社会に固有に根ざす問題とどのように有機的に関係しているかを明らかにしたことであろう。進奉関係やモンゴル襲来についてもこの視点は窺われるが、もっとも本格的に展開されているのは、14世紀半ば以降の倭寇の激発を必然ならしめた問題を、日本社会自体の武力による社会支配の成熟という中世社会の体質との関連から解き明かそうとした、先にも指摘した点である。

 氏は、従来誰も気づかなかったこの問題に、倭寇が同時代に日本全土を覆う悪党の行動様式と構造的に一致するとの指摘から出発し、この悪党が倭寇として現れる実例まで見いだし、倭寇と悪党は同根のものとの見通しを得、武士が社会の体制を実力で掌握し、他身分もそれに対応する必要から武士的存在にならざるをえない事態が、この南北朝期に本格的・全面的に生成したと理解し、この結果、対立する諸勢力(悪党)の武力確保と兵糧調達がそれぞれ不可避の日常的課題となり、その対立激化に伴って兵糧調達の場を高麗にまで求めざるを得なくなり、倭寇の全面展開に至ると推論する。従来日本史研究の領域では悪党はこの時代を理解する鍵と見て、さまざまな研究が重ねられてきたが、悪党と倭寇を同根と見ることは勿論、その共通基盤を日本中世社会と権力の軍事化とそれが必然的に生む武力衝突と分裂にあることを見抜いた研究者は一人もいない。対外関係と社会内問題の有機的関連を根本的レヴェルで見事に解明した大きな成果であり、倭寇研究には勿論、日本社会と歴史を国際関係との関連の下に研究する上でも多くの示唆を与えるものであろう。

 李氏は本論文において、この問題と対の形で、この時期の倭寇の主体が高麗人であり得ないことを論証しているが、それは、氏が本論文に至るまで長らく日麗社会の比較研究に携わり、中国文明圏の周縁という共通項を持ちつつも、海を隔てて列島上に浮かぶ日本に比し、北辺で中華帝国と北方民族の侵略の危機に常にさらされてきた高麗朝が、日本のごとき式士の分権支配を志向せず、武力が強力な官僚制に編成され、倭寇のごとき自発的武力組織などは作り得なかったという理解が背後にあるからであり、倭寇非発生を高麗社会の体質から見ようとする点で、上述の悪党・倭寇同根論と軌を一にし、今後の高麗史研究に大きな影響を与えよう。

 第3には、前後の時代を含む日韓関係全体を根本的に見直す鍵が見いだされたことである。すでに平安時代後期に高麗朝と大宰府指揮下の対馬国の間に半公的な進奉関係が成立していたことを解明したことは、遣唐使廃止後の日本の東アジア諸国との国交・民間貿易を含む通交の実態と構造を本格的に解明する道を開いた。またこの進奉関係がモンゴル襲来を期に断たれ、14世紀後半南北朝内乱と不可分の形で倭寇の激しい高麗襲撃が起こるという本論文の指摘をふまえ、南北朝内乱が一応の収束をみる足利幕府三代将軍義満の時代に、日明国交とパラレルな形で義満が李朝の要請を受け入れて倭寇鎮圧に乗り出すのをてことして、通信符による日朝間の正式な国交樹立に至る歴史を展望すると、正式な国交が可能となる背後に、本論文が解明した事実が不可欠の前提として存在したことが見通され、新たな視点から日韓国交史を検討する道も開けよう。さらに、本研究を基礎として室町時代以降の日朝国交史を見直すと、室町幕府の社会統合力の喪失に伴い、社会に内在する武力掠奪の動きが再度顕在化し、それが後期倭寇を生む温床となり、同時に日明・日朝貿易の大名による私物化をも促進し、やがてこれらを可能とした地域分権化の危機を新しい形で再統合した織豊政権が、倭寇と私物化した日明・日朝貿易を吸収・統合する形で文禄・慶長の朝鮮出兵を行ったという、大きな展望が開けてくる。本論文の達成を起点とすることで、古代から中世を経て、近世近代に及ぶ日韓関係史は新しい次元で書き換えることが可能となるであろう。

 第4に、本論文の学問的方法について指摘しておきたい。本論文は基本的には文献資料を駆使した歴史学的方法で全体を構成しているが、上述したことから明らかなように、各時代の日韓双方の社会と文化を固有に解明しようとする文化人類学的視点も満たし、また随所に地域文化論的かつ比較地域的発想に基づく分析と考察があり、さらに中国を中心とする東アジアの国際関係の中に当該日麗関係史を位置づける国際関係論的観点も十分に貫かれている。

 最後に、改善すべき点を若干指摘しておきたい。本論文の論証の最も重要な素材として外交文書が積極的に用いられているが、その独特で固有の用語・文体・論理についての理解が十分でなく、その結果、客観的説得力を欠く、我流な解釈に走っている点がある。しかし、この点は日本の学会でもようやく取り上げ始めた問題であり、李氏の今後の課題として大いに期待したい。

 以上の諸点を総合して、審査委員会は全員一致をもって、本論文が博士(学術)の学位の授与に値するとの結論に到達した。

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