徐東晩氏の論文「北朝鮮における社会主義体制の成立 1945-1961」は、本文注587頁(400字詰め原稿用紙1955枚)、付表30頁、文献目録33頁、計650頁の大作である。 北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国の歴史研究はなお低い段階にある。冷戦期のスカラピーノ、李庭植の共著の後には、新しい資料、新しい視角に基づいた部分的な研究があるだけであり、カミングスの朝鮮戦争にかんする大著も朝鮮戦争開始時までの北の発展を扱った数章を含んでいるにすぎない。他方で現在の北朝鮮の体制について研究した著者たちは60年代末-70年代初めに現在の体制が生まれたとするにとどまり、それ以前の北朝鮮の歴史過程を十分に論じていない。その中で、北朝鮮の歴史段階について、解放後から1961年あたりまででソ連型社会主義、国家社会主義の体制が成立し、1960年代の困難な内外情勢の中で、この体制の上に、二次的な構造物として現在の北朝鮮の体制ができあがったという仮設が和田春樹によって提示されている。徐東晩氏はこの和田の仮設を前提としつつ、1945年から61年まで、社会主義体制の成立過程を総括的に実証的に研究したのである。 本論文の方法的特徴は、まず北朝鮮の公式文献、党の機関誌紙により全期間を同じ密度であとづけていることである。これははじめてなされたと言っていい。このさい人事の変化を機関誌紙より丹念に拾い上げてはじめて全面的に確定させた。さらに満州派、延安系、ソ連系、国内系という和田の党内系派の区別を大筋において採用しつつ、国内系を朴憲永中心の南労派、それ以外の南労系、北朝鮮の国内系とさらに細かく分けている。各派、各系がどのようなポストを占めているか、それがどのように変化しているかを、かってなく精密に追跡確定して、公式文献を解読する手がかりとしたのである。さらにソ連研究の分野での石井規衛=塩川伸明説によって「党=国家」体制に注目し、かつ軍隊にも合わせて注目し、党=政府=軍隊の関係の発展、変化を分析していることが特徴である。合わせて「党=国家」体制のもとで工業と農業の管理システムがどのように形成され、変化していくかを分析している。国家社会主義の成立過程は5つの時期に分けられ、各々の時期に各一章をあてて、分析叙述している。 まず、第一章「解放と人民委員会」は1945年8月から1946年2月までの第一期をとりあつかう。解放直後、日本の降伏により、植民地統治機構が解体された空白を、下から自発的に生まれた「緩やかな人民委員会体制」が埋めていた。進駐したソ連占領軍は北朝鮮だけの政権機構を創り出すことをめざし、権力の暴力的部分を握りながら、他の行政は人民委員会に委ねた。平壌に北朝鮮行政10局がつくられてからは、上からの部門別統制が開始されたが、各道人民委員会の地域的独立性は維持された。行政は道・市・郡・面までで、里には共同体的自治が存在した。政治的には、共産主義者と右翼民族主義者の連立時代であり、人民委員会が接収した企業、工場は当該工場の委員会の自治のもとに置かれていた。農村においては、農民組合が農民委員会に発展し、地方の人民委員会とともに日本人所有の土地、施設を管理した。 解放後北朝鮮でも国内系の共産主義者が各地で党組織をつくったが、帰国した金日成らの満州派、ソ連軍に勤務していた朝鮮人らが中心になって、北朝鮮だけの党組織をまとめようとして、国内系の一部と衝突した。45年10月13日に朝鮮共産党北朝鮮分局が生まれる過程については、和田の議論を批判し、新しい主張を押し出している。分局は当初各道党組織の連合形態でつくられ、分散的であったが、金日成は45年12月に帰還した延安系と増強されたソ連系の支持をえて、はじめて分局のトップ、責任秘書の地位につき、中央からの指導の強化をはかった。 第二章「『人民民主主義国家』の樹立と『党=国家』」は1946年2月から1950年6月までの第二期をあつかう。この時期は右翼民族主義者を追放し、共産党と延安帰りの独立同盟、ともに共産主義者が主体の北朝鮮単独政府、北朝鮮臨時人民委員会を樹立したところからはじまった。党とともに政府の責任者となった金日成は、非公式ルートによって土地改革を断行した。この過程で共産党は党勢をはじめて急速に拡大し、党は大衆化した。この過程でまた金日成を朝鮮民族全体の指導者として推戴する作業が進められた。46年8月、北朝鮮共産党は独立同盟が改称した新民党と合同して北朝鮮労働党となった。これは「党=国家」を目指す巨大政党の出現であった。この党の内部では満州派、延安系、ソ連系が国内系を抑えた。46年末地方人民委員会選挙が行われ、47年2月に北朝鮮人民委員会と人民会議が成立した。これはソビエト制度をモデルにした権力集中体制であった。人民会議は民主党、青友党も加わった連立の形をとっていたが、人民委員会は圧倒的に労動党が握っていた。こうして47年はじめに「党=国家」体制が出来上がった。以後この「党=国家」の肥大とそれが社会に及ぼす統制が拡大していく中で、1948年9月南朝鮮でも地下的に選挙を行ったとして、北朝鮮の政府が南北統一の国家に飛躍して、朝鮮民主主義人民共和国が誕生した。政府閣僚は南北の労働党のメンバーからなっていた。この政府が誕生したあとで、49年6月に南北党の中央委員会が統一され、合党が実現したが、これは秘密にされた。こののち党内には朴憲永の南労派が登場して、力をもった。49年の時点で「ノメンクラトゥーラ」システムも整備されるにいたった。 だが、北労党は系派の連合型党であり、異質的要素を抱え込んだ分節された体制であった。党による統制も一律ではなかった。とくに軍隊の場合、創設段階から満州派が党と政府の外で自律的に統制していたが、形としてはソ連式の正規軍型軍隊であった。その後中国から国共内戦に参加した中共式人民戦争型の朝鮮人部隊が引き渡され、さらに南北合党によって南のパルチザン部隊の指揮権も吸収された。軍隊は三つの型を並存させていた。産業部門でも唯一管理制の実施をめぐって満州派金策の産業省とソ連系の許哥而の党組織委員会が対立した。体制の運営は系派の巨頭たちの内部合意構造に基づいて行われていた。 北朝鮮は経済における重工業の比重が高く、基幹産業は早くから国有化され、計画化されていた。しかし、全体としてみると、北朝鮮は農業国家であり、農業、中小商工業は私的経営が支配的であった。もはや資本主義体制ではないが、国家社会主義体制にまではいたっていない、人民民主主義国家だということができる。社会団体としては、職業同盟が党の伝導ベルトとされながらも、一定の権限をなお有していたのに、農民同盟はまったく弱化して、人民委員会に吸収されていた。一般に北朝鮮では、国家の力が社会にくらべて遙かに強かった。もっとも農村の里レベルでは引き続き村落自治が存在していた。 第三章「朝鮮戦争と戦時体制」は1950年6月から1953年7月までの第三期を扱う。開戦とともに軍事委員会が設置され、中央集権制が強められたが、党内の多元性は維持されていて、南からの総退却の責任を問われて、50年10月には金日成は窮地に立った。軍隊内に党組織がつくられ、総政治局が設置されると、軍隊の三つの型は統合され、党の軍隊となった。同時に司令官の指揮権を保障する軍事単一制の原則が強調された。金日成は巻き返しに成功して、ソ連系の許哥而と延安系の朴一禹を左遷し、ついには戦争責任問題を基礎として朴憲永と南労派をアメリカ帝国主義のスパイとして粛清した。戦時期の民心収拾では、北朝鮮国内系の農民組合、労働運動活動家が多く起用され、貢献した。工業部門では、唯一管理制によって戦時体制への移行は順調に進んだ。労働規律の維持のため、厳しい刑事罰が導入された。農業部門では、占領から解放されたあと、伝統的な労力扶助の形態が組織され、農作業の計画化が進んだ。農村管理のために南の占領地で用いられた全権代表派遣方式が採用された。大きな問題は被占領地での対敵協力、反革命の問題であった。これには群衆裁判といった手段がとられた。52年12月には地方行政の改編が行われ、面という単位がなくなり、里が行政の末端に組み込まれた。戦争の過程で私営商工業が没落した。以南地域との心理的、人的断絶が生じたのである。この意味で戦争の中で社会主義への過渡期がはじまったと言っていい。 第四章「戦後経済復旧建設と社会主義的改造」は1953年から58年までの第四期を扱う。戦後金日成の権力は強化されたが、ソ連系、延安系はなお党と政府の重要ポストを占めていたので、金日成主流派との衝突がはじまった。ソ連からの政策的干渉が事態を複雑化した。穀物買い付け事業、農業集団化政策、工業復旧建設の方向など、重要な政策決定はつねに激しい論争を伴った。その中で金日成は55年12月「主体(チュチェ)」を提起し、民族主義をいっそう強調することによって、ソ連系を攻撃した。ソ連共産党の第20回大会でのスターリン個人崇拝批判は主流派を当惑させ、自己弁護に追い込んだが、反対派への歩み寄りはなかったので、反対派は金日成に批判的なソ連の意向をも頼りとして、56年8月末の党中央委員会全員会議で、金日成個人崇拝批判に打って出た。しかし、かえって主流派に抑えられ、反対派は一挙に崩れることになった。以後反対派の広範な粛清が進行し、党は金日成主流派に一元化されていく。ソ連系を除去したことはソ連からの干渉の通路を遮断したことではあったが、重要な政策決定をめぐる論争がなくなることによって、金日成の独走への牽制、修正もなくなった。中国軍は58年10月まで北朝鮮にのこり、そのおかげで北朝鮮は兵力を経済建設に転用しえたが、中国軍駐留時に延安系の将軍たちの粛清は徹底的に進められた。こうして軍隊は完全に満州派のものとなった。社会主義的改造は上から強行された。農業集団化はソ連モデルに従って行われた。段階を踏んで漸進的に進むのでなく、最高のレベルの集団経営が一挙につくられた。ただし、戦争の過程で住民の同質化が進んでいたため、集団化への実力反抗という動きはなかった。工業管理面では党組織の役割が増大した。しかし、なお行政組織との二元的相互牽制が完全には消えていなかった。職業同盟は粛清の結果、増産競争運動の担い手としての役割を忠実に履行するものとなった。農村では集団化で生まれた農業協同組合(ソ連で言うコルホーズ)を里単位で統合し、里の人民委員会と農業協同組合を合体することが実現された。強力な農村掌握は農村からの経済余剰の抽出を可能にし、重工業中心の超高速成長路線による経済復旧を支えた。 第五章「『国家社会主義』と党の『一元的指導』体制の確立」は1958年から61年までの第五期を扱う。粛清は、社会、国家に対する党優位の原則の制度化の過程として完成され、これは軍隊から始まって、農村、工場へ拡大された。そのさい「千里馬運動」、「青山里方法」、「大安の事業体系」、「新しい農業指導体系」などとよばれる朝鮮式モデルが追求されたが、これはソ連型「国家社会主義」の枠内でのことであった。1961年の第4回大会は金日成と満州派の「勝利者の大会」であった。「党中央委員会の満州派化」は「党・政・軍の一体化」を表す出来事であった。軍隊内ではソ連式の軍事単一制が否定され、党委員会を最高とする中国式軍党制度が採用されたのだが、満州の抗日武装闘争が創軍の唯一の理念として、建国理念として定式化された。58年3月にはじまった第一次5カ年計画は「千里馬運動」の組織などにより大衆の熱意を動員して進められ、目標数字は2カ年半で達成されたと発表された。この結果、59年度は目標数字が途方もない高水準に設定されて、破綻した。しかし60年度は後退したものの、61年度は農業面でまたまた過度な目標をたてるにいたり、61年決定の新7カ年計画は高成長路線に戻った。工業部門にも党優位の制度化が貫かれ、「千里馬運動」で働いた職業同盟は最終的に党の一部署程度に格下げとなり、支配人の唯一管理制は「資本主義の残滓」として退けられて、工場党委員会による集団的指導体系への移行が宣言された。これが「大安の事業体系」である。農業では里を生産単位として、郡を中央を代表する行政の末端単位として、郡党委員会が里を直接指導する形がつくられた。これが「青山里方法」である。さらに郡に郡農業協同組合経営委員会という国家機関が設置され、郡党はこれを通じても、里=農業協同組合を管理することになった。これによって農業協同組合の国家化が貫徹した。 このように、北朝鮮の国家社会主義は第4回党大会を起点に成立した。党政関係、軍隊、工場、農村の末端にいたるまで党の一元的指導体系を貫徹させ、国家社会主義は社会を生産単位の作業班のレベルまでその中に包摂した。 終章は、成立した北朝鮮社会主義の特徴をまとめている。この社会主義はモデルとされたソ連、中国よりも徹底した国権的社会主義であったが、それは冷戦の最前線に位置したため、軍事色を濃く帯びざるをえなかったためであるとともに、党・軍関係の歴史的形成と変化、満州派の存在などの内的構造にも規定されたためである。しかし、軍事色は社会主義を制約したものではなく、むしろ社会主義をより徹底化する要素であった。この体制は根底として変化なく、より強化した形で今日まで続いている。徐氏も、この体制の上に70年代には「遊撃隊国家」、「首領制」、「社会主義的コーポラティズム」、「唯一指導体系」など、さまざまによばれる第二次的構造が形成されると展望するが、そのさい、この変化を徹底した国権社会主義としての自己維持と関連させて見ること、政治的側面だけで変化をとらえるのではなく、体制の深い側面まで穿鑿することを主張している。 最後に付表としてつけられた党・政府・社会団体・党大会の幹部職歴は従来発表された人事表の中でもっとも包括的、もっとも正確なもので、価値が高い。 本論文は、北朝鮮の公式機関誌紙を人事、系派に着目しつつ、丹念に読み込んで、1945年から61年までの北朝鮮の国家と社会の変化を描き切った力作である。先行社会主義国研究の成果を吸収し、北朝鮮の社会主義の成立をクリャに分析した点は画期的と言ってよい。とくに45年から50年まで、あるいは53年まではある程度の研究が存在するが、53年から61年までの核心の時期については学問的研究がほとんどなく、はじめて本格的な分析がなされたのである。これによってそれまでの時期の研究の意味づけも明確になるという意味で、意義深い。本論文は今後北朝鮮研究の土台をつくった業績として、国際的に高い評価が与えられることは間違いない。 すぐれた研究だが、当然に問題もある。公式資料はよく集めているが、それらを分析するのに依拠する証言や回想の類の資料に関しては、いっそうの吟味が必要である。スペースの問題もあってか、そのような吟味を省略している点が惜しまれる。さらに基本資料の性格は党中央の新聞雑誌であり、その上からの強烈なサーチライトで照らされた国家と社会の関係がここにとらえられているのだが、下から見れば、別の、かくされた問題、過程がありうる。その点も考慮に入れないと、システム上の変化の原因の説明は十全のものにならない。説明が歴史的であるよりも、図式的になっていると感じられるところがあるのは、そのためである。もっともこれは研究の段階上やむをないことである。また解放以前の植民地支配期の社会の分析を合わせることによって、前提の側から明らかになることもある。とくにその時期と解放後の民衆意識の変化を見ることも意義がある。しかし、それもただちに参照できる研究がない。今後の課題であろう。 以上のような判断から、審査委員会は本論文が博士(学術)の学位にふさわしいものと判定する。 |