【序】希土類元素はお互いに化学的性質が類似していて、そのわずかの差が原子番号がかわることによって規則的であることから、最近海洋地球化学において注目を集めている元素群である。例えば、海洋中の多くの微量元素濃度を支配している粒状物質との間の吸-脱着反応と沈降除去過程や、水塊のキャラクタリゼーションなどについては、希土類元素のパターンや濃度比を用いてより高度な研究の展開が可能と思われる。しかしこれまでの海水中希土類元素の測定は、同位体希釈法または放射化分析法で行われてきたため、単一同位体であるY、Pr、Tb、HoとTmの精密分析は大きな関門であった。一方、イットリウム(Y)はスカンジウム(Sc)よりランタノイドと化学的性質が類似していると言われているが、海水中Y濃度の測定についてはほとんどその報告例がない。従って、海洋におけるYの地球化学的挙動はまだよく分かっていない。 本研究では、最近Shabani et al.(1990)によって開発されたICP質量分析法を用いて、Yと全てのランタノイドを数多くの海水試料(日本近海を含む西太平洋において約260試料)を測定し、それらの地球化学的挙動のシステマティックスを明らかにした。そして、1)Yとランタノイドの地球化学的挙動の類似点と相違点、2)希土類元素のパターンおよび元素相互の比を用いた水塊のキャラクタリゼーション、および3)希土類元素の海底付近での異常などについて考察した。 【海水中のYと希土類元素の分布と挙動】図.1に示すように、Yはいずれも表層から深層にかけて濃度が徐々に増大し、3価の希土類元素と同じようにいわゆる栄養塩型の分布を示すことが明らかとなった。そのため深層水中の濃度は北大西洋の約140pmol/kgから南太平洋→北太平洋の順に増加し、北太平洋では300pmol/kgにも達している。栄養塩の中ではリン酸や硝酸よりは溶存Siと最も良く相関するが、YとSiが化学的に同一挙動をしているわけではない。 図1.西太平洋海水中のYの鉛直分布. Yは各希土類元素(4価をとり得るCeを除く)と非常に高い相関を示すが、中でもHoと最も類似している。その一例を、東京湾から外洋へかけての表層水について見たのが図.2aであり、この図からYはHoとの相関が最も高いことがわかる。同様のことは、鉛直分布の類似性からも結論される。YはHoとその化学的挙動が類似しているのは、それらのイオン半径がお互いに近いこと、および炭酸イオンとの錯形成安定度定数がほぼ同じであることとからも類推できる。一方、YとHoの化学的挙動の相違点もまた明らかである。図.2bに示すようにYと希土類元素の回帰直線は常にYに対して正の切片を持つ。これはLaと他の希土類元素がほぼ原点を通ることとから、Yの挙動の違いが示唆される。また、海洋中のHO/Y比は水塊によって0.50〜1.12×10-2の異なった値をとる上、それらは地殻物質中の比(1.92×10-2)よりも明らかに小さい。つまり、大陸地殻の風化作用、海洋からのスキャベンジングによる除去などの地球化学過程で両者の分別が起こっていることが明らかとなった。Yは海水中ではHoよりも安定に存在でき、海洋中での平均滞留時間も相対的に長いものと推定され、約4000年と見積もられた。 図2a.希土類元素のYおよびLaとの相関係数(R2). 2b.希土類元素のYおよびLaに対する回帰直線のY切片. 【Yと希土類元素を用いた水塊のキャラクタリゼーション】伊豆小笠原海域海水のYを含めたPAAS(オーストラリア産頁岩)に規格化した希土パターン(図.3)をみると、Ceの負の異常と共に、深さ方向に重希土が濃縮していく。特に表層水は、ErやTmで最大となるパターンを示すのに対して深層水や沿岸海水ではLuにかけて増大していく。海水中の希土類元素は海洋粒状物質のスキャベンジングによって海底へ沈降除去されるが、その過程は粒子表面での有機リガンドと海水中の炭酸イオンとの錯形成の競合反応の結果としてとらえることができる。表層から深さが増すにつれて重希土が濃縮していくのは、炭酸イオンとの錯形成安定度定数がほぼ原子番号順に大きくなることに対応したものと考えられる。これまで表層海水で"Ceの正の異常"が報告されているが、本研究で測定した試料の中でそれを示すものは発見できなかった。また、Gdの正、およびTbの負の異常のようなものが見られたが、これがMasuda and Ikeuchi(1979)のいうテトラド効果によるものかどうかは判断できなかった。 図3.頁岩に規格化した北西太平洋海水の希土パターン ICP質量分析法で初めて精密に測定可能となったY、Pr、Tb、Ho、Tmを含めて、それらの水塊トレーサとしての価値を検討した。とくにHo/Dy、Ho/Er、Tm/ErおよびTm/Yb,の重希土間の元素比の分析精度は1%以下であり、それに対して海洋中でのそれらの変動範囲は10倍以上であることがわかった。このことから、それらが海水の循環・混合の貴重なトレーサとなることが示された。図.4は伊豆小笠原海溝でのHo/DyとHo/Er比を塩分と対比して示したものである。ここでは黒潮系表層水(KCSW)と塩分極小で示される北太平洋中層水(NPIW)、および北太平洋深層水(NPDW)で示される比較的単純な海洋構造をしているといわれる。しかし、Ho/Dy比はNPIWで極大を示すのに対し、Ho/Er比は単調に減少しNPDWの2000m付近で極小となる特異な分布を示した。このような変化は、粒状物質の吸着過程におけるフラクショネーションでは説明できず、Ho/Er比の小さい海水が水平方向からこの海域の2000m付近に貫入していることを示唆している。またHo/Y比はHo/Dy比と同様にNPIWで最大を示すが、NPDWではHo/Er比に近い分布を示した。このようにDy-Ho-Y-Erの系は、起源の異なる海水の混合によって相互の比が特異な分布を示し、水温や塩分では区別のできない水塊構造を明らかにする上で効果を発揮した。オンライン分析法も開発されているので船上分析も可能と判断され、今後重要な海洋学トレーサーとなり得る。 図4.伊豆小笠原海溝におけるHo/Dy、Ho/ErおよびHo/Yの分布、および塩分と溶存酸素の分布. 【海底付近での希土類元素の濃度異常】海底付近ではYおよび希土類元素濃度が異常に高くなる現象がときどき観察された(図.1)。海底付近を密に採水し、最も詳細なデータの得られた日本海溝(St.LM9)についてその原因を考察した。海底直上の値を海底の影響のない6500mの値と比較すると、Yについては20%の過剰にすぎないが、希土類元素については2倍、また、Ceについては26倍にもなる。検討の結果、海底付近の過剰の希土類元素は、とくに粒子状マンガンとの相関がよいことがわかった。このことは、海底付近の希土類元素の濃度異常は、おそらく海底からの微細粒子の舞い上がりによるものと推定される。今後、こうした海底付近の異常の出現頻度、地震や流れの渦などとの関連、および物質循環に果たす役割などを究明する必要がある。 |