学位論文要旨



No 111497
著者(漢字) 張,勁
著者(英字)
著者(カナ) チョウ,ケイ
標題(和) 海水中のイットリウムとランタノイドの地球化学
標題(洋)
報告番号 111497
報告番号 甲11497
学位授与日 1995.09.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2978号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 野崎,義行
 東京大学 教授 梅澤,喜夫
 東京大学 教授 脇田,宏
 東京大学 教授 高野,穆一郎
 東京大学 助教授 薬袋,佳孝
内容要旨

 【序】希土類元素はお互いに化学的性質が類似していて、そのわずかの差が原子番号がかわることによって規則的であることから、最近海洋地球化学において注目を集めている元素群である。例えば、海洋中の多くの微量元素濃度を支配している粒状物質との間の吸-脱着反応と沈降除去過程や、水塊のキャラクタリゼーションなどについては、希土類元素のパターンや濃度比を用いてより高度な研究の展開が可能と思われる。しかしこれまでの海水中希土類元素の測定は、同位体希釈法または放射化分析法で行われてきたため、単一同位体であるY、Pr、Tb、HoとTmの精密分析は大きな関門であった。一方、イットリウム(Y)はスカンジウム(Sc)よりランタノイドと化学的性質が類似していると言われているが、海水中Y濃度の測定についてはほとんどその報告例がない。従って、海洋におけるYの地球化学的挙動はまだよく分かっていない。

 本研究では、最近Shabani et al.(1990)によって開発されたICP質量分析法を用いて、Yと全てのランタノイドを数多くの海水試料(日本近海を含む西太平洋において約260試料)を測定し、それらの地球化学的挙動のシステマティックスを明らかにした。そして、1)Yとランタノイドの地球化学的挙動の類似点と相違点、2)希土類元素のパターンおよび元素相互の比を用いた水塊のキャラクタリゼーション、および3)希土類元素の海底付近での異常などについて考察した。

 【海水中のYと希土類元素の分布と挙動】図.1に示すように、Yはいずれも表層から深層にかけて濃度が徐々に増大し、3価の希土類元素と同じようにいわゆる栄養塩型の分布を示すことが明らかとなった。そのため深層水中の濃度は北大西洋の約140pmol/kgから南太平洋→北太平洋の順に増加し、北太平洋では300pmol/kgにも達している。栄養塩の中ではリン酸や硝酸よりは溶存Siと最も良く相関するが、YとSiが化学的に同一挙動をしているわけではない。

図1.西太平洋海水中のYの鉛直分布.

 Yは各希土類元素(4価をとり得るCeを除く)と非常に高い相関を示すが、中でもHoと最も類似している。その一例を、東京湾から外洋へかけての表層水について見たのが図.2aであり、この図からYはHoとの相関が最も高いことがわかる。同様のことは、鉛直分布の類似性からも結論される。YはHoとその化学的挙動が類似しているのは、それらのイオン半径がお互いに近いこと、および炭酸イオンとの錯形成安定度定数がほぼ同じであることとからも類推できる。一方、YとHoの化学的挙動の相違点もまた明らかである。図.2bに示すようにYと希土類元素の回帰直線は常にYに対して正の切片を持つ。これはLaと他の希土類元素がほぼ原点を通ることとから、Yの挙動の違いが示唆される。また、海洋中のHO/Y比は水塊によって0.50〜1.12×10-2の異なった値をとる上、それらは地殻物質中の比(1.92×10-2)よりも明らかに小さい。つまり、大陸地殻の風化作用、海洋からのスキャベンジングによる除去などの地球化学過程で両者の分別が起こっていることが明らかとなった。Yは海水中ではHoよりも安定に存在でき、海洋中での平均滞留時間も相対的に長いものと推定され、約4000年と見積もられた。

図2a.希土類元素のYおよびLaとの相関係数(R2). 2b.希土類元素のYおよびLaに対する回帰直線のY切片.

 【Yと希土類元素を用いた水塊のキャラクタリゼーション】伊豆小笠原海域海水のYを含めたPAAS(オーストラリア産頁岩)に規格化した希土パターン(図.3)をみると、Ceの負の異常と共に、深さ方向に重希土が濃縮していく。特に表層水は、ErやTmで最大となるパターンを示すのに対して深層水や沿岸海水ではLuにかけて増大していく。海水中の希土類元素は海洋粒状物質のスキャベンジングによって海底へ沈降除去されるが、その過程は粒子表面での有機リガンドと海水中の炭酸イオンとの錯形成の競合反応の結果としてとらえることができる。表層から深さが増すにつれて重希土が濃縮していくのは、炭酸イオンとの錯形成安定度定数がほぼ原子番号順に大きくなることに対応したものと考えられる。これまで表層海水で"Ceの正の異常"が報告されているが、本研究で測定した試料の中でそれを示すものは発見できなかった。また、Gdの正、およびTbの負の異常のようなものが見られたが、これがMasuda and Ikeuchi(1979)のいうテトラド効果によるものかどうかは判断できなかった。

図3.頁岩に規格化した北西太平洋海水の希土パターン

 ICP質量分析法で初めて精密に測定可能となったY、Pr、Tb、Ho、Tmを含めて、それらの水塊トレーサとしての価値を検討した。とくにHo/Dy、Ho/Er、Tm/ErおよびTm/Yb,の重希土間の元素比の分析精度は1%以下であり、それに対して海洋中でのそれらの変動範囲は10倍以上であることがわかった。このことから、それらが海水の循環・混合の貴重なトレーサとなることが示された。図.4は伊豆小笠原海溝でのHo/DyとHo/Er比を塩分と対比して示したものである。ここでは黒潮系表層水(KCSW)と塩分極小で示される北太平洋中層水(NPIW)、および北太平洋深層水(NPDW)で示される比較的単純な海洋構造をしているといわれる。しかし、Ho/Dy比はNPIWで極大を示すのに対し、Ho/Er比は単調に減少しNPDWの2000m付近で極小となる特異な分布を示した。このような変化は、粒状物質の吸着過程におけるフラクショネーションでは説明できず、Ho/Er比の小さい海水が水平方向からこの海域の2000m付近に貫入していることを示唆している。またHo/Y比はHo/Dy比と同様にNPIWで最大を示すが、NPDWではHo/Er比に近い分布を示した。このようにDy-Ho-Y-Erの系は、起源の異なる海水の混合によって相互の比が特異な分布を示し、水温や塩分では区別のできない水塊構造を明らかにする上で効果を発揮した。オンライン分析法も開発されているので船上分析も可能と判断され、今後重要な海洋学トレーサーとなり得る。

図4.伊豆小笠原海溝におけるHo/Dy、Ho/ErおよびHo/Yの分布、および塩分と溶存酸素の分布.

 【海底付近での希土類元素の濃度異常】海底付近ではYおよび希土類元素濃度が異常に高くなる現象がときどき観察された(図.1)。海底付近を密に採水し、最も詳細なデータの得られた日本海溝(St.LM9)についてその原因を考察した。海底直上の値を海底の影響のない6500mの値と比較すると、Yについては20%の過剰にすぎないが、希土類元素については2倍、また、Ceについては26倍にもなる。検討の結果、海底付近の過剰の希土類元素は、とくに粒子状マンガンとの相関がよいことがわかった。このことは、海底付近の希土類元素の濃度異常は、おそらく海底からの微細粒子の舞い上がりによるものと推定される。今後、こうした海底付近の異常の出現頻度、地震や流れの渦などとの関連、および物質循環に果たす役割などを究明する必要がある。

審査要旨

 LaからLuまでのランタノイド15元素とYとScを加えて総称する希土類元素は互いに化学的性質が類似していて、そのわずかの差が原子番号が変わることによって規則的であることから、最近海洋地球化学において注目を集めている元素群である。例えば、海水中の多くの微量元素濃度を支配している粒状物によるスキャベンジングの過程や水塊のキャラクタリゼーションについては、希土類元素のパターンや濃度比を用いてより高度な研究の展開が期待される。しかし、これまでの分析法は、同位体希釈質量分析法または放射化分析法によっていたため、単一同位元素のY,Pr,Tb,HoおよびTmの精密分析を行うことが大きな関門となっていた。本研究は、最近開発された溶媒抽出濃縮法とICP質量分析法を用いて、海水中のYと全てのランタノイドを迅速にかつ高精度分析することに成功し、その手法を西部太平洋の海水に応用していくつかの新しい地球化学的・海洋学的考察を行ったものである。

 本論文は全4章からなり、第1章の序論では本研究の背景と目的、第2章では試料の採取および分析法、第3章はその結果と地球化学的・海洋学的考察、および第4章はまとめと結論で構成されている。

 第2章では、分析法の種々の検討を行い、重希土とYについて±5%以重希土では±3%以内の分析が可能であること、また重希土間の元素比については±1%以内の高い分析精度が達成されたことを述べている。一方、測定した海水試料は、南太平洋および北太平洋で採取したもので、表層から海溝内の水深9750mまでの広範囲におよび、その数は220試料にも達している。

 第3章ではその新しい成果について述べ、まず海水中のYが表層から深層へかけて徐々に濃度が増加する、いわゆる栄養塩型の分布をすること、そしてその結果として、大西洋→南太平洋→北太平洋の順に深層水の濃度が増加することを明らかにした。このようなYの分布は、栄養塩の中ではリン酸や硝酸よりもケイ素の分布と似ているといえるが、詳細にはその差も大きく、むしろこれまで分布の知られている微量元素の中ではランタノイドに近い。そしてLaからLuまでの15元素の中では、イオン半径の最も近いHoと一番類似していることが分かった。ただし、海水中のY/Ho比は、隕石や近く岩石中の比よりも約2倍大きく、海洋を含む地球化学的循環過程でそれらが必ずしも同一挙動をしているわけではない。つまり、海水中ではHoよりYの方が安定に存在でき、海洋中での平均滞留時間も約4000年と見積もられた。また、本研究で高精度分析が可能となった重希土Dy-Ho-Y-Erの系の元素比を用いて、これまで濃度、塩分、溶存酸素などの分布からは区別できなかった西部北太平洋の深層水の層状構造を明らかにした。さらに海底付近で微細粒子の舞い上がりによると思われる濃度異常を発見し、今後の海底境界層における現象解明のための糸口を見つけた。

 このように本研究は海水中のYとランタノイドの全てを高精度かつ迅速に測定することを可能にし、それらのもつ貴重な海洋化学的トレーサーとしての価値を立証することに成功した。このことは今後の海洋化学の進展に大きく寄与するものと判断される。従って本論文の提出者である張動は、東京大学博士(理学)の学位を受けるのに充分な資格を有するものと認める。

 なお、本論文の内容は、野崎義行氏、天川裕史氏との共同研究として一部印刷公表されているが、論文提出者が中心になって研究・考察を行ったものであり、本論文の提出者の寄与が大部分であると判断した。

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