学位論文要旨



No 111499
著者(漢字) 宮崎,剛
著者(英字)
著者(カナ) ミヤザキ,ツヨシ
標題(和) DCNQI-(Cu,Ag,Li)系金属相の第一原理電子状態計算による理論研究
標題(洋) First-principles theoretical study of metallic states of DCNQI-(Cu,Ag,Li)systems
報告番号 111499
報告番号 甲11499
学位授与日 1995.09.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2980号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 高田,康民
 東京大学 教授 塚田,捷
 東京大学 教授 浅野,摂郎
 東京大学 助教授 加藤,礼三
 東京大学 助教授 常行,真司
内容要旨

 有機固体(R1,R2-DCNQI)2M(M=Cu,Ag,Li)の金属相に対して、密度汎関数法における局所密度近似(LDA)に一般化された密度勾配展開(GGA)の補正を加えた第一原理電子状態計算を行った。従来有機固体に対して行われてきた、ヒュッケル近似をもとにした半経験的な電子状態計算では、実験値を再現するように決められるパラメータが存在するが、本研究の計算はそのようなパラメータを一切含まない。有機固体のような複雑な物質に対しても、無機物に対するのと同等の精度をもった第一原埋電子状態計算が可能になってきたことを示す。また、(DMe-DCNQI)2Cuに対しては(実験によって得られている格子定数のもとで)原子位置を第一原理電子状態計算によって最適化を行った。このような最適化が現在、どの程度の信頼性をもつか示す。

 (DCNQI)2M(M=Cu,Ag,Li)の結晶構造はすべて同型である。結晶は電子受容体であるDCNQI分子がc軸に沿って1次元的に配列し、その1次元カラムを電子供与体である金属原子Mが3次元的につないでいる。Ag,Li塩の場合は、物性は置換基R1,R2の種類によらず、高温で金属のものが100K程度で4倍周期の電荷密度波(CDW)を伴い、2次転移で絶縁体化する。それに対し、Cu塩の場合はR1,R2の種類によって、高温から低温への温度変化に対して、I)金属、II)金属→絶縁体、III)金属→絶縁体→金属(リエントラント)という異なる伝導性を示す3つのグループに分けられる。このときの絶縁体転移は1次転移で3倍周期のCDWを伴っている。また、微小な圧力を加えたり、混晶や同位体効果などによる化学的な圧力によって、グループIのものはグループIII、グループIIへと変化する。1次元と3次元の共存、リエントラントを含む金属・絶縁体転移、圧力効果、重い電子系との関連、CDWやSDWなどの興味深い物性が(DCNQI)2Cuには数多く存在し、現在最も注目を集めている物質群の一つである。

 図1に(DMe-DCNQI)2Agのフェルミエネルギー付近のバンド構造を示す。図の右側には、それぞれのバンドが主にどの軌道から生じているかを示している。図1中の4本のLUMO(DCNQI分子の最低非占有軌道)のバンドは、c*軸方向(図中のVY、XU、Zの方向)には大きな広がりを持つのに対し、c*軸に垂直な方向(YXの方向)にはほとんど広がりを持たず、1次元性が非常に強くなっていることが分かる。また、この結果から得られる4つのフェルミ面はすべて平面的になり、4倍周期のCDWを形成しやすい状況になっている。図1中の矢印は4倍周期のCDWに対応するフェルミ波数である。(DMe-DCNQI)2Liに対して得られるバンド構造を図2に示す。Li塩の場合、LUMOのバンドの下にd軌道によるバンドは存在しないが、LUMOのバンドはAg塩のものとあまり変わらない。以上の結果は、(DMe-DCNQI)2Ag、(DMeDCNQI)2Liの伝導性が1次元的で、低温で4倍周期のCDWを伴い絶縁体化するという実験事実によく対応する。

 図3に(DMe-DCNQI)2Cuのフェルミエネルギー付近のバンド構造を示す。この結果は、第一原理電子状態計算によって最適化された原子位置を用いて得られたものである。最適化された原子位置は実験によって得られている原子位置をよく再現する。原子間の距離で一番大きなずれは、分子の末端のCN間の距離で、計算値は実験値より約0.03A大きくなっている。実験値による原子位置を用いて得られたバンド構造と図3を比較してもバンド構造は本質的に変化しないので、第一原理電子状態計算による原子位置の最適化はかなり信頼性の高いものであると結論できる。Ag塩、Li塩と比較するとCu塩の4本のLUMOのバンドのうち、2本のバンドには3次元性がかなり存在していることが分かる。これは、Cu塩の場合、d軌道の準位がAg塩に比べてエネルギー的に高いところにあるので、dxy軌道とLUMOとの混成が強くなることに起因している。(DMe-DCNQI)2CuはグループIに属し、低温まで金属である物質であるが、圧力に対して非常に敏感でわずか100bar程度の圧力で絶縁体化する。図中の矢印は、3倍周期のCDW不安定性に対応するフェルミ波数を示す点であるが、この近くでフェルミ準位をよぎるバンドから作られるフェルミ面は平面的で、この物質が3倍周期のCDWを起こしやすい状況にあることを示している。de Haas van Alphen効果の実験によって観測されている、この物質の3次元性を示す点まわりのホールは図3の結果においても存在している。ただし、このホールの大きさは、実験による原子位置を用いて得られるバンド構造が実験値をよく再現するのに対して、図3の結果は2倍程度に大きく見積もる。原子位置などに非常に敏感な量であると考えられるこのホールの大きさを定量的に再現するには、さらに精度の高い原子位置の最適化が必要である。

 次に、(DBr-DCNQI)2Cu、(DI-DCNQI)2Cu、(DI-DCNQI)2Liの電子状態について考察する。(DBr-DCNQI)2CuはグループIIの物質で160K程度で金属・絶縁体転移を起こす。室温の構造を用いて得られる(DBr-DCNQI)2Cuのバンド構造(図4)は、本質的に図3のバンド構造とあまり変わらない。それに対して、グループIに属し、金属状態が圧力に対して非常に安定である(DI-DCNQI)2Cuのバンド構造(図5)は図3、図4とはかなり異なるものになる。図3との比較により、(DI-DCNQI)2Cuの大きな特徴は次にあげる3点である。1)LUMOのバンド幅が(DMe-DCNQI)2Cuに比べるとかなり小さい2)LUMOとHOMOとのエネルギー差が0.8eVで、(DMe-DCNQI)2Cuの場合の1.2eVに比べてかなり小さい。3)フェルミ面の形状から3倍周期のCDW不安定性が弱い。1)に関連して、フェルミ準位での状態密度の大きさは(DMe-DCNQI)2Cuの場合の約2倍になり、それから評価される電子比熱係数と静帯磁率も2倍になる。この計算結果は実験結果の傾向と一致する(絶対値の比較では、DMeとDIの両方で計算値は実験値の2〜3分の1程度)。また、3)は、(DI-DCNQI)2Cuが圧力に対してかなり安定な金属であることに対応すると考えられる。(DI-DCNQI)2Cuのこのような特異性の原因は現在のところ明らかではないが、まず2)からHOMOの寄与が関係していることが考えられる。また、フェルミ準位付近の状態に対する電子密度分布を調べることにより、この系に対しては隣接する1次元鎖間の相互作用がI-I、I-Nを介して重要になっていることが分かる。R1、R2がIの場合のCu塩における特異性はLi塩である(DI-DCNQI)2Liのバンド構造(図6)にも見られる。(DI-DCNQI)2Liのバンド構造は他のLi塩と異なり1次元鎖間の相互作用が大きくなっている。

図表図1:(DMe-DCNQI)2Agのバンド図。図中の矢印は4倍周期のCDWに対応するフェルミ波数。 / 図2:(DMe-DCNQI)2Liのバンド図。図中の矢印は4倍周期のCDWに対応するフェルミ波数。 / 図3:(DMe-DCNQI)2Cuのバンド図。図中の矢印は3倍周期のCDWに対応するフェルミ波数。 / 図4:(DBr-DCNQI)2Cuのバンド図。図中の矢印は3倍周期のCDWに対応するフェルミ波数。 / 図5:(DI-DCNQI)2Cuのバンド図。図中の矢印は3倍周期のCDWに対応するフェルミ波数。 / 図6:(DI-DCNQI)2Liのバンド図。図中の矢印は4倍周期のCDWに対応するフェルミ波数。

 以上まとめると、有機固体DCNQI-(Cu,Ag,Li)に対してLDAに基づく第一原理電子状態計算を行った結果、フェルミ面の形状から予想されるCDW不安定性とこの物質群の金属状態の不安定性がよい一致を示すことが示された。フェルミエネルギーにおける状態密度から評価される電子比熱、静磁化率は実験値の2〜3分の1程度であることより、この物質群に対する電子格子相互作用、電子間相互作用の重要性が示唆される。さらに、(DMe-DCNQI)2Cuに対しては、理論計算による原子位置の最適化がかなり精度良く行えることを示した。

審査要旨

 最近,修飾置換基がかなり自由に選べる分子,あるいは分子群を構成単位とした高導電分子性結晶が,物理,化学,そして,新機能性素子の開発に関連して工学の立場からも注目を集めている.このような結晶の物性を微視的な立場から理解するために,また,より効率的な新物質合成のためにも,第一原理からの電子状態計算に基づく情報が果たす役割は大きく,それを得る具体的な計算手法の開発が待ち望まれている.修士(理学)宮崎剛提出の学位請求論文においては,電荷密度波(CDW)発生をはじめとする多様な物性を示すことで注目されているDCNQI-(Cu,Ag,Li)系の金属相が具体的なターゲットとなっているものの,より根本的には,無機物でのバンド計算に際して開発されている現在の最高水準の技術を組み合わせれば,結晶単位胞中に百個のオーダーの原子があるような複雑な有機物のバンド構造も,高精度に求められうることを示す意欲的な研究が報告されている.

 英文で5つの章からなる本論文の第1章では,はじめに有機固体研究の意義が説かれる.そして,これら有機物の1電子的な情報は,古典的なヒュッケル近似でも大まかには得られるものの,その半経験的な性格に由来する欠点を克服するためや,そもそも,構成原子相互の位置関係までも理論的に決めるという構造最適化を行うためには,第一原理計算が必要であることが述べられる.

 次に第2章では,具体的な研究対象となるDCNQI塩に関する実験事実がまとめられる.特に,銀錯体やリチウム錯体では,修飾置換基の種類によらず,c軸方向の一次元性の強い金属相が4倍周期(2kF異常)のCDW発生を伴って低温側で絶縁相に変わる.この2次相転移温度は80-200Kの温度領域にある.一方,銅錯体は修飾置換基や圧力の有無に依存した多様な物性を示す.異方性の少ない金属相が低温まで続くものもあれば,3倍周期のCDW発生に伴って絶縁相に1次相転移的に変わるもの,より低温で再度金属相に戻るものもある.そして,これまでの研究によって,これらの物性を理解する鍵は単位胞中に4個あるDCNQI分子の最低非占有軌道(LUMO)と遷移金属原子のdxy軌道との絡み具合であると認識されている.

 さて,第3章では,具体的な計算手法が説明される.まず,密度汎関数法の基本定理が紹介され,そして,それに基づくバンド計算では最新の手法である「一般化された密度勾配法」(GGA)が本論文では採用される.その際,擬ポテンシャルとしては,バンダービルトによるものを選び,波動関数の展開に必要な平面波の数を大幅に削減する工夫がなされる.さらに,構造最適化に関しては,カー・パリネロ法が用いられるが,そこでは,並列ベクトル計算のための工夫が種々なされるなど,この分野の最高水準の技法が組み合わされている.

 第4章では,DCNQI塩についての計算結果が示される.まず,銀錯体とリチウム錯体の場合,フェルミ準位近傍ではLUMOに由来する4枚のバンドのみが重要で,c軸方向にだけ比較的大きな分散を持つ.そして,4倍周期に対応するネスティング・ベクトルを持つ1次元的フェルミ面が得られた.次に,メチル基のついた銅錯体では構造最適化も含めてバンド構造が計算された.a軸やc軸の格子定数は実験値を使うという制約下での最適化であるが,得られた原子位置は実験値と比べて全て0.03オングストローム以下の誤差であり,満足できるものである.フェルミ準位は4つのLUMOバンドを横切るが,Cuのdxy軌道に由来するバンドがより僅か約0.5eV下方にあるため,p-d混成が強くなり,LUMOバンドにc軸に垂直方向にも分散を与える.その結果,ドハース・ファンアルフェン効果で測定されているような3次元的なフェルミ面が生じた.また,同時に3倍周期に対応するネスティング・ベクトルを持つ1次元的フェルミ面も得られた.臭素を修飾子とした銅錯体では基本的にメチル基の場合と似た結果が得られたが,ヨウ素を修飾子とした場合,LUMO間のc軸方向の相互作用が見かけ上かなり小さくなることや,3倍周期に対応するようなネスティング・ベクトルが無くなり,1次元性が弱くなるなど,他とはかなり違った性質を持つことが示された.

 これらの結果は全て実験事実とよく符合する.ただ,非経験的な計算であるという点を別にして結果だけを見れば,これらはヒュッケル近似を用いた実験解析からある程度予想されていたことで,それ以上の知見が新たに得られたとは言い難い面がある.この観点から見ると,ヨウ素を修飾子とする銅錯体は,その解析がまだ十分ではないものの,LUMOとdxyだけでは記述しきれないという論文提出者の指摘に従えば,大変面白い系と考えられる.また,例えば,CDWがどのフェルミ面の組で実際に起こり,そのため,原子はどのように移動するか,フェルミ面の他の部分はどうなるか,という疑問は重要な今後の問題として残っている.本論文の第5章では,得られた結果を要約し,将来の問題を展望している.

 以上、各章を紹介し,特に第4章に関しては,審査員が気になったことも付け加えた.しかし,いずれにしても,本論文はよくまとまっており,計算技法・結果ともに,学位論文として充分な水準にあることが審査員全員によって認められ,博士論文として合格であると判定された.そして,DCNQI塩と同程度に複雑な有機物の高精度な第一原理からのバンド計算が可能であることを明らかにし,この分野における今後の発展の基礎を築いたものであり,非常に高く評価できる.尚、本論文の内容は寺倉清之氏,森川良忠氏,山崎隆浩氏らとの共著として,既にPhysical Review Letters誌1995年74巻の5104ページに発表されている.そして,その論文の第一著者である論文提出者が主体となって計算及び結果の解釈を行ったものあり、論文提出者の寄与が十分であると判断される.また,この件に関して,寺倉氏,森川氏,山崎氏からの同意承諾書が提出されている.

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