PCR(ポリメラーゼチェインリアクション)を利用して環境水中の腸管系ウイルスを検出する方法は、短時間かつ高感度の分析という点で有望な手法である。PCR法は標的の核酸を酵素による複製反応によって数百万倍に増幅して検出する方法であり、低濃度のウイルスの検出も可能となる。 PCR法は酵素反応なので、環境水中の腸管系ウイルスを直接検出する際に問題となるのは、各種の有機物や金属イオン等の様々な共存物質である。これらは酵素活性を阻害し検出感度を低下させる。また、低濃度の標的ウイルスを検出するためには、高感度の特異的PCRが必要である。すなわち、特定の標的を効果的に増幅するための試料の調整とPCR操作の最適化が要求される。 本研究において、下水中の腸管系ウイルスをPCR法によって直接検出する方法を開発した。PCR法の最適化を試みた結果、1PFUという理論的な感度が得られた。次に屎尿と下水にPCR法を適用した。下水中に含まれる阻害因子がPCR法の検出感度に与える影響を調べた。下水からのウイルス検出方法としてのPCR法の有効性を調べるため、下水環境中における遊離したRNAの挙動について調べた。 F特異RNA大腸菌ファージ(グループIII)とエンテロウイルスを直接検出するRT(逆転写)-PCR法を開発するため、RNAファージQとポリオワクチンをモデルとした。PCRの前処理として試料に含まれるウイルスのRNAを迅速に抽出するために直接加熱を行った。 RNA大腸菌ファージQは、培地中に継代培養されたストックを用い、90℃で10分間加熱してRNAを抽出した。QRNAのなかで、F特異RNA大腸菌ファージ(グループIII)に特異的な複製遺伝子をコードする3’末端を標的として増幅するプライマーを用いた。RT-PCR法の検出感度を向上させるため、K+(KClとして)とタックポリメラーゼの濃度、サイクル数、アニーリング温度等の各種パラメータを最適化することを試みた。他の条件が適当であれば、タックポリメラーゼの濃度を0.5から2.5units/reactionに、サイクル数を25から35回に変えることで感度が向上した。タックポリメラーゼを1.0から2.5units用いた反応では、KCl濃度が30から90mMの範囲では、PCR生成物量および感度には顕著な差があらわれなかった。しかし、タックポリメラーゼを0.5unit用いたPCR反応において、KCl濃度が高いと感度が低下し、不安定な結果となった。アニーリング温度を高くすると、ゲル電気泳動に見られるバックグランド生成物を低減することができた。タックポリメラーゼ2.5units、アニーリング温度55℃で35サイクルの増幅を行った条件において、最も小さい検出限界を示し、その値は0.3PFU/reactionであった。 ポリオウイルス1、2、3、コクサッキーウィルスA1,A3,A9,A24,B3,B4,B5とエンテロウイルス70を含むエンテロウイルスを検出するために、一本鎖RNAの5’ノンコーディング領域の保存領域から2セットのプライマーを選択した。コンピューターソフト"Amplify"と"Genetyx Mac"を使用し、プライマーの特異性を試験し、上記のウイルスグループに非常に特異的であることを確認した。 上述のプライマーを用いて、ポリオワクチン型のモデルウイルスの増幅を試みた。RNA抽出の加熱条件を変化させた結果(60℃30分,90℃20分,90℃15分,90℃10分,100℃10分)、ポリオワクチンを90℃で10分間加熱する条件において、増幅したPCR生成物の最大収率を得た。KCl濃度を50〜90mMの範囲で変化させても、感度には大きな影響を与えなかった。ただし、タックポリメラーゼ2.5unitsでKCl濃度が低い場合(35 mM)は、増幅生成物は少なくRT-PCRの感度は低下した。本研究における改良型RT-PCR法の検出限界は、3 PFU/reactionであり高い再現性と安定性を示した。 検出限界は、希釈媒体によって3〜0.3PFU/reactionと変動した。最高感度は0.3PFU/reactionであった。これはF特異RNA大腸菌ファージ(グループIII)における条件と同じ--35サイクル増幅でタックポリメラーゼ2.5units--であった。 次に、この改良型RT-PCR法をし尿と下水試料中の上述ウイルスの検出に応用した。細胞を培養することなく、増幅PCR生成物のポジティブバンドが得られた。し尿中のウイルス検出においては、RT-PCRの検出の阻害因子が存在することが判明した。し尿中の阻害因子はRT-PCRの感度を104倍低下させるが、この影響は試料の希釈に滅菌済みのMilliQ水を用いることで軽減することができた。従って、直接加熱によるし尿中の標的核酸を検出する場合には、希釈を行って阻害因子の濃度を減少させる必要がある。 下水試料中のウイルス検出においては、RT-PCR法の感度を低下させるような阻害因子の影響は全くなかった。生下水の上澄みと濃縮下水試料の感度は、TEバッファーと滅菌済みのMilliQ水を用いた場合と同じで、3PFU/reactionであった。直接加熱によるRNA抽出を行った後、試料をRNasinで処理する方法は簡単で早い方法であり、濃縮下水から標的核酸を直接検出することが可能となった。調査した試料のうち、六つの下水流入水試料すべてにおいて、PCR法によってF特異RNAファージ(グループIII)が検出された。一方、エンテロウイルスは4試料のみで検出された。塩素処理前の下水流出水の場合、5試料中3つでF特異RNAファージ(グループIII)とエンテロウイルスが検出された。下水試料中の沈殿物に吸着しているウイルスが重要であることが分かった。吸着したウイルス全体からの陽性率(88.2%)は上澄み中からの陽性率(45.5%)の約2倍近く大きい。 つぎに、ウイルスから遊離したRNAの下水中での安定性を調べるため、加熱により抽出されたQのRNAを生下水および活性汚泥の試料中に接種し、そこから試料を取ってRT-PCRにより接種したRNAを検出した。遊離したQRNAは、生下水試料中30分後と、曝気槽由来の活性汚泥試料中で1時間後では検出されなかった。一方、滅菌した生下水では少なくとも3日間、滅菌した活性汚泥試料では少なくとも2日間、Q RNAを検出することができた。下水に存在する微生物の活動が、試料中のウイルスRNAを分解する主な原因であると考えられる。これらの結果より、下水試料のRT-PCR法では、遊離したウイルスのRNAではなくて完全なウイルスからのRNAを陽性として検出していることがわかる。ウイルスのRNAはカブシドから下水環境中に放出されるとただちに消滅してしまうからである。ゆえに、RT-PCRによってウイルスRNAを下水中から検出すれば、それは試料中に完全なウイルスが存在していることを意味していることになる。 下水試料中の野生のF特異RNA大腸菌ファージ(グループIII)とエンテロウイルスを検出することに成功し、RT-PCR法によって環境水中のウイルスを直接検出する可能性を示した。また直接加熱によるRNA抽出法は、両方のモデルウイルスの検出に対して良好な結果を与えた。本研究において開発したRT-PCR法は、腸管系ウイルス、特に一本鎖RNAウイルスの研究に有効な手法である。 |