学位論文要旨



No 111525
著者(漢字) 李,允植
著者(英字)
著者(カナ) リ,ユンシク
標題(和) PC12細胞における神経伝達物質放出を阻害する物質の探索とその作用の解析
標題(洋)
報告番号 111525
報告番号 甲11525
学位授与日 1995.09.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1622号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山崎,眞狩
 東京大学 教授 小野寺,一清
 東京大学 教授 鈴木,紘一
 東京大学 教授 依田,幸司
 東京大学 助教授 北本,勝ひこ
内容要旨

 神経系は、ヒトの場合100億個以上の神経細胞とそれをはるかに凌ぐ数のグリア細胞から構成される極めて複雑なシステムである。その機能は正確なシナプス結合の形成とシナプス間における神経伝達物質を介した情報伝達に依存している。近年、学習・記憶などの脳の有する高次機能にシナプス伝達効率の調節機構が重要な役割を果たしていることが次第に明らかにされつつある。シナプス伝達の調節には大きく分けてシナプス前側の機構と、神経伝達物質受容体の関与するシナプス後側の機構が知られている。このうちシナプス前側のメカニズムとして、神経伝達物質の放出の調節が細胞レベル、個体レベルでの学習・記憶モデルの成立に関与していることが様々な実験から示唆されている。こうしたことから、神経伝達物質の放出の制御機構は神経機能の研究の基礎を成すものであると考えられ、極めて活発な研究が展開されている。

 神経伝達物質の放出は一般的には以下の過程を経て行われるとされている。脱分極刺激によって細胞体で発生した活動電位は軸索上に存在する電位依存性Na+チャンネルを活性化しNa+イオンを細胞内に流入させ、軸策上を興奮が伝導する。シナプス終末に到達した活動電位は電位依存性Ca2+チャンネルを活性化し、終末部にCa2+イオンが流入する。Ca2+濃度は局所的に数100モルに上昇し、それを引き金として様々な反応が進行した結果、シナプス小胞がシナプス前膜と融合し神経伝達物質が放出される。こうした一連の活動のうち、軸索上の興奮伝導からCa2+の細胞内流入に至る過程には種々のアゴニスト、アンタゴニストが知られており、それらを用いた研究から数多くの知見が得られている。一方Ca2+の細胞内流入以降の過程の分子機構に関しては、その過程に作用する特異的阻害剤が細菌毒素以外に殆ど知られておらず、またそうした物質を積極的に探索する試みもなされていないことなどから解析が遅れているのが現状である。

 本研究は以上の議論を踏まえ、神経伝達物質の放出を阻害する低分子生理活性物質を探索し、その作用メカニズムを通して神経伝達物質の放出機構に関する知見を得ることを目的として行ったものである。

第一章実験系の構築と既知薬剤の作用の検討1.実験系の構築

 PC12を[3H]-ノルエピネフリン(NE)を含む培地で数時間培養して細胞内へ取り込ませた後、高濃度のKClを含んだアッセイバッファーによる脱分極刺激を与え上清中に放出される[3H]-NE量を測定した。放出はアッセイバッファー中のCa2+に依存しており、刺激後30分でほぼプラトーに達した。またCa2+イオノフォアであるイオノマイシンの添加によってもKCl刺激とほぼ同様に[3H]-NEの放出が引き起こされた。

 PC12のシナプス様小胞には神経伝達物質としてATPが高濃度含まれていることが知られている。そこで放出されるATPを蛍光法により定量したところ、NEと同じく脱分極刺激やバッファー中のCa2+依存的に放出されることが分かった。以上の結果から本実験系が開口放出の過程を再現していると判断した。

2.既知薬剤の作用の検討

 次に本実験系における各種既知薬剤の作用を調べた。薬剤は全て広い濃度幅で細胞に前処理し、同濃度の薬剤含有の高濃度K+バッファーで刺激して[3H]-NEの放出量を測定した。その結果、微小管重合阻害剤ノコダゾール、コルセミド、ビンブラスチン、キナーゼ阻害剤スタウロスポリン、蛋白質の細胞内輸送阻害剤ブレフェルディンA、コンカナマイシンA、呼吸阻害剤オリゴマイシン、アンチマイシンA、ホスファターゼ阻害剤オカダ酸、カリクリンA、アクチン重合阻害剤サイトカラシンB、PI3キナーゼ阻害剤ワートマニンなどの薬剤には有意な阻害活性は認められなかった。しかしホルボールエステルは[3H]-NEの放出を若干促進すること、またRNA合成阻害剤アクチノマイシンDは阻害作用を有することを認めた。アクチノマイシンDはNK-2受容体のアンタゴニストとしても知られているが、本実験系における作用との関連の詳細は不明である。一方一価カチオンイオノホアであるモネンシン、ナイジェリシン等を細胞に加えた場合には[3H]-NEの放出量の顕著な増加が見られたが、これは脱分極刺激に依存しないことから薬剤の強い細胞毒性よるものであり、開口放出の促進によるものではないと考えられた。

第二章微生物サンプルからの探索と候補物質の選択

 放線菌2200株、カビ3600株の培養抽出液について一次検索を行い、[3H]-NE放出を阻害する候補のサンプルを選択した。これらの物質の中には当然Ca2+チャンネルに作用し、細胞内Ca2+の上昇を妨げることにより[3H]-NE放出を阻害する物質も含まれていると考えられる。そこで二次検索系としてイオノマイシン存在下での活性を調べることにより、Ca2+の細胞内流入以降の過程を阻害する物質の選択を行った。その結果、18株の候補株がイオノマイシン存在下においても[3H]-NE放出を強く抑制することを見出した。またこれらの物質は神経伝達物質の一種であるATPの放出もNEとほぼ同様に阻害した。以上の結果より、目的とする活性を有する物質である可能性が高く、また再培養においても再現性よく強い活性が認められた放線菌2株、カビ1株を最終的な候補サンプルとしてさらに以下の解析を行った。

第三章活性物質の精製と構造解析1.LF11039株の生産する活性物質の精製と構造解析

 候補物質の中で比較的活性の強がったカビLF11039株の生産する物質の精製を行った。LF11039株を大量培養し、菌体より80%アセトン抽出、酢酸エチル転溶、また上清より酢酸エチル抽出したサンプルを2回のシリカゲルカラムクロマトグラフィーにかけ約19mgの淡黄色の板状結晶を得た。機器分析の結果本物質は分子量300-400の低分子であり、UVにおいて230,252,320,370nmに極大吸収を持つ脂溶性物質であることが判明した。1H-NMRと13C-NMRによる解析から、すべての炭素原子がSP2である多環性芳香族物質であることが示された。

2.LS9940株とLS8877株の生産する活性物質の部分精製

 次に放線菌LS9940株とLS8877株の生産する活性物質の部分精製を行った。各々の株を大量培養し、菌体より80%アセトン抽出、酢酸エチル転溶したサンプルをシリカゲルカラムクロマトグラフィーに2回かけ、さらにSephadex LH20カラムクロマトグラフィーにより活性フラクションを分画した。

第四章各活性物質の生物活性の検討1.細胞内オルガネラの酸性化に及ぼす作用

 イオノフォアであるモネンシン、液胞型ATPase阻害剤コンカナマイシンAなどの薬剤は、細胞内オルガネラの酸性化を阻害することにより分泌を抑制することが知られている。得られた候補物質がそれらと同様の作用機序を有するかどうかを、酸性オルガネラのアクリジンオレンジ染色により調べた。その結果、いずれの物質にもオルガネラ酸性化の顕著な阻害活性は認められず、異なる作用を有することが示された。

2.好中球の脱顆粒に及ぼす作用

 刺激に応答した分泌を行う細胞として、PC12などの神経系の細胞の他に、IgE刺激によってヒスタミンを放出する肥満細胞や炎症のケミカルメディエーター刺激により加水分解酵素を放出する好中球が知られている。得られた候補物質が神経系の分泌現象に特異的であるかを調べるため、好中球の脱顆粒現象に及ぼす作用を検討した。モルモット腹腔より調製した好中球を候補物質の存在下ケミカルメディエーターであるfMLPで刺激し、上清中に放出された-グルクロニダーゼを定量した。その結果、LF11039物質とLS9940物質には脱顆粒に対する強い阻害活性が認められたが、LS8877物質は脱顆粒を阻害せず、神経伝達物質放出に特異的な阻害剤であることが示唆された。

3.細胞の増殖、形態に及ぼす作用

 LF11039物質の神経系の細胞の増殖および形態に及ぼす作用を検討した。まず細胞毒性をアストログリア由来細胞腫であるC6細胞を用いて調べたところ、その形態および増殖に影響を与えないことがわかった。またラットの大脳皮質細胞に対しては特徴的な形態の突起を生じさせることを見出した。本物質の添加により通常の状態よりも細く短い糸ような突起が細胞体から分枝状に伸長し、それらの突起には細胞間での連絡や突起同士での束の形成が見られなかった。また分化を誘導する至適濃度である50ng/mlのNGF存在下でのPC12の突起の伸長に対する影響を見た結果、突起の伸長を抑制した。

 同様にLS9940物質、LS8877物質についても検討した。いずれもC6の増殖は阻害せず、またラット大脳皮質細胞とNGF処理したPC12の突起伸長を抑制した。

まとめ

 微生物二次代謝産物の検索を行い、PC12からのNE,ATP放出を阻害するLF11039,LS9940、LS8877の三物質を見出した。これらはいずれもCa2+流入以降の細胞内プロセスに作用していると考えられ、これまで有効な阻害剤の得られていなかったこの分野における新たな分子プローブになることが期待される。さらに最近、神経伝達物質のエクソサイトーシスを調節する神経系特異蛋白質であるシナプシン、SNAP-25などが神経細胞の突起の伸長にも関与しているという報告もされている。本研究で得られた物質の培養神経細胞に対する作用から、それらが神経回路網形成過程にも作用しうる可能性も考えられる。今後はこれらの物質の作用機序の解析から、神経伝達物質放出の機構に関する基礎的な知見が得られるものと考えている。

審査要旨

 神経系は、ヒトの場合100億個以上の神経細胞とそれをはるかに凌ぐ数のグリア細胞とから構成される極めて複雑なシステムである。その機能は正確なシナプス結合の形成とシナプス間における神経伝達物質を介した情報伝達に依存している。近年、学習・記憶などの脳の有する高次機能にシナプス伝達効率の調節機構が重要な役割を果たしていることが次第に明らかにされつつある。そのシナプス前側の機構として神経伝達物質の放出の制御が細胞レベル、個体レベルでの学習・記憶モデルの成立に関与していることが様々な実験から示唆されている。著者は特異的な阻害剤の探索というアプローチからこの神経伝達物質放出機構の解析に取り組み、本論文にまとめている。論文は序論、第1章、第2章、第3章および総括からなっている。

 第1章では神経伝達物質の放出過程に作用する物質の探索系の構築、および探索の結果得られた候補物質の選択について述べている。

 PC12細胞はラット副腎髄質褐色細胞腫由来の株細胞であり、刺激に応じて神経伝達物質であるドーパミンやノルエピネフリンなどを分泌する性質を備えている。その細胞膜上には電位依存性Ca2+チャンネルや様々な神経系特異的な分泌関連蛋白質が発現しており、神経伝達物質放出の分子機構の解析に多用されている。著者らはPC12細胞をモデルに用いて、あらかじめ取り込ませた〔3H〕ノルエピネフリン(NE)の脱分極刺激による細胞外への放出を指標にした実験系を構築した。幾つかの薬剤を用いた検討から、NE放出がCa2+の細胞内流入に依存しており、シナプス様小胞からの開口放出によるものであることを確認した。

 次に本実験系における各種既知薬剤の作用を調べた。その結果、蛋白質細胞内輸送阻害剤ブレフェルディンA、V-ATPase阻害剤コンカナマイシンAを含めた殆どの薬剤には有意な阻害活性は認められなかった。しかしホルボールエステルは[3H]-NEの放出を若干促進すること、またRNA合成阻害剤アクチノマイシンD(AcD)は阻害作用を有することを認めた。AcDはNK-2受容体のアンタゴニストとしても知られているが、本実験系における作用との関連は不明である。またAcDはそのC6細胞に対する毒性を調べることにより検索系から容易に排除できることから、既知薬剤の中には本実験系に有効な薬剤はないと判断した。

 カビ3600株、放線菌2200株の培養抽出液について一次検索を行い、〔3H〕-NE放出を阻害する候補サンプルを選択した。これらの中からCa2+チャンネルをブロックし、Ca2+の細胞内流入を妨げることにより間接的に〔3H〕-NE放出を阻害する物質を排除することを目的に、二次検索系としてCa2+イオノフォアであるイオノマイシン存在下での活性を調べた。その結果18株の候補株がイオノマイシン存在下においても〔3H〕-NE放出を強く抑制することを見出した。またこれらの物質は神経伝達物質の一種であるATPの放出も同様に阻害した。以上の結果から、比較的生産性の良好であったカビ2株、放線菌2株を最終的な候補サンプルとして選択した。

 第2章は各活性物質の精製と構造解析に関するものである。

 カビLF11039株の生産する活性物質は溶媒抽出、シリカゲルカラムクロマトグラフィーにより約19mgの淡黄色の板状結晶として得られた。機器分析の結果その分子量は約390で、UVにおいて230,252,320,370nmに極大吸収を持ち、また1H-NMRと13C-NMRによる解析からすべての炭素原子がSP2である多環性芳香族物質であることが示された。カビLF10512が産生する活性物質は溶媒抽出、シリカゲルカラムクロマトグラフィーSephadex LH20ゲルカラムクロマトグラフィーによる精製で約4mgを得た。UV吸収は205,235,260,300nmに極大吸収を示した。放線菌LS9940の生産する活性物質もほぼ同様のカラム操作により約4mgの活性物質を得た。FAB-MSスペクトルから分子量390と推定されるが、LF11039物質とは異なる。放線菌LS8877の生産する活性物質の精製もほぼ同様の過程を経て、最終的に1mgの活性物質を得た。1H-NMRスペクトルでは主成分がC14〜C16の脂肪酸であると推定された。

 第3章では各物質の生物活性について検討した結果を述べている。

 バフィロマイシンA1やコンカナマイシンAなどのV-ATPase阻害剤は細胞内オルガネラの酸性化を阻害することにより蛋白質の分泌を抑制することが知られている。各候補物質が同様の作用を有するかをアクリジンオレンジ染色により調べた。その結果いずれの物質にもオルガネラ酸性化の顕著な阻害活性は認められず、異なる作用を有することが示された。

 次に各物質が神経系の分泌現象に特異的な阻害剤であるかを調べるため、好中球の脱顆粒現象に及ぼす作用を検討した。その結果、LF11039物質、LF10512物質、LS9940物質には脱顆粒に対する強い阻害活性が認められたが、LS8877物質は阻害作用を示さず、神経伝達物質放出に特異的な阻害剤であることが示唆された。

 続いて各物質の神経系の細胞の増殖および形態に及ぼす作用を検討した。細胞毒性をアストログリア由来細胞腫であるC6細胞を用いて調べたところ、その形態および増殖に影響を与えなかった。前述のAcDはC6の増殖を強く抑制することから、各物質はいずれもAcDとは異なる物質であると予想された。またいずれもラット初代培養大脳皮質神経細胞、およびNGF存在下でのPC12細胞の突起伸長を抑制することを認めた。

 以上本論文は神経伝達物質の放出過程を特異的に阻害する物質の探索、精製、構造解析を行い、またその作用についての解析結果を論じたもので、学術上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるのもと認めた。

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