神経系は、ヒトの場合100億個以上の神経細胞とそれをはるかに凌ぐ数のグリア細胞とから構成される極めて複雑なシステムである。その機能は正確なシナプス結合の形成とシナプス間における神経伝達物質を介した情報伝達に依存している。近年、学習・記憶などの脳の有する高次機能にシナプス伝達効率の調節機構が重要な役割を果たしていることが次第に明らかにされつつある。そのシナプス前側の機構として神経伝達物質の放出の制御が細胞レベル、個体レベルでの学習・記憶モデルの成立に関与していることが様々な実験から示唆されている。著者は特異的な阻害剤の探索というアプローチからこの神経伝達物質放出機構の解析に取り組み、本論文にまとめている。論文は序論、第1章、第2章、第3章および総括からなっている。 第1章では神経伝達物質の放出過程に作用する物質の探索系の構築、および探索の結果得られた候補物質の選択について述べている。 PC12細胞はラット副腎髄質褐色細胞腫由来の株細胞であり、刺激に応じて神経伝達物質であるドーパミンやノルエピネフリンなどを分泌する性質を備えている。その細胞膜上には電位依存性Ca2+チャンネルや様々な神経系特異的な分泌関連蛋白質が発現しており、神経伝達物質放出の分子機構の解析に多用されている。著者らはPC12細胞をモデルに用いて、あらかじめ取り込ませた〔3H〕ノルエピネフリン(NE)の脱分極刺激による細胞外への放出を指標にした実験系を構築した。幾つかの薬剤を用いた検討から、NE放出がCa2+の細胞内流入に依存しており、シナプス様小胞からの開口放出によるものであることを確認した。 次に本実験系における各種既知薬剤の作用を調べた。その結果、蛋白質細胞内輸送阻害剤ブレフェルディンA、V-ATPase阻害剤コンカナマイシンAを含めた殆どの薬剤には有意な阻害活性は認められなかった。しかしホルボールエステルは[3H]-NEの放出を若干促進すること、またRNA合成阻害剤アクチノマイシンD(AcD)は阻害作用を有することを認めた。AcDはNK-2受容体のアンタゴニストとしても知られているが、本実験系における作用との関連は不明である。またAcDはそのC6細胞に対する毒性を調べることにより検索系から容易に排除できることから、既知薬剤の中には本実験系に有効な薬剤はないと判断した。 カビ3600株、放線菌2200株の培養抽出液について一次検索を行い、〔3H〕-NE放出を阻害する候補サンプルを選択した。これらの中からCa2+チャンネルをブロックし、Ca2+の細胞内流入を妨げることにより間接的に〔3H〕-NE放出を阻害する物質を排除することを目的に、二次検索系としてCa2+イオノフォアであるイオノマイシン存在下での活性を調べた。その結果18株の候補株がイオノマイシン存在下においても〔3H〕-NE放出を強く抑制することを見出した。またこれらの物質は神経伝達物質の一種であるATPの放出も同様に阻害した。以上の結果から、比較的生産性の良好であったカビ2株、放線菌2株を最終的な候補サンプルとして選択した。 第2章は各活性物質の精製と構造解析に関するものである。 カビLF11039株の生産する活性物質は溶媒抽出、シリカゲルカラムクロマトグラフィーにより約19mgの淡黄色の板状結晶として得られた。機器分析の結果その分子量は約390で、UVにおいて230,252,320,370nmに極大吸収を持ち、また1H-NMRと13C-NMRによる解析からすべての炭素原子がSP2である多環性芳香族物質であることが示された。カビLF10512が産生する活性物質は溶媒抽出、シリカゲルカラムクロマトグラフィーSephadex LH20ゲルカラムクロマトグラフィーによる精製で約4mgを得た。UV吸収は205,235,260,300nmに極大吸収を示した。放線菌LS9940の生産する活性物質もほぼ同様のカラム操作により約4mgの活性物質を得た。FAB-MSスペクトルから分子量390と推定されるが、LF11039物質とは異なる。放線菌LS8877の生産する活性物質の精製もほぼ同様の過程を経て、最終的に1mgの活性物質を得た。1H-NMRスペクトルでは主成分がC14〜C16の脂肪酸であると推定された。 第3章では各物質の生物活性について検討した結果を述べている。 バフィロマイシンA1やコンカナマイシンAなどのV-ATPase阻害剤は細胞内オルガネラの酸性化を阻害することにより蛋白質の分泌を抑制することが知られている。各候補物質が同様の作用を有するかをアクリジンオレンジ染色により調べた。その結果いずれの物質にもオルガネラ酸性化の顕著な阻害活性は認められず、異なる作用を有することが示された。 次に各物質が神経系の分泌現象に特異的な阻害剤であるかを調べるため、好中球の脱顆粒現象に及ぼす作用を検討した。その結果、LF11039物質、LF10512物質、LS9940物質には脱顆粒に対する強い阻害活性が認められたが、LS8877物質は阻害作用を示さず、神経伝達物質放出に特異的な阻害剤であることが示唆された。 続いて各物質の神経系の細胞の増殖および形態に及ぼす作用を検討した。細胞毒性をアストログリア由来細胞腫であるC6細胞を用いて調べたところ、その形態および増殖に影響を与えなかった。前述のAcDはC6の増殖を強く抑制することから、各物質はいずれもAcDとは異なる物質であると予想された。またいずれもラット初代培養大脳皮質神経細胞、およびNGF存在下でのPC12細胞の突起伸長を抑制することを認めた。 以上本論文は神経伝達物質の放出過程を特異的に阻害する物質の探索、精製、構造解析を行い、またその作用についての解析結果を論じたもので、学術上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるのもと認めた。 |