学位論文要旨



No 111527
著者(漢字) 李,準協
著者(英字)
著者(カナ) リ,ジュンヒョブ
標題(和) 質を考慮した医療費上昇率の算定と病院の費用構造から見た病院の行動に関する研究
標題(洋)
報告番号 111527
報告番号 甲11527
学位授与日 1995.09.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第1054号
研究科 医学系研究科
専攻 保健学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 荒記,俊一
 東京大学 教授 開原,成允
 東京大学 教授 大橋,靖雄
 東京大学 助教授 西垣,克
 東京大学 助教授 五十嵐,徹也
内容要旨 1問題提起

 最も理想的な医療とは何か。医療の需要側から見れば、質の良い医療サービスを必要となるときに、適切に受けられる状況であることであろう。一方、供給側から見れば、現行の医業活動に非営利的特性があるとはいえ、需要側が満足する質の良い医療を継続的に提供しうるように、適切な利益が確保されながら、その利益を医療の質の維持・向上に使えるような状況であろう。しかしながら、現実には、資源の制約があり、健康保険制度のもとでは、需要及び供給の両側ともに、モラル・ハザードが起こりやすい。また、需要者と供給者の間には、情報の非対称性が存在し、供給側による誘発需要が生じる可能性が潜在している。さらに、供給側の医業収入のほとんどが健康保険による診療報酬により賄われているが、生産者価格にあたる現行の診療報酬の診療行為別単価、いわば、医療価格は価格規制を受けている。

 上記でも述べたように、健康保険制度における需要側によるモラル・ハザード問題は、本人負担(たとえば、定額負担(deductibles)や定率負担(coinsurance)が代表的なものである)をどのくらいにするかによって、解決することが一般的であった。しかしながら、医療の供給側のモラル・ハザード問題を解決することは、需要側のようにそう簡単ではないことが現状である。上述の現状を踏まえて見ると、医療システムの中で、需要側よりは、供給側の役割はより重要となる。また両側をつなげる価格メカニズム、医療の場合は、診療支払い方式も良い医療システムを作るためには、大変重要な役割を果たす。

 本研究では、一つ、病院の費用構造からみて、病院は、現在どんなインセンティブを持っているのかなど病院の行動に関する研究、二つ、現行の診療報酬の行為別単価の価格規制は医療費抑制策の主たる手段となっており、医療提供側の生産者価格にあたる、価格規制を受けている医療価格(本研究では、診療1回当たりの医療費と1件当たり医療費を医療価格と見なしたが、いずれを医療価格にしても、概念の定義が明確でないことはあるが)の歪みについての研究を行った。現在になっては、ただ医療費が抑制されればいいということだけではなく、有限な資源の効率的な利用とともに、医療の質的向上ということも、政策担当者のみならず、一般の国民にも、その関心度が高まりつつある。また、医療費増加の構造を把握するとき、価格および量的変化だけではなく、質的変化によるものも考慮すべきではないかとの考えから、質の変化をどう評価するかは重要であろう。しかしながら、質ということの概念や測定が難しいことから、質に関する研究が他の分野に比べ、遅れていることは、事実である。そこで、本研究では、質を計量的に測るにあたって、質とは何かを初めとし、その測り方について、理論のみならず、実証分析を行うことにした。

2内容

 まず、第2章の"医療費の実質化"では、医療費の増大とともに、医療費の構造を分析するとき、医療費の総額を価格と量に分けて分析する方法がよく使われてきた。本研究でも総額の医療費を価格と量に分けて、医療価格の規制とともに国民医療費が納められてきた80年代以降の医療費について分析を行った。しかしこれまでの研究のほとんどでは、技術進歩が著しい医療において、質的変化を考慮に入れなかったりすることが多かった。そこで、本研究では、医療費の実質化にあたって.まず、質(品質)は何なのか、経済理論上では、どのように定義できるのか、質的変化を調整できる手法として、ヘドニック接近法(Hedonic approach)という手法があるが、その手法を用いれば、なぜ質が測定できるのか、また質はどのように測定され、価格の変化のうち、質による変化分とそれによらない部分に分解され、質的調整済み価格指数の算定ができるのかなど、理論的な面を踏まえてから、医療への応用を試みた。

 次に、第3章の"病院の費用関数の推定"では、病院の産出が多種類であることに着目し、トランスログ多財生産費用関数(translog multiproduct cost function)を推定し、病院の費用構造から見た病院の行動の特徴を調べるために、投入要素の代替弾力性及び価格弾力性、規模の経済性、範囲の経済性などの検討を行った。

3資料及び方法

 2章の"医療費の実質化"のところでは、データとして、厚生省統計情報部編、「社会医療診療行為別調査報告、1982-1992」を用い、まず、何を医療価格とするかを決める。医療価格としては、1件当たり医療費(診療報酬請求明細書即ち、レセプト1枚)と診療行為1回当たりの医療費を医療価格と見なす。それから価格指数を算定することを初めとし、医療費の実質化を行う。医療費の実質化にあたっては、価格の変化だけではなく、質の変化をも考慮する。ここで、質的調整済み価格指数を求めるために、ヘドニック接近法を応用する。質の変化の推定には半対数回帰(semilog multiple regression)モデルを用い、推定を行った。

 3章の"病院の費用分析"では、データとしては、地方公営企業経営研究会編、「地方公営企業年鑑(病院)、第40集、平成4年度」のデータを用いて、一般病床の占める割合が5割以上の102病院を対象とし、病院の費用関数として、トランスログ多財生産費用関数(translog multiproduct cost function)を特定化し、見かけ上無相関な回帰分析法(Seemingly unrelated regression:SUR法)による推定を行った。

4結果及び考察

 まず、第2章の"医療費の実質化"における結果の概要は次のとおりである。

(1)価格上昇率(医療価格として1件当たり医療費と診療行為1回当たりの医療費を用いた場合)

 政府管掌健康保険において、1982-1992年、入院医療費は 168%、外来医療費は 155%伸び、入院と外来を合わせた総医療費は約 160%の伸びをみせている。同期間中の医療価格の上昇率は、1件当たり医療費と診療行為1回当たりの医療費のいずれを価格にしても入院の価格上昇率が高くなっている。また1件当たりで計算した医療価格の上昇率(133.0%)が診療1回当たりで計算した価格の上昇率(113.5%)より高かった。

 一方、1件当たりの医療費は、いくつかの診療行為の結合からなっており、1件当たりの診療行為回数の年次別変化を入院・外来別にみたところ、特に、外来の1件当たり回数は1982年の24.4回から1991年には29.9回へ増加をみせて、その伸び率が入院の2倍以上となっている。ここで、1件当たり日数の変化による医療価格への影響はないか調べた結果、同期間中、1件当たり日数は、入院・外来ともに若干減少していて、むしろ1件当たり医療費を減少させる方向に作用していた。

(2)各種価格指数による価格上昇率

 ラスパイレス型価格指数、パーシェ型価格指数およびフィッシャー型価格指数のいずれを使って計算しても、80年代の医療価格は約1.3-1.4倍の伸び(年平均増加率では2.5%-3.0%)にとどまっていた。医療価格の伸び率を1970年代と比較してみたところ、1970年代の医療価格の伸びは、3倍前後の大幅な伸び(年平均増加率では、9%強)を示していた。

 80年代において、入院・外来別医療費の増大の寄与度を価格と量に分けて見ると、入院は外来に比べて価格の伸びが、外来は入院に比べて、量的伸び率が高かった。

(3)名目医療費の実質化

 1982年から1992年まで名目医療費は約1.6倍増えたが、名目医療費を価格指数(フィッシャ型の価格指数)でデフレートした実質医療費は1982年の2155億円から1992年には2606億円になって、約1.2倍しか増えていなかった。

 純名目医療費の上昇率(総名目医療費の上昇分から実質医療費の上昇分を引いた医療費)のうち、価格と量による各々の寄与率を調べたところ、医療価格の上昇によるものが 41.6%、残り 58.4%は医療サービス量の増大によるものであった。一方、70年代(1970-1982年)には、85%が医療価格の上昇に起因したもので、量的増加への寄与はわずか15%にすぎなかった。

 このように、70年代には医療費総額の伸びのほどんどが医療価格の上昇によるものであったのに比して、80年代は、わずかながら、量の増加に起因することが多くなっていることがわかった。

(4)質的調整済みの価格指数

 医療において、質を表す指標としては、どんなことあるか、医療サービスの供給過程(process)におけるインプットの変化と供給活動の結果(outcome)であるアウットプットを表す変数以外に、最近では患者側からの評価や病院の機能評価なども行われてはいるが、しかしながら、データとして入手できるものは、インプットの変化を表す変数としては、100床当たり医師・看護婦などの医療従事者数、人口10万対医療従事者数、人口10万対病床数などとアウットプットを表す変数には、日数、1件当たり平均受療日数、患者1人当たり平均在院日数、乳児死亡率、周産期死亡率などが挙げられる。

 しかしながら、平均受療日数や平均在院日数などは定量的データではあるが、その方向性が不透明である。また、医療のアウットプットとして、乳児死亡率、周産期死亡率がよく使われるが、これらの死亡率は医療に関連するアウットプットで、もっぱら医療の進歩のみによるとは限らない。本研究では、上記の変数以外に、100床当たり資本保有額、技術進歩を表す時間変数も用いた。

 ヘドニック接近法による質的調整済み価格指数の算定には、半対数回帰(semilog multiple regression)モデルを用いて、質的変化を推定した後で行った。従属変数である医療価格としては、1件当たり医療費および診療1回当たりの医療費を対数変換をし、推定を行った結果、質的指数(index of quality:IOQ)は1982年を1とした場合、1992年には1.165となって、約10年間で16.5%の質の向上があった。

 ヘドニック接近法による質的調整済み価格指数は、実質価格上昇率を質的指数で割れば計算ができる。質的調整済み医療価格の年平均増加率は1.59%にすぎなかった。また医療価格の上昇率のうち質的向上による上昇分が約52.8%を占め、残りの47.8%が実に、価格上昇によるものであった。

 結局、80年代における、総医療費増加額のうち、価格による上昇は、1/4程度にすぎないことになる。

 つぎに第3章の"病院の費用関数を推定"においての結果をまとめると以下の通りである。

 (1)医業収益比率と、総費用のうち人件費が占める割合との関係では、人件費の割合が高くなるに従って、医業収益比率は低くなっていた。一方、医業収益比率と医薬品及び材料、経費が占める割合との関係では、これらの費用の割合が高くなるにつれて、医業収益比率も高くなる傾向がみられた。

 以上のような医業収益比率と諸費用との関係では病院の規模の差による影響を考慮しなければならないため、病院の規模をコントロールした上で、医業収益比率と諸費用間の関連を調べたところ、病院の規模と医業収益の比率とは若干の正(+)の関連はみられるが、規模の相違が医業収益比率と諸費用間の関係を変化させることはなかった。

 以下の結果は推定されたトランスログ多財生産費用関数(translog multi-product cost function)のパラメーターに基づき、計算されたものである。

 (2)投入要素の偏代替弾力性

 偏代替弾力性が正(+)であれば、要素間の代替関係を表し、負(-)の値をとると、要素間に補完関係があることを示す。看護職と准看護職、准看護と事務及びその他職とに代替の関係が見られた。特に、比較的専門性がおちる准看護職と事務及びその他職の間に代替関係がみられることが特徴である。要素間の補完関係も見られたが、補完関係はおもに医師と他の職種との関係、すなわち、医師と看護職、医師と准看護職に見られた。

 (3)投入要素の価格弾力性

 要素需要の自己価格弾力性はすべて負の値をとっている。各投入要素の価格弾力性を計算したところ、事務及びその他職0.6-0.86、医師0.66-0.92、看護婦0.68-0.98、准看護婦0.68-0.94で、すべての要素が価格非弾力的であることがわかる。各要素の価格の変化による可変費用(総費用のうち、固定費用を差し引いた費用)への影響力にはそんなに大きな差は見られなかった。

 (4)規模の経済(economies of scale:ECA)

 産出を入院と外来の延べ患者数とした場合、ECAの計算値は、推定された費用関数において、iの合計で0.902となる。一般に、ECA>1であれば規模の経済、ECA<1であれば規模の不経済があると解釈されるから、規模の経済が働いていないことになる。しかしこの結果はcase-mixや医療の質を考慮しなかったことで、もし医療の質を考慮すれば、結果が変わる可能性は十分ある。

 (6)限界費用

 入院患者数別及び外来患者数別の限界費用は、ともに逓減しているが、外来患者の限界費用の低減率が入院の方より、大きかった。これは、各病院が外来部門を維持している理由ではないかと思われる。言い換えれば、外来患者の数を伸ばす方が入院患者を伸ばすことより費用の節減につながるからだと解釈できる。

 (7)範囲の経済(economies of scope)

 病院において、入院と外来を一緒に行うことによる費用の節約の程度は別々に生産を行うときと比べ、約25%すくなくなっている。

 病院は多種のサービスを生産しているmultiproduct firm型であるから、病院の規模の拡大は規模の経済よりは範囲の経済により、むしろうまく説明できるかもしれない。

審査要旨

 本研究は医療制度における最も重要であると考えられている質の評価に関するとことと病院の行動パターンに関することをテーマとし、下記の結果を得ている。

 1.政府管掌健康保険の1982年から1992年までのデータを基にし、医療費増加の構造を三つの要因、すなわち実質価格によるもの、質的向上によるもの、量的増大によるものにわけて調べてみたところ、量的増大による医療費の増加分が一番多くて、6割弱を占めていた。次が実質価格によるもので2割強であった。

 2."病院の費用分析"では次のようなことが確認された。

 (a)医業収益比率と総費用のうち人件費が占める割合との関係では、人件費の割合が高くなるにつれて、医業収益比率は低くなる傾向が見られた。一方、医業収益比率と医薬品および材料、経費の占める割合との関係では、医薬品などの費用の割合が高くなるにつれて、医業収益比率は高くなる傾向が見られた。この結果は先行研究の結果と一致することであった。

 (b)各投入要素の自己価格弾力性は全てが1以下を示して、価格非弾力的出会った。これは各要素の価格の変化による可変費用の変化がそれほど大きくないことを示すことになる。

 (c)産出をただ入院および外来の述べ患者数とした場合、規模の経済が働いていなかった。

 (d)入院や外来における各部門ごとの統合や合併による利得があるか否かをしらべるため、各部門ごとの産出の大幅な拡大に伴う限界費用を算定してみた。入院および外来の限界費用はともに逓減していることがわかった。特に外来の逓減率は入院のそれより大きかった。この結果から、小病院を統合し大規模にすることによる費用の節約が達成できる可能性が示唆された。

 (e)入院および外来の診療を一緒に扱うことにより費用の節約、すなわち範囲の経済が働いていることがわかった。病院の場合、範囲の経済性があるということは診療の多角化を通じて、効率性を高めることができることになる。

 以上、本論文は医療費の上昇に医療の質的向上がどのくらい寄与しているか、また医療価格の上昇は医療費の上昇にどのくらい寄与しているかなどに関するいわば医療において質の向上をどう測定するかについての研究および病院の費用分析を通じて病院の行動パターンに関する実証分析を行った。本研究は医療の質および病院の行動に関する研究を経済学的観点から理論のみならず実証分析を行って、医療の経済学的な分析に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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