内容要旨 | | 世界の人口の老齢化、特に先進国の老齢化社会の進行につれて、老人の痴呆症は今日の難病として、多くの科学者の注目を引いている。しかし、痴呆現象がよく調べられているにもかかわらず、その発症のメカニズムが依然として解明されていないので、老人の生活の質的向上のために、これを克服するのは、目前の急務とされている。 老人性痴呆症には血管型と神経型に大別され、各型に更に多くのサッブタイプに分けられる。血管性痴呆症は動脈硬化や微小動脈の血栓の繰り返しによるもので、血管内皮のアミロイド沈着が特徴としている。神経性痴呆症は主にAlzheimer病(AD)である。Alzheimer病は、初老期及び老年期に発生する進行性痴呆症の中、約2/3を占めている。ADの病理学上の特徴はアミロイド斑(老人斑)、神経原線維変化、アミロイド血管変性、神経細胞死、またはクリア細胞の過剰増殖などにある。脳萎縮のため、側脳室の拡大と脳の重量の減少がよく認める。普通、皮質下神経核の萎縮も伴っている。また、Alzheimer病の特徴である神経原線維と老人斑の沈着性変性は皮質下の基底核、視床、視床下部にも確認される。原因不明の大脳皮質の神経細胞の消失、特に大型神経細胞の1/3から半数近くに低下する。脳幹の変化としては、黒質や青斑なども神経原線維変化と神経細胞の消失が起こることは、Alzheimer病の主な病理変化である。その他、血管壁の内外のアミロイド沈着、大脳皮質のneuropilに嗜銀性の細い糸状の構造物の形成であるNeuropil threadが存在することが報告されている。 老年性痴呆症に関する研究は、近年、年間千以上の研究報告が見られ、その知識の蓄積には目覚しいものであるが、発症機序の解明はまたまだのようである。 最近、数多くの科学者に、マウスモデルの開発は至急の命題とされ、いくつかの研究のグループでは、人間のAlzheimer病患者の脳に異常に沈着するアミロイド遺伝子をマウスに組み込み、Alzheimer病のマウスモデルの開発を試みており、また、頸動脈を結札したり、梗塞させたりする実験も報告されたが、いずれにも脳の機能の低下と知能障害が起こるが、人間の痴呆の動物モデルとして痴呆のメガニズムの解明にはまた役に立っていない状態である。本研究は、痴呆症における脳の虚血に着眼し、マウスに脳虚血の状態を人為的に作成し、臨床上の知能の低下とそれに結び付ける病理的な変化を得て、その発生、発展のプロセスを調べ、これによって、痴呆に関するある程度の見地を得ている。 実験は次の仮説に基づいて、展開したのである。それは脊椎動物の脊椎の安定は従来、運動上の便利に必要であるとしか思われていない。しかし、私は、それに加えて、もっと重要な役割があると考えている。即ち、椎骨動脈を保護及び調節する役割である。椎骨動脈は心臓から脳幹への供血経路である。脳幹は呼吸、心拍、体温、血圧、消化、情感などを司るきわめて重要な役割を果たしている。脳幹は副神経を通じて、頸部の筋肉を支配し、その収縮と弛緩によって、頸部の関節を調節する。 更に、この脊椎関節の微小移動によって、椎骨管のサイズを変化させることにより、その中の椎骨動脈の血流を調節するのである。 椎骨動脈調節の神経制御の原理は主に大脳皮質及び視床、視床下部とその周辺の嗅脳辺縁部のコントロールの下でオリーブ核及び迷走神経の調節にあると推察している。オリーブ核から副神経が出て、頸部の筋肉を支配する。オリーブ核のある程度の興奮によって頸部の筋肉の緊張を与え、頸椎の各関節を正しい位置に維持させ、椎骨管及びその中にある椎骨動脈の正常な機能を維持する仕組みになっている。このオリーブ核の興奮性は更に中枢及び周囲の両方からの支配及び刺激によって維持されているのである。中枢及び周囲の両方とも興奮と抑制作用を果たせる。脳幹機能の興奮と抑制は迷走神経などの脳幹神経を通じて、全身の機能を調節する。このように、脳神経-筋肉-頸椎関節-椎骨動脈-脳幹機能-生命活動の調節理論は、本研究の主な理論基礎である。この理論を踏まえて、マウスの前部頸椎の頸靭帯及び筋肉を物理的または化学的な方法で破壊し、脳幹の虚血を人為的に作り、臨床上の痴呆症に類似している症状を得られれば、人間の動物モデルに利用できないかと推測していた。 本研究は300匹6月齢マウスを実験群150匹と、対照群150匹に無作為に群分した。実験群動物の第1と第2頸椎の背側の関節包と筋肉の間に151の30%の乳酸を注入し、その後、動物を生かし、知能テストを行い、1日から100日まで1日置きに、一度実験群と対照群それぞれ3匹、計50回内蔵組織を採取した。組織は動物を全身麻酔の下で、10%のフォルマリンで灌流固定し、後固定8-12時間、パラフィン包埋をして、6mの切片を作成し、組織染色に供する。 マウスの知能テストは最近では環境逃避テストは公認されているより客観的な方法であるとされている。しかし、老齢動物については、体力因素にもかなり関わっているので、環境逃避テストは一度電撃されたところを再びサーチする所要時間を観察の対象としては実験に掛かった時間が長すぎるという欠点もあるので、本研究は逆環境テスト、フロートハーバーテスト及び白紙テストなどの新しいテスト方法を考案した。実験の成績は、環境逃避テスト及び他のテストのいずれも、実験群マウスは対照群と比べて、記憶力は有意に低下した。また、新しいテストの方が、環境逃避テストに比べて、検査結果がほぼ一致しているが、所要時間がおよそ1/20から1/3までしか掛からないことが分かっていた、これは、将来の動物実験にもっと新しい方法を提供する可能性を示している。 なお、臨床症状としては昏迷、無力、衰弱、老化、行動の異常、飲食欲低下が見られる。処理2週間後、動物の外観に大きな変化がみられた。すなわち、背柱の湾曲、被毛の汚濁、脱毛、呼吸困難、体温の変化などである。血液変化では、赤血球と白血球の一時上昇後の低下が認める。初期に尿タンパクが高値(200mg/d1)を示していたが、後期には低値或いは確認られなくなる。この事実は、痴呆症が脳の傷害のみならず、全身の異常を伴うことを示している。 痴呆症の脳にAPPなどの急性タンパク質の異常な発現が最近いくつかの報告に指摘されているが、その原因及び生物学上の意義が全く不明である。実験群マウス脳に急性タンパク質であるアミロイド前駆体タンパク(APP)と熱ショックタンパク(HSP)の発現量を調べるために、RT-PCRを行い、照群マウス脳にある発現量と比べて見た。cDNAを増幅に使用したプライマーは、APPでは、5’-AGAGTTTGTATGCTGCCC-3’と5’-ATGCTCGTTCTCGTCCCC-3’で、HSPでは、5’-CTCACTGGAGTCCTATGCCT-3’と5’-CTGGTGGTGCTTCTTCAGGC-3’でした。電気泳動の結果、APPでは、実験群においでは、脳及び筋肉に394bpのバントが検出された。対照群においては、脳しか検出できなかった。比較した結果、実験群の発現量は対照群の10倍になっている。この現象は、人間痴呆患者での所見と一致している。HSPでは、実験群においでは、脳及び白血球に296bpのバントが検出された。対照群においては、脳しか検出できなかった。比較した結果、実験群脳における発現量は対照群の10倍になっている。これについては、人間での報告がないため、今後、人間の臨床にも参考として、追試の余地を与えている。本実験は脳における急性タンパク質の異常な発現の原因は、椎骨動脈の虚血にあることを示唆していると思う。その生物学上の意義は、多分、神経細胞を供血から一時保護するのではないかと判断している。 更にその病理組織学検査によって、心臓、肝臓、腎臓などの重要な臓器が頸部の刺激の程度の従って、急慢性炎症をに伴い、多彩な変化を示した。強く刺激すれば、心臓、肝臓、腎臓の出血性炎症に伴い、急死に至るが、ある程度弱くて、長く刺激すれば、上述の臓器の慢性萎縮性炎症が目立っている。100日以上生存できたもの殆どは心壁の緋薄化と肝臓及び腎臓の重量の減少が認められている。その減少のスピードは脳の重量減少とほぼ一致している。内臓器官の病変の原因は神経と内分泌の両方に関わっていると考えられているが、神経因素、特に椎骨動脈虚血によって起こった迷走神経の機能低下と交感神経の機能亢進によると推察していった。まだ、この現象はもう一度、痴呆症の発生の原因が椎骨動脈や頸動脈系の虚血によって、起こった脳と全身機能障害と示している。 以上の推測をある程度裏つけるために、本実験は頸部脊椎の機能異常による生命現象に対する影響を調べるために、コンピュータに装備したテルカッフ方法で、ラットの血圧、心拍、呼吸、体温を測った。軽、中度の刺激の下では、実験群ラットの血圧、心拍、呼吸、体温のいずれも対照群と比べて、有意な向上を認め、重度な刺激或いは全身麻酔及び迷走神経切断の場合、この現象が認められないので、血圧、心拍、呼吸、体温などの生命現象は椎骨動脈の調節を受けていることを提示している。このことから、痴呆症の誘発原因は椎骨動脈調節の異常による脳血管虚血とそれによって起こした全身の代謝の紊乱の両方にあると推定している。 本研究は新しい発想で痴呆症のモデルの開発に成功した上、人間の痴呆症の原因をある程度提示している。しかし、時間と経験の制限でアルツハイマ型痴呆症のモデルに成功されていないため、今後の改善を期待している。なお、この方法は人間痴呆症以外の難病の動物モデルの開発にも適用すると考えている。 |
審査要旨 | | 脊椎動物の脊椎は,脊髄の保護とともに椎骨動脈を保護調節する。椎骨動脈は心臓から脳幹への供血経路である。脳幹は呼吸,心拍,体温,血圧,消化,情感などを司るとともに,副神経を通じて,頸部の筋肉を収縮あるいは弛緩させ,関節に微小な移動を与えることによって,椎骨管のサイズを変化させ,椎骨動脈の血流を調節する。脳幹機能の興奮と抑制は迷走神経などの脳幹神経を通じて,全身の機能を調節する。このように,脳神経-筋肉-頸椎関節-椎骨動脈-脳幹の系統は生命活動を調節している。 本研究は,この生命活動を人為的に調節するために,マウスの頸椎の靭帯を物理的あるいは化学的に破壊し,脳幹を虚血に至らしめることによって,痴呆症の症状を人為的に誘起し,著しい記憶障害と全身症状を観察し,痴呆のモデルを構築することができると考えられる。 第1章においては,300匹のマウスを実験群と対照群に分け,実験群の動物には第1・第2頸椎の背側の関節包と筋肉の間に乳酸溶液を注入し,2日後より,知能・記憶試験と血液および尿の検査を行った。環境逃避試験,逆環境逃避試験,浮島試験と白紙試験などの知能・記憶試験では,処理後経時的に動物の特殊知能と記憶に障害が現れ,反射完成の時間が処理後の経過日数とともに長くなった。記憶障害とともに動物の健康も低下した。処理2週間後,動物の外観に大きな変化がみられた。すなわち,背柱の湾曲,被毛の汚濁,脱毛,呼吸困難,体温の変化などである。血液や尿については,白血球数の増加,尿蛋白質量の上昇などがみられた。この事実は,痴呆症が脳の傷害のみならず,全身の異常を伴うことを示している。 第2章では,1日から300日まで経時的に,実験群と対照群それぞれ3匹から採取した脳の組織を調べた。神経細胞には,まず細胞死と変性が起こり,嗜銀性が増え,次いで段々嗜銀性が降下した。大脳皮質の神経細胞が萎縮し,突起が消失した。 実験群マウスの脳における急性蛋白質であるアミロイド前駆蛋白質(APP)と熱ショック蛋白質(HSP)の発現量を調べるために,逆転写ポリメラーゼ連鎖反応(PT-PCR)を行い,対照群マウス脳における発現量と比較したところ,脳および筋肉にAPPのバントが検出された。対照群においては,脳以外の組織には検出できなかった。実験群におけるAPPの発現量は対照群の約10倍であった。また,実験群マウスの脳および白血球にHSPのバントを検出した。対照群では,脳にのみ検出された。実験群マウスの脳における発現量は対照群の約10倍であった。APPの発現は,同様の現象が人の痴呆症でも観察されているが,HSPについては報告がない。本実験は脳における急性蛋白質の異常な発現が,椎骨動脈の虚血にあることを示唆しており,またその発現により神経細胞を虚血から保護すると考えられる。 第3章では,病理組織学的検査により,心臓,肝臓,腎臓などの器官が頸部の刺激の程度に従って,急性および慢性の炎症を伴う変化を示した。強い刺激を与えると,心臓,肝臓,腎臓の出血性炎症に伴う急死に至るが,弱く長い刺激では,慢性萎縮性炎症が顕著であった。 第4章では,頸部脊椎の機能異常による生命現象に対する影響を調べた。テールカッフ法で,ラットの血圧,心拍,呼吸,体温を測った。軽,中度の刺激では,実験群ラットの血圧,心拍,呼吸,体温のいずれも対照群と比べて,有意な上昇を認め,重度な刺激あるいは全身麻酔および迷走神経切断の場合,この現象が認められないので,血圧,心拍,呼吸,体温などの生命現象は椎骨動脈の調節を受けていることを示している。このことから,痴呆症の誘発原因は椎骨動脈の調節の異常による脳血管虚血とそれによる全身の代謝の障害にあると推測される。 本研究は,マウスが頸部脊椎の異常によって誘起された椎骨動脈の虚血により,著しい記憶障害を発症し,その原因は脳の損傷と考えられるが,同時に全身症状を伴うので,痴呆症は単なる脳の異常にとどまらず,全身の病気と考えられ,今後の痴呆の研究にも意義ある示唆を与えるものと思われる。 以上のように,本研究は,その独自の理論に基づき,マウスが人間の痴呆症モデルとして利用できることな示しただけでなく,痴呆症の発症のメカニズムの解明に対して重要な示唆を与えた点で学術上貢献するところが大きい。よって,審査員一同は,本研究が博士(獣医学)の学位に値するものと判定した。 |