学位論文要旨



No 111535
著者(漢字) 孫,一善
著者(英字)
著者(カナ) ソン,イルソン
標題(和) 高度成長期における流通システムの変化
標題(洋)
報告番号 111535
報告番号 甲11535
学位授与日 1995.10.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第93号
研究科 経済学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大東,英祐
 東京大学 教授 橋本,壽朗
 東京大学 教授 片平,秀貴
 東京大学 教授 武田,晴人
 東京大学 教授 和田,一夫
内容要旨

 高度成長期の各製造業者は、見込み生産による大量生産体制を指向し、量産による規模の経済効果を通じてコストの節減を追求した。さらには、大量生産体制の安定的な維持のために、流通経路の整備が進められ、既存の伝統的な流通組織を再編しつつ、安定的な取引関係の維持を意図した販売経路が築き上げられた。こうして、メーカー間の競争の激化、スーパーや量販店の登場による価格破壊問題、新製品や製品多様化、全国市場形成といった大衆消費社会が到来するわけであるが、その際に企業はどのように大量生産体制にふさわしい大量販売体制を形成したのかを明らかにすることが本稿の目的である。

 本稿では、企業の系列化政策と大型小売店の登場という2つの柱をもって高度成長期の流通システムの変化を検討する。

 これまで、この高度成長期の2大特徴である流通系列化と大型小売店の登場が、企業行動と既存の流通構造との相互関連に着目して研究されてこなかったのは資料の制約があったからであろう。本稿では、企業側の一次資料を利用して、より具体的にこの問題に取り組んでいく。そのために、非耐久材消費財産業である石鹸洗剤業界の代表的なメーカーである花王と、耐久消費財産業である家電業界の代表的なメーカーである松下のケース・スタディを通じて、歴史的に検討していく。高度成長期の流通システムの変化を考察するのに、このような消費財産業の企業がもつ意味は大きい。

 本稿での具体的な調査内容とその研究方法は、つぎのようである。

 卸店の系列化で生じた販社は、既存の卸店とメーカーの共同出資により設立されたが、この販社を中心とした企業間関係については、経営者やメーカーからの役員派遣といった人的次元、販社との取引関係といった物的次元、資本参加関係の資金的次元の三つの視点から検討する。小売店管理政策では、既存の流通構造のなかでの系列店選抜、その系列店を育成する仕組み、メーカーとの契約関係、系列店の機能などについて調べる。量販店に対しては、主に東京と大阪の地域を念頭におきながら、メーカーのチャネンル政策と量販店との相関関係、量販店の形成プロセス、メーカーの量販店対策などについて調べる。このようにメーカー側のチャネル政策と流通構造の関係で高度成長期のダイナミックなシステムの変化を推察してみる。取引条件については、流通段階別の取引条件と企業の戦略による価格体系やリベートを中心に検討する。

 以下、この分析結果を、各章別に要約しておく。

 第2章では、昭和30年代の松下の販社制度の形成過程について検討した。プランド間競争やブランド内競争を防ぐことを目的とした販社制度は、昭和25年から32年までの初期販社段階を経て、昭和32年以降、全国で地域別に実施された。松下の販社は、複数の優良卸店と松下の共同出資によるものであったが、初期段階から大阪や東京などの大都市では企画通りの販社形成はできなかった。

 販社と松下の取引関係(物的次元)をみると、販社の一定の利潤確保と販売促進策としての価格体系の活用がうかがえる。仕切価格は、松下の正常な利潤確保という方針によりかなり高く設定されていたため、40年の不況期や46年の消費者の2重価格の問題が起きたとき値下げをすることになった。販売報奨金などは販売額による報奨金と地域による(人口別)達成率などにより決められた。

 販社と松下の関係を資本出資と役員派遣の観点からみると、当初松下が意図していたのとは異なり、49年度の高度成長期が終わった時点でも50%以上の出資及び半数程度の役員派遣という基準とは異なった結果となった。これは、共同出資による経営は、利害が対立するためその管理が非常にむずかしいことを意味している。昭和36年以降、松下は販社に対する資本出資を強化したため、90%以上の高出資率販社が増えたとはいえ、販社の分社化や既存卸店経営者の反対などで出資比率が伸び悩むというところも多かった。しかし、地元の有力代理店の経営者を販社に活用することができ、オーナー経営者による好業績の販社も少なくなかったことは評価できよう。

 第3章は、小売段階における系列店の形成過程を検討したが、そこでの松下の戦略は2つにまとめられる。その一つは高額商品の登場による高集中度販路政策として、既存の流通業者から優良な業者(松下に協力的で優秀な店になる可能性がある小売店)を選ぶことであり、もう一つは系列小売店を格付けし、細かいところまでインセンティブを与え、漸進的に系列店を育成(規模・専売度)することであった。専売店政策を強調しはじめたのはテレビ、冷蔵庫、洗濯機などの高額商品が登場した後の昭和32年のショップ店制度の実施からである。従来の系列店との取引関係を表す共栄券の分析により、松下は少数精鋭主義に基づく優良業者中心のショップ店制度を企画したのである。しかし、ショップ店制度を実施してから4年後の昭和36年には、優良店の非系列店や全体のカバー率に問題が生じたため、松下はつぎの改善策として系列店の絶対数の拡大を求めるように政策を修正せざるをえなくなった。

 松下は系列店に対して、一定の専売度(品揃えも含む)・正価販売・需要開発、計数管理、アフターサービス機能などを要求した。

 第4章では家電産業における量販店の形成・展開プロセスと松下の量販店対策を中心に検討した。家電大手メーカーの強力な系列化政策にもかかわらず、量販店が急成長したのは、量販店は、戦後初期に卸店と小売店を兼業したため初期利潤を獲得することができ、30年代に入ってから各社の系列化が進められるなかで、優良業者として複数のメーカーから販社化をさそわれた。したがって、複数メーカーの販社を兼業することにより最新経営技法を習得しメーカー間の卸店獲得競争により高いリベートを得て、規模の経済や範囲の経済の優位性を享有した。しかし、昭和40年不況以降の販社制度の再編成により、販社の社長には旧独立卸店の経営者に代わってメーカーの役員が就任するようになったため、旧独立卸店の経営者は販社の役員から自己所有の店に戻り、総合卸店を廃止し、小売店経営に従事することになった。

 続く第5章では、花王の販社政策を検討した。花王の販社制度という形の垂直統合は、既存卸店による分家販社であり、合成洗剤という新製品開発によるメーカー間の競争の激化、スーパーの成長による再販制度の実施などのマーケティング戦略の延長線の上で実施された。再販制度の実施により大幅な値崩れがなくなり、市場が安定したため、有利な現金割引を利用すれば、花王製品の収益性は、向上することになる。しかし、花王の製品を扱う卸店は、多様な企業の多様な製品を扱う総合問屋であるため、花王製品から獲得した利益が他社製品の安売りや、それに伴う赤字をうめるために使われる恐れがあったため、花王部分だけを分離させたのが販社である。販社の展開過程は、初期販社、全国販社、広域販社の3段階をたどった。花王は卸段階が販社制度のより掌握されるようになったため、つぎの小売店段階で強力的な販売活動ができるようになった。

 第6章では再販制度の実施時期の前後を中心とし、花王の小売店管理政策を検討してみた。花王は39年から小売店まで全国的に徹底的に再販制度を実施した。それとともに1店1帳合制度と統一伝票制度、現金割引や数量割引などの割引制度により小売店の販売意欲を向上させようとした。全国30万軒に及ぶ小売店の指導にあたては、卸段階が販社に変わり花王の販売促進だけのため活動する専売店になったため、他社より強い販売推進力をもつようになった。

 第7章では花王と流通業者間の取引条件について検討した(主に数量割引、現金割引、機能割引などの割引制度を中心に)。取引制度は商品別取引から総合取引へとかわり、昭和43年の販社制度の実施以降、販社を中心とする取引制度へと変化する。

 高度成長期の花王の取引制度は大量仕入し、現金で支払う経営方針の流通業者を積極的に支援する政策であった。取引の基準はメーカーによる一方的な条件になったいたが、例外的にバーゲニングパワーをもっているスーパー(量販店)との取引では双方交渉で取引が決められた。

審査要旨 1.本論文の構成と内容

 本論文は、高度成長期の量生産体制の進展に対応し、既存の伝統的な流通組織を再編成することによって構築された新しい流通チャンネルの形成過程について、具体的な事実を確認し、その意味を考察することを目指した論文である。著者によれば、この問題に関連した既存の研究の多くは、有力メーカーによる系列化政策の概要を把握するに止まっており、系列化政策がさしたる抵抗もなく定着していったかのような説明が与えられている場合が少なくない。しかし、現実には、大製造業企業による系列化政策の推進の過程は、多くの混乱と葛藤を伴う、企業間関係の長期的・動態的な過程であったと見るべきものである。この論文では、そうした観点から、松下電器と花王という二つの有力企業の場合について、卸売段階における販社の形成過程と小売段階における系列店や量販店などとの間の利害調整の過程が、人的次元=経営者や役員の派遣問題、物的次元=商品の取引条件、資金的次元=資本参加問題という三つの局面を中心に分析されている。

 論文は三章構成となっており、第1章は問題の設定と分析の視点の説明に当てられている。第2章〜第4章の三つの章及び第5章〜7章の三つの章では、それぞれ松下電器と花王の事例研究が試みられている。いずれの事例についても、まずチャンネル政策の基本的な動向を説明し、次いで卸売段階と小売段階に関する分析が行われている。第8章ではいくつかの結論的な命題が提示されている。このように、この論文は比較的整った章別構成を持っているが、約250枚に及ぶ長大な紙幅の大半は、二つの企業のチャンネル政策の歴史的な変遷のトレースの作業とその分析に当てられており、実質的には二つのケース・スタディーという性格の強い論文である。その考察の範囲は、流通チャンネルの問題に限定されてはいるが、1950年代の後半から1970年代初頭までの長い期間が扱われており、具体的な論点は多岐にわたる。しかし、その中で最も重要な論点は、卸売段階における販社網の形成と小売段階における量販店の成長の二点であることについては、衆目の一致するところであろう。それ故、以下では、この二点に関する論旨を要約することとする。

 著者の販社分析は、「販社とは、一定地域の中で、特定メーカーの製品のみを販売する排他的専売卸店をいう」という、ごく一般的な定義づけから出発している。その形成過程を資料に基づいて段階区分すると、第一段階として、松下電器の場合の京都や高知、花王の場合の東京、神戸、福岡のようにある地域の末端価格の混乱とか特定の卸売業者の経営破綻などの個別の事情から販社が設立された段階があり、第二段階にはメーカーが意識的に全国的な販社網の構築を推進した段階があり、第三段階として多くの販社を整理統合して広域的な営業規模を持った大規模販社へと再編成する段階があったことが確認できるという。このような販社の形成過程は、ひと先ずは、「排他的専売店」という先の販社の定義付けにも含意されているように、ブランド間競争政策やブランド内競争の回避という観点から説明することができる。しかし、より重要なのは、有力な卸売業者を選別・育成してチャンネルを整理することによって、「卸売店との取引コストの分だけ次の段階である小売店への強力な販売管理政策を可能にした」という事実であろう。さらに、松下電器の場合は共益券制度を用い、花王の場合は統一伝票という手段で、末端の市場情報や流通企業の経営実態を把握し、重層的で複雑な流通業界の中から、有望な企業を選択し育成するという政策が推進された。こうした情報機能が専属的な流通経路の重要な機能として位置づけられていたことを重視すべきであるという結論が導かれている。

 しかし、販社網の歴史的な形成過程を理解するには、販社が既存の卸売店の出資によって設立されたものであったという事実に注目すべきである。松下電器や花王が専売化を求めた有力な卸売業者の中には、それまでは複数の有力メーカーと取引関係を持ち、卸売業務だけでなく小売業をも兼営する独立性の強い企業も少なくなかった。このような企業の場合、有力メーカーの専売化の要求に対して、自己の営業の一部を分離して単独でそのメーカーの販社を設立したり、他の卸売業者と井同出資の販社に参加するという道を選択したものが多かった。このような販社の場合には、当然ながら経営者達の経営努力の大半は販社ではなく自己の手中に家業として残された事業の方に向けられたり、共同経営者間の利害調整が極めて困難であったり、しばしば規模が過小で容易に利益があがらないといった事態が生じた。1960年代前半の松下電器の営業活動の停滞や、1970年前後の花王の重質洗剤のマーケット・シェアーの低下は、販社経営の様々な問題点が、企業間競争の激化や景気の停滞などの客観的な経済環境の悪化を契機として顕在化したものと見ることができる。

 このような事態に対処すべく実施されたのが、先の第三段階への移行のための諸施策であった。松下電器と花王では、取り扱う商品の性格が異なるので、再編成への具体的なアプローチにはかなりの差異があるが、両社ともに販社を整理統合して、その経営について役員派遣、取引条件の改善、出資比率の拡大など人、物、金の各面から強力なテコ入れ行った。

 松下電器の場合には、1965年以降一連の新政策が強力に推進された。以降、家電業界における同社のシェアーは増加傾向をたどったのは、同社が卸売段階をほぼ完全に掌中に収めることに成功したことによると見て大過ないであろう。しかし、その過程で有力な流通業者は、卸売の事業を松下電器に譲り渡すと同時に、家電量販店としての成長を目指したものが少なくない。彼らは強力な小売の系列店網を持たない下位の家電メーカーにとっては有力な販売ルートとなり、下位の家電メーカーの脱落を防いでメーカー間の競争を活性化させた。東京の秋葉原や大阪の日本橋の電気街に集まっている量販店や積極的なチェーン展開によって急成長を遂げた家電量販店の経営者の多くは、このような有力メーカーの流通政策との対抗関係の中で新たな企業者的な機会を掴んだ人々であった。1950年代の半ばから、原則として松下製品のみを扱う専売小売店網を全国規模で展開してきた松下電器にとっても、これらの家電量販店は、やがて有力な競争相手として侮れない地位を獲得するのである。

 花王のチャンネル政策と量販店の登場との間にも密接な関連が存在する。花王の販社制度は、ナショナル・ブランド品を目玉商品に使う一部のスーパーなどのディスカウンター対策として、1964年から実施された再販制の延長線上で展開されたものであったからである。花王の再販制度は大規模で徹底したものであった。厳格な一店一帳合制に支えられて、花王製品に関する限りは値崩れ現象は解消した。さらに、花王では流通企業の経営の合理化努力を刺激する目的で、1961年から現金割引と数量割引の制度を全面的に導入したから、花王製品を扱う流通企業の利益はそれだけ改善されたはずであった。しかし、総合卸売店という経営形態のもとでは、その利益は他社製品の取り扱いから生ずる損失の補填のために費やされてしまうことが懸念された。花王が自社製品のみを扱う販社の設立に踏み切った直接的な動機は、そうした事態を回避することにあった。このようにして設立された花王の販社も既存の卸売業者の単独ないし共同出資によって設立されたものであり、従ってその経営には松下の場合と同様な問題が潜在していた。すでに述べたように、販社販社政策の推進過程で、花王のマーケット・シェアーが低下したのは、明らかに代行店と称される二次卸売店の経営者の意欲の低下により、花王製品が小売店の店頭にゆき亘りにくくなったためであった。

 重質洗剤のように、最寄品的な性格の強い製品が多い花王にとっては、それは極めて重大な事態であった。それ故、花王でも1970年前後から強力な販社の再編・強化政策が実施されている。この広域販社化の過程の特徴は、取引条件の改善などと並行して、多数の新製品の上市と大規模な物流・情報システムの構築が進められたことである。重質洗剤に代表される花王製品の場合には、物流と取引コストの負担はきわめて大きい。従って、それらのコスト負担の削減に成功した花王の販社のネットワークは、以降、同社の有力は競争力の源泉となっている。小売店の店頭管理政策のような新しい流通政策の展開が可能となったかのも、広域販社体制の確立による。

 この広域販社体制の確立過程では、量販店に対して機能割引の性格を持った割引制度が設けられた。従来の花王の流通政策のなかでは、大規模小売店も特別な地位を与えられてはこなかった。割引制度は現金割引と数量割引が中心で、機能割引は殆ど使われてこなかった。これに対して量販店を対象とする機能割引制度の導入は、花王が大規模で多様な機能を備えた流通業者の存在をようやく認知し、流通機構の変動に適応する措置をとったことを意味している。

2.本論文のメリットと問題点

 本論文の最大のメリットは、これまで殆どの研究者が接近できなかった営業関係の内部資料の分析を基礎として、両社の流通チャンネル政策の推移をきわめて丹念に辿っていることである。雑然と積み重ねられた状態で保管されているにすぎない企業の内部資料の活用にはしばしば、途方もないエネルギーが必要である。大量の未整理の資料の山の中から、自分の設定した問題関心から判断して、多少とも意味のあると思われる資料を探し出して事実を確認するという作業を飽きることなく積み重ねることが、先ず必要となる。経営史の研究者として自立する過程では、このようなおよそ効率的とはいえない作業を、一度は経験しそれに多少とも熟練することが必要である。本論文を一読すると、著者が本論文の執筆を通じて、一次資料の渉猟や整理について最小限度の経験を積み、ある程度のノー・ハウを身につけたことは確かに確認できる。この論文が二つのケース・スタディーとして高く評価できるものを持っているという点については、審査委員会の全員の判断が一致した。

 しかし、本論文はその構成や論理的な展開の面では、かなりの問題を残していることもまた明らかであるといわねばならない。もちろん、流通構造の変化をとらえるために、著者なりの分析や論理的な整理は試みられている。前項でも述べたとおり、著者は両社の流通系列が既存の流通業者の再編成によって形成されたものであることを重視し、両者の関係の推移を、人(役員派遣)、物(取引条件)及び金(出資)の三つの観点から整理を行っている。そして、資料の得られた範囲内のことは、比較的正確に記述し、著者なりの分析も試みられている。しかし、良い資料が手に入らなかった部分になると、分析不足が目立つ。資料不足を補うために工夫も足りないため、分析が精粗まちまちで、しばしば一貫性に欠けている。このような問題は、資料的な制約だけに帰すことはできない。

 著者の分析の中で、最も成功しているのは松下電器の販社網の形成過程に関する人の面からの立論である。家電量販店については、松下電器の政策展開との関連で、独立の企業家であることを望む流通企業の経営者の選択について、興味深い一連の事実を掘り起こし、それらの間の因果関係を明らかにすることを通じて家電量販店の形成過程の説明に成功している。松下電器の流通チャンネル政策については、相当量の先行研究があり、家電量販店の成長の重要性については種々の指摘がなされてはきたが、この論文は実証面では従来の水準を超えている。花王については、松下電器の場合に比べると、既存の研究蓄積が薄いので、再販制度の実施から販社の設立に至る経過を明らかにした事実確認の作業にも一定の評価を与えることができよう。しかし、花王の販社についても、それが既存の卸売業者の営業の一部を分離して設立されたものである以上、松下の場合と同様な問題を内包していた。従って、一貫した問題意識を持って資料をもう少し丹念に探せば、興味深い事実がまだまだ発掘できたのではないかと思われる。

 取引条件に関しても、ファクト・ファインディングとその時代区分に基づいた整理の努力は多とするとしても、分析的な側面の弱さが目立つ。松下電器の場合には、これまで厚いベールに包まれてきたリベート制度についていくつかの重要な事実が確認されているし、花王については、現金割引や数量割引を中心に、詳細な制度の変遷が明らかにしている。これらの成果には、それなりの評価を与えることだできる。しかし、著者の分析は、リベートや割引制度のような短期の取引条件の運用の問題にしか及んでいないため、より基本的な問題、すなわち、特定の企業と排他的で継続的な取引関係に入りそこに止まるという意思決定を左右するであろう他の重要な諸要因への目配りが足りない。例えば、松下電器の家電各部門の新製品の開発・供給能力の成長過程やそれに伴う流通業者の松下電器に対する認識や評価の変化を確認するというような作業が、両者間の排他的な取引関係の成立とその継続を説明するには必要であろう。

 もちろん、松下電器の場合については、冷蔵庫、テレビ、洗濯機のような高額商品の販売ルートとしての「ショップ店制度」の創設や花王の場合については販社のみを通じて販売される「シリーズ商品」というカテゴリーの設置の意味などについては、それぞれ的確な指摘がなされている。しかし、こうした指摘はいわば単発に終わっている。全体としては、著者は流通チャンネルの問題を、取引条件・支払条件の調整を通じて維持される自己完結的なシステムであるかの如く記述するに止まる傾向が強い。その結果、この二つの企業がどうして力量のある流通業者を自己の販社や系列店として組織し得たのかという、より根本的な問題について、充分に説得的な解釈が与えられているとは言いがたい。

 販社への出資については、松下電器と花王が正反対の方針をとった。松下電器は最初から可能な限り過半の株式を保有を通じた系列企業の支配権の獲得を目指したのに対して、花王は原則として出資はしないという方針をとった。従って、この点は、両社の比較分析にとってはきわめて興味深い切り口になる可能性がある。しかし、残念ながら、この論文の弱点の一つは、二つの企業の事例研究の並列という色彩が強く、二つの事例の比較して何事かを明らかにするという観点からの分析が弱いことにある。二つのケースの選択にあたっては、一方がいわゆるショッピング・グッズに属する耐久消費財中心のケースで、他方がコンヴィニエンス・グッズ的な日用品主体のケースというような比較の視点を含めた選択がなされたことは想像に難くないところである。しかし、具体的な分析の中では、そうした視点は十分には生かされていない。

 資金援助には、出資以外にも様々な方法がある。伝統的な家族企業の色彩の強い中小規模の流通業界の企業への出資には、独特の複雑な問題が伴うことについて、著者の認識は不十分であるといわねばならない。出資の問題に関する著者の分析が、松下電器の方針が流通業者の抵抗にあって容易に実現しなかったという事実確認や出資比率の増加をもって松下電器の意図が実現したと見るような単純な評価にとどまっており、花王についてはこの点の分析が極めて乏しいのが惜しまれるところである。

 この論文には、このように相当重大ないくつかの欠点が認められる。そうした問題を生んでいる理由の一つは、既存の研究成果が充分には生かされていないためである。巻末に掲げられた参考文献からは、著者が広範囲な文献を読み、資料を集めたことがうかがわれる。それに多大の時間とエネルギーが投入されたことには疑いがない。しかし、それらの既存の研究成果が消化吸収されて、この論文の作成過程に有効に活用されているかというと、そうは言い難い。松下電器の流通系列については、相当量の先行研究がある。それらを読めば、これまで研究者達が最も苦しんだのは、取引条件の調整、特にリベート制度の運用の実態が外部からはうかがい知れないことであったことが判る。本論文では、1965年前後の取引条件の改善によって、流通業者の営業活動が一段と活発化したたことが、以降の松下電器のマーケット・シェアーの拡大につながったことが指摘され、その一環としてリベート制度についても若干の説明が施されてはいる。しかし、その説明は簡略に過ぎ、そこから松下電器のリベート制度の全貌とその役割を把握することは容易ではない。

3.総合判定

 本論文は、一方で未整埋の企業の内部資料の読解と整理に基づいたファクト・ファインディングという点では高く評価すべきものを持っているが、他方でその理論構成については多くの問題点を残している。このようなメリットとデメリットの比較考量し、最終的な判断を下すには、著者自身がどの程度まで、そうした問題点を自覚しているのか、またそうした問題点を克服するために今後にどのような研究計画を持っているかを確認することが必要である。そこで、面接試験では、前項で触れた一連の問題点に関する質問を通じて、著者の自己認識の確認に努めた。それに対する著者の応答は、大略以下の通りであった。

 この問題に着手したそのそもの動機は、日韓の流通構造の比較研究を進めるためであった。そして、両国の現状の差異を単に確認するのではなく、そうした違いが生じてくる過程を解明したいと考えたので、高度成長期を選んで、既存の研究のサーベイから研究を開始した。先行研究は、伝統的な流通業者が新しい状況に対応できなかったので、有力メーカー主導で流通機構の再編成が進められ、その結果として販社や系列販売店網が構築されたとされている。このような理解は間違いではないが、販社や系列販売店が既存の流通業者を再編成することによって組織されたものであるという事実が軽視されている。その形成過程を検討するには、有力メーカーの側の政策展開だけではなく、それに対する流通業者の側の対応を検討し、両者の間の利害の対立や協調関係の動向をきちんと把握することが必要であるとの判断から、先ず、家電量販店に関する資料の収集を開始した。それらの資料からは、メーカーの販社政策との対抗関係を通じて、多くの家電量販店が既存の有力な家電関係の流通業者の中から成長してきたものであることが判明したので、自分の問題設定に一定の自信を持つことができた。その後、花王と松下電器の内部資料を閲覧する機会に恵まれたので、一層ファクト・ファインディングに傾斜することとなった。

 メーカーと流通業者との企業間関係を検討するに際しては、経営者(人)、資本(金)、取引条件(物)の三つの視点を設定して、その変化をたどることとした。販社経営の大きな問題点の一つは、メーカーの立場から見ると、販社の経営者の経営姿勢がしばしば消極的であることであった。これは既存の流通業者の共同出資による特定企業製品の専売卸売店たる販社の基本的な性格にかかわる問題点である。こうした問題は、資金=出資の問題とも直結している。しかし、この点は従来の研究では、さほど重視されてこなかったが、経営史的な観点からは重要な論点であると思う。

 リベートのような取引条件の細部については、資料的に正確な事実確認ができなかった部分がある。しかし、取引条件はメーカーが、流通業者を誘導し組織する際の最も基本的な手段であったことは確かである。日本の流通機構はおびただしい数の中小ないし零細企業から構成されているといわれるが、実際にはかなり規模の企業から零細企業に至る重層構造をなしており、メーカーはその中から力のある企業や将来性のある企業を選択し、育成して自己の流通チャンネルを構築してきたのである。

 取引条件は景気の動向など応じて変化するが、一般に大都市とそれ以外の地域では別の取引条件が設定される。市場に地域的な特徴があることは当然のことではあるから、地域別に取引条件が設定されるのも当然のことではある。しかし、量販店の成長などの新現象は、大都市から始まっているので、東京や大阪を中心とする大都市の大規模店に対する取引条件については、特に丹念に検討したつもりである。

 最後に、専属的な流通チャンネルの形成過程を検討してみると、それが市場情報や流通組織の経営実態を把握するための情報収集の経路として重要な機能を果たしていたことが確認できる。例えば、松下電器の場合には、共益券というある種のリベート制度と結合した形で集められていた末端の市場情報が、販社制度の確立と共に販社の出荷実績の分析によって置き換えられている。より一般的に言えば、販社制度が確立したことによって、メーカーは末端の小売市場に対して従来より体系的なアプローチができるようになったといえるように思われる。

 この論文が、事実の確認についても理論構成の面でも、多くの問題点を残していることは認めざるを得ないが、これから第一に補強しなければならないと考えているのは、流通業者の動向に関する分析である。メーカーと流通業者の間の企業間関係の変動を通じて流通構造の変化を分析するというのが自分の基本的な発想であるが、資料的な制約もあって、流通企業の側の分析が不十分であるからである。

 企業間関係の分析が、リベートや各種の割引制度などの短期的な取引条件の分析に偏っているという指摘については、確かにその傾向は否めない。しかし、これについても、例えば流通業者がメーカーの販社政策を受容した理由について検討を深めていけば、かなり程度は捕えると思う。

 次に、現状では二つの事例が並列されており、相互の比較を通じた分析は殆どなされていないことも事実である。これは一つには、二つの事例の分析が、直ちに比較可能な形でなされていないためである。両者の比較分析には、そうした不均衡に是正が前提となる。

 最後に、松下電器と花王の事例は、それぞれの産業分野の最有力企業であり、当該産業分野の平均的な事例と言うより、むしろ例外的な事例というべきものである。しかし、これらの企業の政策は、競争企業のそれに大きな影響を及ぼしていることは確かであり、例えば東芝やライオンなどの場合について検討した上で、この二つのケースの位置づけについて考えることとしたい。

 既に述べたように、この論文は第一次資料の読解を通じたファクト・ファインディングの面については著者の仕事には評価すべき点が多いが、理論構成の面では多くの問題が残されている。しかし、以上のような応答を通じて、著者が論文の到達点ないし残されている問題点について、比較的明瞭な認識を持っていることを確認することができた。今後の研究計画に関しては、あれもこれもと盛りだくさんに過ぎる感があるが、その全てが重要な補足すべき論点であることは確かである。従って、上記のような研究計画に従って、従来通りの熱意を持って、研究を継続すれば、本論文の著者は経営史の分野で自立した研究者として学会に貢献できるであろう。よって、審査委員会は全員一致をもって、孫 一善氏は、博士(経済学)の学位を授与されるに値する研究水準に到達していると判定した。

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