学位論文要旨



No 111538
著者(漢字) 元永,和彦
著者(英字)
著者(カナ) モトナガ,カズヒコ
標題(和) 国際的な相殺に関する諸問題
標題(洋)
報告番号 111538
報告番号 甲11538
学位授与日 1995.10.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第132号
研究科 法学政治学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石黒,一憲
 東京大学 教授 伊藤,眞
 東京大学 教授 江頭,憲治郎
 東京大学 教授 能見,善久
 東京大学 助教授 道垣内,正人
内容要旨

 本稿においては,国際的な相殺に関する実質法及び抵触法上の諸問題につき概観を試みる。抵触法上の問題を扱うに際しては,相殺を広義に捉えて,様々な問題を考察の対象とする。実質法上の問題としては,異種通貨間の相殺を取り上げる。

 抵触法上の問題を論ずる場合にまず問題となるのは,単位法律関係をどうするかである。契約による相殺は契約の問題とし,そうでない場合と取扱を変えるという立場が大勢を占めているが,契約による相殺もその担保的効力に着目して行われるのが通常であり,必然的に第三者の利害にかかわるから,その抵触法的状況は契約によらない場合と大差ない。従って,抵触法上の相殺の取扱は,契約の有無にかかわらず同じであるべきである。

 次に,相殺の主体の問題がある。これは,相殺をめぐる法律関係の当事者の主体の同一性に関する問題と,相殺の可能な範囲の主観的拡張の問題に分けられる。前者は,法人の権利能力主体としての同一性が主たる問題であるが,これは,抵触法的には,法人の属人法によればよい。米国の実質法上,特に銀行の本店と支店につき,支店の預金については本店は支払責任を負わないという形でその権利能力主体としての同一性に一部で疑問が呈されてきたが,現在においてはそれは必ずしも妥当していない。後者については,相殺の主観的範囲の問題と相殺の客観的可能性の問題は,抵触法上は別個の問題となしうるが,現実には双方が一致する場合が多いと思われる。

 さて,相殺の性質決定については,これを手続とする法制と実体とする法制がある。日本の抵触法上どちらとするべきかは,その結果,即ち相殺については手続問題として常に法廷地法を適用するということの正当性を勘案して決めるべきであるが,相殺も債権の消滅の一態様であるからこれを手続とする理由には乏しいし,日本法よりも広く相殺を認める法律を準拠法とする債権同士の相殺も日本で訴えが提起されたというだけで相殺を認めないことの合理性は疑わしく,法廷地漁りを誘発する危険があることも考えれば,これを実体問題と性質決定するべきである。

 この場合の問題点は,実質法上相殺を手続問題としている法律が準拠法となった場合をどう考えるかである。この問題は,手続の代替可能性の問題,即ち準拠外国法上一定の手続が要求されている場合に,その手続を法廷地の手続で代替できるかどうかという問題として扱うべきである。その理論的基盤は,「場所は行為を支配する」の原則に求めることができる。

 さて,相殺の準拠法を考える場合には,それが債権の消滅の問題であり,債権自体の準拠法によるべきである点を出発点にすべきである。しかし,相殺の特徴は,相対立する債権が同時に消滅する所にある。ここに,累積的適用説,即ち自働債権の準拠法と受働債権の準拠法の双方が認める場合に限り相殺を認めるという立場の生ずる理由がある。しかし,この立場は,結果的に双方の債権の準拠法が,自働債権に要求される要件と受働債権に要求される要件の双方が双方の債権に備わっていることを要求するか,実際には自働債権ないし受働債権という地位にある債権を逆の立場にも置いて債権の準拠法を適用するから,過剰な要求をすることになる。そして,自働債権・受働債権のいずれの準拠法によっても相殺が可能であるにもかかわらず,累積すると相殺ができなくなることもある。また,そうでなくても,累積的適用説は相殺の生じる範囲を限定する効果があるが,それを正当化する根拠は十分には示されていない。以上の理由で,累積的適用説には与しえない。

 一方,自働債権の相殺による消滅がその準拠法により生じると言いうるためには自働債権の準拠法上相殺の制度が認められていれば足りるとして,実質上受働債権の準拠法のみによる立場もある。実質法によっては相殺適状になれば当然相殺が生じる例もあるが,その場合でも訴訟手続においてはそれを主張しなければならないから,その点に問題はない。また,累積を行なわないために,それから生じる問題をかなり回避できる。そして,この立場の有する簡明性も無視し得ない利点である。更に,相殺を担保と考えると,その客体たる受働債権の準拠法によるとするのがむしろ自然である。

 しかしながら,相殺が簡易かつ強力な債権回収の手段であることを考えれば,受働債権の準拠法のみによるとすると,自働債権にその準拠法が認める以上の効力を認めることにもなりうる。そこで,自働債権の要件については自働債権の準拠法によらせることが考えられる。即ち,配分的適用である。これと相殺を担保と考えた場合の受働債権の準拠法説との優劣は,相殺の機能をどう考えるかによる価値判断の問題であるが,筆者は,相殺の簡易な決済手段としての性格も無視できないと考えるので,配分的適用説に賛成する。

 相殺は,倒産手続においても重要な意味を持つ。外国の倒産手続においても相殺につき平常時とは違った実質法的規整がなされるから,その内国倒産手続における適用が問題になりうるが,倒産手続は密接に関連した手続的規整と実体的規整により目的を達成する制度であるから,内国倒産手続で外国倒産法上の実質的規定を適用することは非現実的である。結局,ある倒産手続における相殺の可否はその手続の開始国法によることになる。但し,ある債権者に当該手続上の相殺に関する規整が適用されるためには,その債権者との間で当該手続が承認される必要がある。ただ,倒産者の債務者については,内国の手続とは無関係に外国において債務の履行を求められうるから外国でなした弁済の内国での効力につき寛大にならざるをえないのと同様,外国でなされた相殺の内国での効力についても広く認めるべきである。

 このような,手続的強制による抵触法的制度の変容は,差押についても見られる。しかし,倒産と差押では債権債務関係の処理が集団的か否かという違いがあり,実際には両者を同列に考えることは難しい。

 異種通貨間の相殺の可否の中心的問題は,「同種ノ目的」があると言えるかどうかである。歴史的には,これを物質的同種性ではなく機能的同種性と考える説が有力であったが,近年はこの問題は活発に論じられてはいない。しかし,現在においてその有無を判断するには,現在における外貨債権の取扱を吟味しておく必要がある。

 実体法上は,民法上の金銭ないし金銭債務に関する規定が外貨債権にも適用されるかが問題となる。取引の実態に鑑みれば概ねこれを否定する理由には乏しい。不法行為による損害賠償については日本円以外で請求できないとする大審院判例があるが,疑問である。

 手続法上は,外貨債権の執行を金銭債権の執行の方法でなしうるかという問題がある。一般的な取引通念からすれば,外貨債権を執行法上非金銭債権とすることの不当性は明らかであるが,民事執行法には換算率の決定方法に関する規定がないので,金銭債権として執行するにも様々な問題がある。当面は金銭債権として執行するものとし,不都合を解釈で補っていくことになろうが,将来はこれに関する規定の整備が望まれる。

 さて,外貨債権と円貨債権の機能に着目してみると,双方とも抽象的な価値の一定量を目的としているという点では変わりはない。そして,通貨にかかわらず貨幣価値担保約款が利用されてきたことは,金銭債権が通貨ではなくその購買力を実質的な目的にしていることの傍証であると言える。

 以上のことを念頭において,「同種ノ目的」の有無が判断されなければならない。また,相殺を簡便な決済の制度だと捉える限り,当事者の主観的意図がより重視されてよいが,その担保的効力に着目した場合には,受働債権をめぐる第三者の利害にも関係するから,ある程度客観的な妥当性が求められる。もっとも,相殺は弁済と違って通貨が給付されるわけではないから,弁済の場合ほど通貨の違いは大きい意味を持たない。結論的には,異種通貨建て債権相互間には「同種ノ目的」が認められると考えてよいと思われる。

 異種通貨間の相殺を認めた場合,換算率の定め方が問題となる。これは,外貨債権一般について問題になりうることであるが,その場合に重要なのは,価値尺度たる通貨が何かということである。通貨の如何にかかわらず,一般に金銭債権については名目主義が妥当しているが,変動相場制を前提にする限り,通貨を異にする債権を視野にいれるとそのすべてにおいて名目主義を妥当させることはできない。そこで,当事者の間ではどの通貨において名目主義が妥当していたかを定めることが必要になる。これが,価値尺度たる通貨となる。その決定は,契約による債務においては当事者の意思により,不法行為等による債務については当事者の事情を勘案して被害者の救済等の目的をよりよく達成できる通貨を選ぶことによる。

 さて,異種通貨間の相殺であっても価値尺度たる通貨が同じであれば,その通貨に換算して相殺を行なえばよい。価値尺度たる通貨も異なる場合は問題であるが,外貨を価値尺度とする債権について円貨で弁済する場合に現実弁済時の相場で換算すべきことが参考になろう。もっとも,相殺にあっては現実の弁済が伴わないが,当事者が弁済されたものと期待する時点,即ち相殺の効力が発生した時点において換算するべきであると考える。

 [以上]

審査要旨

 本論文は、国際金融取引の全体像を常に意識しつつ、我が国を法廷地として実際に国際的な相殺が行われる過程で生じる、理論・実務両面での、多種多様な抵触法(国際私法)的・実質法(民商法及び民事手続法・倒産法)的諸問題について、網羅的な分析を試みたものである。

 本論文は、「序論--問題の設定と定義」、「第1部 抵触法上の問題」、「第2部 実質法上の問題--異種通貨間相殺をめぐって」とからなる。

 まず、「序論」の「第1章 問題の設定」において、「抵触法の領域における議論のみでは実際の問題の解決は半分しかできない」として、実質法上の議論をもあわせて行う必要性を示し、その際、本論文において法廷地国として前提される我が国において、外貨の法的取り扱いが十分議論されて来なかったことに鑑み、理論上も実務上もとくに重要な上記の第2部の問題設定のなされた理由が、示されている。また、国際私法上のいわゆる(法律関係の)性質決定の問題との関係でも、相殺の取り扱いについて独特の問題を提起する英米2国の法が、国際金融取引の実務上も極めて重要であるところから、抵触法・実質法の両面で、この2国の判例の動向にとくに焦点を当てることが、示されている。

 序論「第2章 相殺とは何か--定義と概観」では、交互計算、あるいは、スワップ取引等における信用リスク削減のために最近注目されているいわゆるオブリゲーション・ネッティング(3当事者以上の間のものも含む)をも含めて論ずることが、抵触法上の概念設定上の特殊な要請(複数の準拠法の接合面で生ずるいわゆる適応[調整]問題の回避の必要性)との関係で、示されている。

 抵触法上の問題について論ずる第1部の、「第1章 単位法律関係」では、準拠法選択の単位をなす法律関係につき、オブリゲーション・ネッティング等の場合をも包含しつつ一つの単位とするとともに、「誰の債権で相殺できるか」という相殺に供される債権の主体の問題については、アメリカで銀行についてのみ説かれるいわゆるseparate entity doctrineへの批判的な検討がなされている。即ち、国境を間に挟んだ同一銀行の本・支店、あるいは支店相互間では、あたかも別法人のように考える(従って相殺も不可)とするこの理論の淵源を、ニューヨーク州の判例に辿りつつ、詳細に分析・批判する。

 「第2章 性質決定」では、我が国際私法上、相殺を実体・手続いずれの問題と性質決定するかの点の検討(この点での筆者の結論はもとより前者)のみにとどまらず、英米、そしてフランスの法が準拠法となった場合に実際に生じ得る困難な問題の検討もなされている。まず、英米においては相殺が手続問題とされている、と従来単純に考えられて来た点について、従来の我が国での一般の理解が必ずしも正確ではないことに、筆者の注意は向けられる。イングランド法上、制定法上の相殺以外にも「口座の結合(combination of accounts)」や、エクイティ上の相殺があり、それらすべてについて手続問題とされてきた訳ではないこと、また、相殺を手続問題として法廷地法によらしめることには既に20世紀半ばから見直しの機運がイングランドで高まり、必ずしも単純な論断をなし得ない状況にあることが、示される(スコットランドでも外国の相殺規範が全く適用されない、とは言えないことも、付加的に示されている)。同様の視角から、法廷地法以外の相殺規範を適用したアメリカの判例も詳細に分析され、英米における相殺問題の処理に伴う、手続・実体両側面の「二重構造」への注意が、喚起される。ちなみに、この場面でのフランス法への言及は、制定法上の相殺と裁判上の相殺との二重構造に着目しつつなされているものである(後者についてフランスでは、法廷地法によるものとされている)。他方、我が国の場合について、相殺を実体問題とした上で、筆者の関心は、むしろ実体準拠法上相殺が手続問題とされていた場合における、その我が国での適用のなされ方に向けられる。その角度から、筆者は、従来の我が国際私法上の「性質決定」問題の捉え方には不十分な点があったとし、ドイツ国際私法上の議論に言及する。すなわち、実体準拠法たる英米の法が相殺問題につき法廷地法を適用するとしていた場合について、いわゆる「隠れた反致」類似の、問題ある法律構成がとられ、ドイツ法への反致が成立する、と論ずるドイツ学説を、一方では批判しつつ、他方で、単に相殺を実体問題と言ったのみでは済まない問題が別にあることへの注意を、喚起するのである(我が国でフランス法上の裁判上の相殺の取り扱いが問題となった場合を含めて、筆者は、「手続の代替可能性」の問題としての処理を主張している)。

 「第3章 準拠法の選択(1)--執行手続に関係しない場合」では、従来の学説が単純な2債権対立型の場合を想定しつつ、両債権の準拠法の累積的適用を主張していた点が、批判の対象とされる。フランスでも同様の立場が通説であることを踏まえつつ、累積をして相殺の可能性を狭める実質的根拠が日仏においてともに何ら示されていないことが、問題として示される。筆者は、「実際に相殺が主張される場面に即して」具体的に考えるべきだとする一方、フランスの通説たる累積適用説が、フランスの実質法(法律上当然に相殺が生じる)上の前提と深い関係を有することをも指摘しつつ、わが通説を批判する。

 次に、受働債権の準拠法説については、いずれの側から相殺を主張するかで準拠法が異なってくるというのはおかしいとの従来からの批判に加え、前記の累積適用説への批判と同様に、その論理構造を詳細に分析して、これを批判している。その際自働債権の準拠法上相殺制度一般が認められていない場合、受働債権の準拠法の規律内容のみで相殺を認めてよいか否かをめぐる、ドイツ学説の苦悩に満ちた対応から、やはり自働債権の準拠法を完全に無視し去ることは問題だ、との帰結を導くのである。さらに、その他の外国学説の提案をも批判しつつ、かくて両債権の準拠法の配分的適用で相殺の成立を論じ、効果については、受働債権の債権者の保護の観点から、受働債権の準拠法による、との折衷的な筆者の見解が導かれている。

 その上で、同章では、対立する債権が「多対1、多対多」等の場合の複雑な相殺問題の処理について論じる。その場合、個々の債権の準拠法にこだわるという一般の場合の処理の限界を意識しながらも、筆者は、まさにそのような事例たる1991年のニューヨーク州の判例を引きつつ、安易に全体的な取引関係の重点をなす法による、といった処理に走る前に、個々の債権準拠法に着目した地道な処理が可能で有り得る事を、示す。

 「第4章 準拠法の選択(2)--執行手続が関係する場合」は、差押と相殺との関係での抵触法上の問題を、外国倒産手続の承認の場合(国際的な並行倒産を含む)に重点を置きつつ、扱っている。諸外国でのこの点の扱いを踏まえながら、我が国で倒産手続が進められる場合の相殺問題の処理は法廷地法たる我が国の倒産実体法(倒産手続開始国法)による、との立場が、まず示される。次に、外国倒産手続との関係でなされた相殺の取り扱いについて筆者が重視するのは、準拠法からのアプローチと、民訴200条に基づく外国倒産手続の承認、及びそれに基づく相殺関連規定の適用という、国際民事手続法的アプローチとの、いずれによってこの点を処理すべきかの点である。一般に、前者の立場によると準拠法所属国以外での倒産手続の取り扱いの際に困難の生じること、及び承認を前提として外国倒産実体法を適用することが妥当な結果を生じることなどを考慮し、筆者は、基本的に後者の立場をとり、具体的な紛争のパターンに即した細かな分析を施している。

 「第2部 実質法上の問題--異種通貨間相殺をめぐって」では、「序章」において、前述した理由からわが実質法の問題に焦点をあてることが、まず示される。

 つづく「第1章 『外貨債権』と『外貨表示債権』」では、外貨債権と外貨表示債権との区別を中心とする従来の我が国での用語法が、若干錯綜したものであったことへの批判がまずなされ、かつ、以後の論述との関係で、民法403条に関する最判昭和50年7月15日民集29巻6号1029頁の論理が、検討されている。

 「第2章「『同種ノ目的』の意義について」では、異種通貨間相殺の問題を考える上で有用な論議が、学説・判例上この点について従来必ずしも十分に展開されて来なかったことが、まず示される。ただ、イギリスの状況も同様であり、むしろ注目すべきはドイツの場合だ、とされる。もっとも、我が民法403条に相当するBGB244条の要件の満たされた場合にのみ債権の同種性ありとするドイツでの議論では、不十分である、と筆者は述べる。ただ、この点は一層広汎な視座のもとに検討する必要があるとされ、次章以下の論述の必要性が強調されている。

 「第3章 日本法の下での外貨・外貨債権の取り扱い」では、まず、外貨は金銭か商品か、との問題が提起され、民法の起草者の見解をはじめとして詳細な検討がなされている。また、英米での最近に至るまでの議論も検討され、「少なくとも現在活発に取引されている外国通貨については」これを金銭としてよい、との見方が示される。その過程で、我が民法上、不法行為請求を外貨で行えないとする大審院判決の論理が批判され、この点で、自国裁判所ではおよそ外貨建判決は言い渡せないとの、約400年のイギリスでの伝統を覆した、1975年のMiliangos判決(及びそれに続く同国の諸判決)とその意義が、評価される。続いて、外貨債権の執行の問題が議論されている。我が国の従来の学説の論理が詳細にそこで検討されているが、この局面で外貨債権を金銭債権と考えただけでは問題は解決しない、と筆者は論ずる。つまり、その通貨を異にする複数の債権者が競合した場合、等における配当表作成上の困難、配当通貨の決定(当然に円貨とすることの合理性)、また、民事執行法に規定のない換算時点の問題の処理等々、様々な未解決の問題があることを、筆者は指摘し、かつ、立法でこれらを解決する際の若干の指針、即ち金銭執行の方法によらせるべきこと、及び配当実施時の換算率を基準とすべきことなどを、示すのである。さらに筆者は、一連の問題が、外貨建債権の果たす機能と深くかかわるとし、貨幣価値についての名目主義をめぐる内外の議論について、その沿革から辿ってもいる。

 「第4章 結論--異種通貨間相殺の可能性について」では、以上のような検討の経緯のもとに、再度債権の同種性の問題を問い直し、それを原則として肯定するとの筆者の結論の提示がなされている。

 「第5章 実際に相殺を行う場合の問題について(換算時期をいつとするか)」は、第4章の結論の次に生じる問題として、果たして民法403条との関係で前掲最判昭和50年の示した基準時点(判決言い渡しの場合には、事実審口頭弁論終結時、とする)が妥当かを、検討するものである。問題とされるのは、実際の支払時との間の為替相場の変動から生じるwindfall profitの取り扱いである。だが、筆者は、その前提として、損害賠償に際して、一体いかなる通貨でそれを認めるべきなのか、との問題があるはずだとし、イギリスのMiliangos判決以来の判例の展開や、それと対比すべきアメリカの判例の動向を、詳細に検討している。かかる問題関心のもとに決定される通貨建で、請求者に本来与えるべき価値を与えるために、換算時点は決定されるべきだ、というのが筆者の見解である。筆者は、異種通貨間相殺の場合の換算時点をめぐる問題は、以上の検討を踏まえてなされるべきものだ、としつつ、結論としては、相殺適状が発生した時点での換算を、主張している。

 「第6章 実際の取引における相殺に関する問題」は、以上の検討を外国為替取引やインパクト・ローンの場合に即して若干展開したものである。

 以上が、本論文の要旨である。

 本論文の長所としては、以下の点が挙げられる。

 第1に、理論的にも、また、国際金融取引の実務上も極めて重要な問題でありながら、従来まとまった研究業績のなかった国際相殺の問題について、しかも、実際の国際相殺のなされる全過程において生じる諸問題を、詳細かつ包括的に論じ切ろうとするその姿勢は、野心的であり、かつ、本論文によって問題の全体像が初めて浮き彫りにされたことは、評価に値する。

 第2に、抵触法(国際私法)研究者に求められて久しかった実質法の諸領域への広汎な目配りと深い洞察を、本論文は筆者なりに実際に示している。例えば、外貨建債権に関する我が国の執行法上の問題について、具体的な立法論にまで立ち至って検討するなど、実質法上の業績としても、それなりに一定の評価に値するものがある。

 第3に、内外の学説・判例の検討は詳細を極めており、とくに、国際金融取引の理論・実務上重要な、英米の、単に相殺の問題にはとどまらぬ外貨の取り扱いの全体像が、本論文の随所から浮き彫りにされていることは、特筆に値する、と言えよう。

 だが、本論文には、以下の短所もある。

 第1に、実際の国際相殺のプロセスに即して問題点を発掘して行こうとするその基本的アプローチによるものではあろうが、外国法の検討が個々の問題毎に分散され、必ずしも体系的にではなくなされている、との印象がある。

 第2に、筆者なりの苦労の後は読み取れるものの、包括的検討を試みたことの反作用として、第1部と第2部との接合のなされ方が、必ずしも十分うまく行っているとは言いがたい面が、やはりある。とくに第2部第3章の最後の部分における「貨幣価値の名目主義」に関する論述は、若干一般論に流れており、一層国際的相殺に的を絞った叙述がなされるべきであった、と言える。

 本論文に以上のような欠点があることは否定できないが、それらも本論文の価値を大きく損なうものとは言えず、本論文は、国際相殺の問題についての我が国での研究レベルを今後大いに向上させる上で、重要な役割を担うものとなると評価できる。したがって、本論文は博士(法学)の学位にふさわしい内容と認められる。

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