本論文は、19世紀の後半、日本と韓国それぞれの開国に際して、両国の代表的な儒教知識人が新しい国際関係の展開にどのように対応したかを綿密に比較考察したものである。 論文は、本文全7章と参考文献表からなり、各章の末尾に置かれている注を含めて、合計357ページ(400字詰め換算で約1070枚)、注の総数754に及ぶ膨大なものである。参考文献は約300点、日・韓・中および英の4か国語にわたり、関連の基本資料も網羅されている。 19世紀東アジアの知識人の多くは、いうまでもなく、儒教の教義体系に育まれてその思惟を形成し、世界観、社会観、道徳観はもちろん、思想のあらゆる面から日常行動の判断基準まで、すべてを儒教に規定された人々であった。日韓両国のそうした「儒教知識人」にとって、儒教の知的体系に匹敵する、あるいはそれを凌駕するかに見える新たな知的体系は、巨大な思想的挑戦であった。両国の、中華世界のなかの位置および国内政治社会の特徴に差異はあったものの、時代状況と挑戦の衝撃は同様であったといえよう。「開国」を迫る近代欧米の知的体系は、この場合、何よりもまず新しい国際関係を強要する勢力として立ち現れ、そうしたものとして応戦された。本論文は、日韓両国の代表的な儒教知識人として横井小楠と金允植を選び、彼らがこの挑戦に開国論者として対応しながら、敢えて再び儒教的思惟に依拠して応戦する知的営為の過程を分析している。 大きくいえば同時代人である横井小楠と金允植であるが、二人が「開国」に直面した時期と状況は、厳密には異なる。横井小楠(1809-1869年、以下、小楠と略す)が直面した日本の開国は、幕末(1840年代から50年代)の欧米によるものであったのに対して、金允植(1835-1922年、以下、号によって雲養と略す)のそれは、狭義には、1866年の「洋擾」と1876年の日本によるそれであった。二人については、それぞれその国内において思想史的な個別研究の蓄積があるが、これほどに「ズレ」のある両者を思想史と政治史の交点に置いて比較しようとした試みはかつてない。そのため、本論はいくつかの比較方法の試みを明示的に示し、用いている。まず第一に、二人が置かれた「鎖国」から「応接」へ、さらに「秩序」へという時代状況(「コンテクスト」)の推移は同一であったとされる。接触の様相、鎖国および開国の論理と心理を読み解く枠組みとしてこれらのコンテクストが用いられる。次に、二人が置かれていた徳川日本社会と李朝末期社会がもたらす意識空間の差異を考慮するために、意識主体の存在拠点としての場所(「トポス」)を、もう一つの枠組みとして用いる。そして、当然のことながら、儒教が両者のコンテクストとトポスを共通に支える普遍的な観念と思考の準拠であったと想定される。このような方法上の工夫においても本論は評価されるべきものである。 論文は、「鎖国」→「応接」→「秩序」のコンテクストの流れに従って構成されている。まず、第一章「横井小楠と金允植:序章」では、この二人を、東アジア国家が欧米国際秩序と邂逅し、近代国際法秩序に参入していく現実の過程について、儒教的観念をもって思惟し、状況への対応を図った儒学者・政治家として取り上げることを宣言する。もちろん、著者はこの二人ですべてが代表されるなどとは認識していない。異質な物を全面的に排除する対応から、逆にそれを全面的に受容する対応まで、さまざまな対応があったことを視野に入れた上で、それら「個別主義的な思惟」に対して、「普遍主義的な思惟」を対峙させ、後者の代表として二人の知的営為を取り上げるのである。いいかえれば、伝統と近代を対立させるのではなく、伝統と近代を結合させ、相互に照射させようとするのが本論の立場であり、これは最近の歴史学、思想史学などでの問題意識を十分に踏まえたものである。 第二章「意識空間:方法と比較」では、上述の「コンテクスト」と「トポス」からなる対外意識空間を分析の枠組みとして設定することについて、入念な説明を施している。比較思想史の方法に関する従来の研究成果を吸収した上に、独自の方法と枠組みを構築しようとした努力が示されている。続いて、日韓両国の間の具体的なトポスの相違として、海と陸、神州と東藩、大国と小国、豊饒と貧困などの対比を指摘し、両国知識人の対外思惟の性格がこれらの二項群によって把握できることを主張する。そして、こうしたトポスの上に、18世紀末以降、コンテクストの推移が始まるや、対外意識のパラダイム転換が発生するとして、文化重視か政治重視か、普遍主義的か個別主義的かにより、パラダイムは文化的普遍主義、自民族中心主義、権力志向型ナショナリズム、道義志向型インターナショナリズムの四類型になると整理している。要約すれば、コンテクストとトポス、および外界からの刺激の受容方法の如何によって、東アジア知識人の対外的な思惟はこの四つのパラダイムの間をいくつかの経路に従って移動したとされるわけであるが、その歴史的推移の背後に儒教という知的体系が存在し、個々の思惟のあり方を基本的に規定するというのが、本論文の解釈の枠組みである。 第三章「儒教と現実:儒教的世界観」では、小楠と雲養の対外思惟の性格や方向に基本的な枠組みを提供した儒教的思惟について、その普遍主義的対外思惟の可能性と、二人の思惟の間に生じうる相違のトポス的条件を検討している。第一に、両者はともに学問と現実を結び付ける実学的な学問観を持っていたが、現実と学問のどちらに重心を置くかに相違があったという。第二に、両者はともに人を律する「天」を最重要視したが、小楠が天人一体と天の現在化によって天人間の距離を縮めようとする姿勢を持したのに対して、雲養は人事を天に委託せず、天人間の距離の縮小を意識しない姿勢を有したとしている。第三に、両者は「天」と「理」によって世界と時勢を捉える点で共通しながら、小楠は世界と自己を一体視する世界観を持ち、時勢即応的に時勢を捉える時勢観を有したのに対して、雲養は人間の合理的行動を注視する世界観を持ち、時空的差別を強調する時務観を有していたとする。そして、このような儒教的世界観から、小楠には世界に対する動的な姿勢が生まれ、雲養には静的な姿勢が生まれたことを指摘している。 以上のように基本的に儒教の普遍主義に則っていた二人の世界観が、ともすれば個別主義的思惟を醸成させやすい国家的危機のなかで、すなわち、コンテクストが鎖国→応接→秩序と推移するなかで、どのように変遷するかを、第四章から第六章までで検討している。第四章「鎖国の空間:個別のなかの普遍」では、開国の危機が迫るにつれて明白化した鎖国の意識空間のなかで、二人の儒教的思惟がどのような性格を帯びたかを、小楠における英雄・君臣の世界観と鎖国論、雲養における「礼」の世界観と封建論に即して明らかにしている。徳川社会の弛緩を面前にして、小楠は英雄による藩政改革や「天合」的君臣関係の確立など、政治倫理の再構築を唱え、同時に、鎖国を自国の独立と経済的安定によしとした。雲養は「礼」を政治意識の根幹とし、中華思想と事大意識の営為を営むと同時に、封建制を国内の政治的安定と国家間の勢力均衡をもたらすによしとした。二人に見られた状況即応的な変容は、結局、鎖国空間の解体過程にほかならなかったが、著者は、この段階での彼らの主張が「仁」と「徳」の道義的観念にもとづく国際秩序観や、自国を「有道の国」とするアイデンティティの原点を構成したとみなす。 第五章「応接の空間:個別と普遍」では、鎖国が破れ、応接の意識空間に至る時、彼らの道義志向的普遍主義がどのように変転するかを考察する。この時の対外接触においては、拒絶と受容に関する道徳的対応と軍事的対応、原理主義的固執と時勢即応的応接、個別主義的思惟と普遍主義的思惟などが予想されるが、当初、小楠は「皇国の道」と「聖人の道」を結び付ける「道」の個別化を行い、雲養は理念的対応ではなく軍事的対応を講じ、両者とも攘夷の態勢をとった。特徴的なことに、彼らは西洋との交渉と拒絶の準拠を「有道無道」に置いた。しかし、時勢に敏感な二人はやがて開国の不可避を悟り、小楠は対話による合理的な状況対処を探り、雲養は「信義」遵守による国際社会参入を図るようになった。小楠の開国論には「捨短取長」の、雲養の開国論には「東道西器」の論理が導入されるという、対照も見られた。 第六章「秩序の空間:普遍のなかの個別」では、小楠と雲養が、それぞれのトポスの条件の下、開国に伴う秩序変動をいかに捉え、いかに対応しようとしたかを検討している。小楠は開国の論理として、「道」の遍在性、避戦、国威宣揚ないしは対外進出を挙げたが、雲養には避戦の論理だけがあった。開国の国内的条件としては、両者とも国内統合と富国強兵を挙げたが、小楠が民富・国富の増大による強兵を唱えるのに対して、雲養は節用による強兵を唱えるなどの違いも見られた。二人の国際秩序観にもトポス的な差異が現れた。すなわち、国際秩序を「割拠」の秩序と見た小楠は、「仁義」をもって覇道的国際社会に「乗出」し、大国の覇道的行動を癒そうとした。これに対して、国際秩序を「合従連衡」の秩序と見た雲養は、国際法を遵守して「信」を守り、大国との「合従連衡」によって孤立無援を脱出しようとした。小楠に外向きの対外発出の意志があったとすれば、雲養には内向きの秩序順応の思惟があったと、著者はいうのである。そして、晩年の雲養は、西洋の「道」や宗教をも認め、西洋の政治制度を受け入れ、それを「堯舜三代」の理想政治に付会する「大同」意識を示したとされる。 最後に、第七章「儒教と近代:結章」では、小楠と雲養の共通性と相違点がまとめられ、二人が追い求めた儒教的理想がその後の日韓両国において変容を余儀なくされる予兆が示される。著者によれば、小楠と雲養の二人は、同一のコンテクストの推移を経る過程で、儒教的な対外思惟のパラダイムを捨てることはなかった。一時強烈な攘夷意識を見せた二人も、開国以後は、軍事一途の思考や偏狭な自己中心主義、あるいは道徳的原理主義にもとづく個別主義を拒否した。どちらも「道」と「力」を並行させたが、雲養は国権喪失の進行とともに、「力」(国家)よりも「道」を優先させる心理を表明するに到ったという。 以上のような内容を持つ本論文は、東アジア国際関係史中最大の転機に際会した東アジア知識人の、代表的な思想的営為の一つを包括的に活写した力作であり、重要な業績である。また、比較事例の組み合わせの斬新さと比較の方法の工夫とによって学界に新たな地平を拓く可能性がある。さらに、若干皮相に流れる最近の儒教再評価の知的風潮のなか、伝統から近代に接続する時代の渦中にあって、儒教がどのような思惟の枠組みを提供したかを明らかにし、儒教の可能性を示したことも有意義であり、今後の研究に相当な影響を与えるものと予想される。 より具体的には、まず第一に、厳密な比較分析をめざしたその分析が、日韓両国の相対的な差異の影響を明快に指摘する一方、まさにその結果として、両者に共通する儒教の国際思想としての普遍性を摘出する成果を生んでいると、評価される。第一章に掲げられた課題、すなわち、(1)小楠、雲養二人の普遍主義的思惟の思想的構造、(2)「道」にかかわる普遍主義と「国家」にまつわる個別主義との関係、(3)東アジア国際秩序の変動のなかでの儒教的秩序観の含意、(4)小楠、雲養をはじめとする両国知識人の対外意識の性格や方向性の異同を明らかにすること、という課題は概ね達成されている。二人の普遍主義的思惟の構造を明らかにすることから取り組んで、その結果として、儒教の普遍性の側面を明らかにしようとした試みも成功している。 方法の面では、やや時代を異にする二つの国の思想家を比較するために、コンテクストとトポスという二つの分析枠組みを組み合わせるという方法は、当然考えられる一つの方法である。恣意的な比較を避けるために、この工夫に相当の努力が払われたこと、二つの事例にこの分析枠組みが均等かつ厳密に適用されたことも評価の対象となる。かなりの「荒技」であるが、この工夫によって有意義な比較が可能になり、その比較の結果、多くの興味深い異同が明らかにされたことは疑いない。ただし、逆の言い方をすると、この枠組みが先行して、事例の「切り方」が恣意的になりはしないかと危惧されたのであるが、さまざまな論点の証明のために博引された小楠と雲養の文章からの引用は概ね正確であると判定された。かえって、こうして比較されたために、従来の個別研究では指摘されえなかった興味深い発見も、大小、数少なくない。特に雲養について、従来の研究にはない新しい雲養像を示しえたこと、小楠についても、一国史的研究では気づかれないそのユニークさを明らかにしえたことは積極的に評価される。本論文で提起された方法は、今後さらに錬磨すれば、比較思想史の新しい方法を確立する端緒となりうるであろう。 個々の細部においても、成熟した見解、独自の解釈、興味深い指摘がふんだんに存在し、豊富な内容の論文と評価されるが、冒頭に近い第二章で長大な方法論が展開される構成には難点があるというのが多くの審査委員の感想であった。また、コンテクストとトポスを組み合わせた比較の枠組みでは、朝鮮の開国が半ば日本によるものであり、その後日本の支配が強化されたという歴史への配慮が十分にはなされないのではないかという指摘もあった。このように、主として方法の面でなお改善すべき点が残されているが、本論文は、東アジア国際関係思想史の分野で未曾有の比較研究を行うという野心的な試みを成功させている。とりわけ、朝鮮・韓国が近代国際関係に参入する時点で亡国の淵に沈みつつ、道義的な人々の国たりえたのはなぜかという疑問に、冷静着実な比較分析によって納得のいく説明を与えた点は出色の成果であり、内容と作法の両面において水準を越えた力作であると評価される。 よって、審査委員全員は、本論文を博士(学術)を与えるにふさわしい業績であると判定した。 |