学位論文要旨



No 111539
著者(漢字) 張,寅性
著者(英字)
著者(カナ) ジャン,インソン
標題(和) 19世紀儒教知識人にみる開国と普遍主義 : 横井小楠と金允植
標題(洋)
報告番号 111539
報告番号 甲11539
学位授与日 1995.10.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第65号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平野,健一郎
 東京大学 教授 長尾,龍一
 東京大学 教授 三谷,博
 東京大学 教授 渡辺,浩
 東京大学 教授 平石,直昭
内容要旨 1

 本稿の目的は、開国期日本と韓国の儒教知識人の対外思惟や現実意識において普遍主義的観念がいかに機能していたかを、横井小楠(1809-1869)と金允植(1835-1922・号雲養)を中心に比較分析することにある。小楠(S)と雲養(U)は伝統社会の近代への移行において一定の政治的・思想的役割を演じた開国論者で儒学者である。本稿は、西洋を異質なものとして排し、同質なものを見出す自己認識・自己正当化の心理や論理が二人の対外思惟や現実意識にどのように示されているかの視点にたつ。儒教的思惟の克服を近代への移行の条件とみ、西洋理解や近代受容の有効性から儒教的思惟を評価する視角は取らない。主な課題は、(1)二人の普遍主義的思惟の思想的構造、(2)「道」にかかわる普遍主義と「国家」にまつわる個別主義との関係、(3)東アジア国際秩序の変動のなかでの儒教的秩序観の含意、(4)小楠・雲養をはじめ両国知識人の対外意識の性格や方向性の異同、等である。

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 分析の枠組としてコンテクストとトポスからなる対外意識空間を設定する(第2章)。コンテクストは比較対象の同類化を意図する。コンテクストは、その時系列的展開の様相によって区切られた、テクストの意味を考える準拠となる。対外意識のコンテクストは外的衝撃と内的反応との交互関係が作り出す意識の問題領域を指す。対外意識の構造的把握には、理念と状況との、内と外との接触の様相(=交互関係の構造)、およびその関係づけに関する意識形態(=意識の問題領域)の分析が求められる。「意識の問題領域」は状況対応の「論理」を、「交互関係の構造」は独特の「心理」を生み出す。そして接触の様相、および鎖国と開国の論理・心理を読み解く枠組として、「鎖国」「応接」「秩序」のコンテクストを設定する(図のA)。

 トポス(場所)は比較対象との差別化を意図する。トポスとは「共同体」「精神原理」「対外環境」のような意識の「存在根拠」である。意識空間の差異を理解するには、徳川日本社会と李朝末期社会のトポスの相違も視野に入れねばならない。トポスは自他関係に関するアイデンティティの問題を随伴し、両国知識人の対外思惟の性格は、「海」と「陸」、「神州」と「東藩」、「大国」意識と「小国」意識、豊饒と貧困のアウタルキー等の二項群を通じて把握できる。対外危機への感度・反応や、対外情報や書物の受け取り方の差異もそれに影響する。なお、両トポスとコンテクストを支える普遍観念/思考の準拠として、「儒教」を想定する(図のB)。

〈図1〉儒教的思惟と開国―コンテクストとトポス
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 3-1 第3章では、学問観・天人観・時勢観を中心に二人の儒教的世界観を分析する。二人は教義への随従を拒み、テクストの正確な読解を通じて作者の意図をつかもうとし、学問と現実を結び付ける実学的学問観をもつ。ただ、まず現実を極め、つぎに書物を参考する(S)、書物を通じて現実を捉える(U)という姿勢の相違がある。天人観に関しては、吉凶禍福や災異を与える天譴の主体、人の主宰者として天を捉える(S)、天譴や天の主宰性を否定し、人の自律的行為を促す契機として天を捉える(U)、という相違が見られる。そこから天人一体と天の現在化によって天人間の距離を縮めようとする姿勢(S)、人事を天に依託せず、天人間の距離の縮小は意識しない姿勢(U)が出てくる。なお、二人は、世界と自己とを一体させる世界観(S)と現実世界での人間の合理的行動を注視する世界観(U)をもち、また時勢即応的姿勢にたちながら「天」「理」との関連で時勢を考える時勢観(S)と時空的差別を強調する時務観(U)を営む。如上の儒教的世界観から世界に対する動的姿勢(S)と静的姿勢(U)が見出されうる。「古」=「堯舜三代」の現在的変容による「今」の再構築(S)、または「今」の変化を「古」に附会する尚古(U)という「古今」意識の相違も、動静の思惟態度と無縁ではない。なお、二人の儒教的世界観は 武士社会で多元的知識社会(江戸日本)と、文人社会で一枚岩的知識社会(李朝朝鮮)というトポス的条件の一定した拘束を受けるものである。

 3-2 閉じた空間=鎖国の意識空間のなかで、小楠と雲養の儒教的思惟はいかなる性格をもつのか(第4章)。二人の鎖国空間を構成する伝統的思惟の範疇は、英雄・君臣の世界(S)と「礼」の世界(U)、鎖国論(S)と封建論(U)である。小楠は、徳川社会の弛緩に際し、英雄の出現による藩政改革、「忠臣-叛臣」の峻別、「天合」的君臣関係の確立など政治倫理の再構築を図る。これら意識の「義合」的君臣観・「外の英雄」(ワシントン)の礼賛への状況即応的な変容は、鎖国空間の解体過程でもある。民本志向・道義志向的政治意識の前面化はその解体の進行と照応する。雲養は英雄待望・礼賛の心理や君臣観よりは、「礼」の問題を政治意識の根幹とする。中華思想と事大意識の営為はその表現である。また彼は、中国事態を通じて西洋の脅威を感じ取り、闢邪の現実的な方法を講じる。他方、鎖国論と封建論は、危機感なき閉じた空間の心理が普遍主義的思惟を生み出せるのを示す。小楠は鎖国体制が自国の独立と経済的安定に資するとして鎖国を礼賛する。雲養は古代中国の封建制に論じるなかで国内の政治的安定と国家(諸候)間の勢力均衡=平和をもたせるとして封建制を礼賛する。二つの主張は、「仁」「徳」の道義的観念に基づく国際秩序観念や「有道の国」としてのアイデンティティの原点といいうる。

 3-3 対外危機の近接(=ペリー来航と洋擾)で鎖国空間が破れるとき、道義志向的普遍主義はどうなるのか(第5章)。応接の意識空間は閉じた空間から開いた空間への移行を促す接触に関する諸思惟、即ち、「拒絶」と「受容」に関する道徳的対応と軍事的対応、原理主義的固執と時勢即応的応変、個別主義的思惟と普遍主義的思惟などからなる。最初の反応は攘夷の戦闘態勢である。小楠は「皇国の道」と「聖人の道」を結びつける「道」の個別化や、戦争様式の変更による攘夷の戦闘態勢を備える。雲養は理念的対応よりは、戦術のパラダイム転換による軍事的対応を講じる。「彼我」の力の客観的測定と敵情の把握に務める姿勢は二人に共通する。対西洋交渉と拒絶の準拠は「有道無道」である。小楠は体面を失わない主体的対応をとくに強調する。だが、時勢に敏感な彼らは、開国の不可避さをすぐ感じ取り、対話による合理的な状況対処の方法(S)、または「信義」遵守による国際社会への参入(U)を図る。彼らは無頓着な攘夷的行動を非難し、慎重な対外行動を求める。為民政治の不在への自覚(S)、権力政治的国際秩序への自覚(U)は開国論への転換の契機であり、そこには「捨短取長」(S)と「東道西器」(U)の論理が働く。

 3-4 秩序の意識空間で分析すべきことは、国際秩序変動の開国状況における小楠と雲養の秩序観念と国家観念および政治意識である(第6章)。まず、開国の論理は、(1)「道」の遍在性(2)避戦(3)国威宣揚または対外進出、の三つがあるが、三つの混在(S)と(2)の論理(U)という相違が見られる。これは両国開国論者の一般的相違でもある。開国の国内的条件は国内統合と富国強兵である。国内統合は民心一致と宗教(儒教)による国内統合(S)と、為政者の政治的力量重視(U)として、富国強兵は民富や国富の増大による強兵(S)と、節用による強兵(U:のちは先富民後強兵に変更)として示される。

 二人の国際秩序観念は、トポス的含意をもつ「割拠」と「合従連衡」の観念に基づく。分派主義的エゴイズムに満ちた「割拠」的秩序は戦争をもたらす。小楠は、「仁義」をもって覇道的国際社会に「乗出」し、戦争を止め、大国の覇道的行動を癒そうとする。「外」向きな対外発出の意志である。雲養は、国際秩序を「力」と「法」(国際法)が共存する「合従連衡」の権力政治的秩序として捉え、国際法を遵守して「信」を守り、大国との「合従連衡」を通じて「孤立無援」の状態を免れようとする「内」向きな秩序順応の対外思惟を示す。儒教が世界に「溢れ」て戦争が止むことも考える。両方とも戦争を否定するが、ただ、武力使用の否定(U)と容認(S)という相違がある。小楠は「万国交通」の世界を開かれた交易システムとして捉えて「公共の道」を打ち出し、四海同胞意識を抱く開いた意識を示す。西洋の政治制度および「新学」が受け入れられる啓蒙のコンテクストを生きた晩年の雲養は、小楠と違って、西洋の「道」や宗教も認め、西洋の政治制度を受け入れ、それを「堯舜三代」の理想政治に附会する「大同」意識を示す。

4

 小楠と雲養は、鎖国から開国へ、拒絶から受容へと対外意見を変える状況即応の現実主義的姿勢を見せながらも、対外思惟の儒教パラダイムを捨てることはなかった。彼らはかつて強烈な攘夷意識も見せたが、開国以降は軍事一途の思考や偏狭な自己中心主義、また道徳的原理主義に基づく個別主義は拒否した。どちらも「道」と「力」を並行させたが、雲養は国権喪失の進行とともにその並行を崩し、「力」・国家よりも「道」を優先させる心理を表す。政治と倫理の一致、内の原理と外の原理との一致、王道観念の対外的投射、民本主義、自己優越意識、戦争否定と平和志向の対外思惟などは、儒教理念にたつ共有物である。ただ、小楠と雲養は、意識性向やトポスの相違によってその具体的内容を異にする。そして、二人が追い求めつづけた儒教的理想は、近代の進行とともに変容を余儀なくされる。小楠の後輩たちは、「道」を国家主義に従属させ、または近代への転向を通じてそれを捨象する。雲養の同時代人のなかには、国権喪失に際し、現実から遊離した「道」の実現を夢想するものもいれば、主体と客体、内と外の分離を急いだものもいる。

審査要旨

 本論文は、19世紀の後半、日本と韓国それぞれの開国に際して、両国の代表的な儒教知識人が新しい国際関係の展開にどのように対応したかを綿密に比較考察したものである。

 論文は、本文全7章と参考文献表からなり、各章の末尾に置かれている注を含めて、合計357ページ(400字詰め換算で約1070枚)、注の総数754に及ぶ膨大なものである。参考文献は約300点、日・韓・中および英の4か国語にわたり、関連の基本資料も網羅されている。

 19世紀東アジアの知識人の多くは、いうまでもなく、儒教の教義体系に育まれてその思惟を形成し、世界観、社会観、道徳観はもちろん、思想のあらゆる面から日常行動の判断基準まで、すべてを儒教に規定された人々であった。日韓両国のそうした「儒教知識人」にとって、儒教の知的体系に匹敵する、あるいはそれを凌駕するかに見える新たな知的体系は、巨大な思想的挑戦であった。両国の、中華世界のなかの位置および国内政治社会の特徴に差異はあったものの、時代状況と挑戦の衝撃は同様であったといえよう。「開国」を迫る近代欧米の知的体系は、この場合、何よりもまず新しい国際関係を強要する勢力として立ち現れ、そうしたものとして応戦された。本論文は、日韓両国の代表的な儒教知識人として横井小楠と金允植を選び、彼らがこの挑戦に開国論者として対応しながら、敢えて再び儒教的思惟に依拠して応戦する知的営為の過程を分析している。

 大きくいえば同時代人である横井小楠と金允植であるが、二人が「開国」に直面した時期と状況は、厳密には異なる。横井小楠(1809-1869年、以下、小楠と略す)が直面した日本の開国は、幕末(1840年代から50年代)の欧米によるものであったのに対して、金允植(1835-1922年、以下、号によって雲養と略す)のそれは、狭義には、1866年の「洋擾」と1876年の日本によるそれであった。二人については、それぞれその国内において思想史的な個別研究の蓄積があるが、これほどに「ズレ」のある両者を思想史と政治史の交点に置いて比較しようとした試みはかつてない。そのため、本論はいくつかの比較方法の試みを明示的に示し、用いている。まず第一に、二人が置かれた「鎖国」から「応接」へ、さらに「秩序」へという時代状況(「コンテクスト」)の推移は同一であったとされる。接触の様相、鎖国および開国の論理と心理を読み解く枠組みとしてこれらのコンテクストが用いられる。次に、二人が置かれていた徳川日本社会と李朝末期社会がもたらす意識空間の差異を考慮するために、意識主体の存在拠点としての場所(「トポス」)を、もう一つの枠組みとして用いる。そして、当然のことながら、儒教が両者のコンテクストとトポスを共通に支える普遍的な観念と思考の準拠であったと想定される。このような方法上の工夫においても本論は評価されるべきものである。

 論文は、「鎖国」→「応接」→「秩序」のコンテクストの流れに従って構成されている。まず、第一章「横井小楠と金允植:序章」では、この二人を、東アジア国家が欧米国際秩序と邂逅し、近代国際法秩序に参入していく現実の過程について、儒教的観念をもって思惟し、状況への対応を図った儒学者・政治家として取り上げることを宣言する。もちろん、著者はこの二人ですべてが代表されるなどとは認識していない。異質な物を全面的に排除する対応から、逆にそれを全面的に受容する対応まで、さまざまな対応があったことを視野に入れた上で、それら「個別主義的な思惟」に対して、「普遍主義的な思惟」を対峙させ、後者の代表として二人の知的営為を取り上げるのである。いいかえれば、伝統と近代を対立させるのではなく、伝統と近代を結合させ、相互に照射させようとするのが本論の立場であり、これは最近の歴史学、思想史学などでの問題意識を十分に踏まえたものである。

 第二章「意識空間:方法と比較」では、上述の「コンテクスト」と「トポス」からなる対外意識空間を分析の枠組みとして設定することについて、入念な説明を施している。比較思想史の方法に関する従来の研究成果を吸収した上に、独自の方法と枠組みを構築しようとした努力が示されている。続いて、日韓両国の間の具体的なトポスの相違として、海と陸、神州と東藩、大国と小国、豊饒と貧困などの対比を指摘し、両国知識人の対外思惟の性格がこれらの二項群によって把握できることを主張する。そして、こうしたトポスの上に、18世紀末以降、コンテクストの推移が始まるや、対外意識のパラダイム転換が発生するとして、文化重視か政治重視か、普遍主義的か個別主義的かにより、パラダイムは文化的普遍主義、自民族中心主義、権力志向型ナショナリズム、道義志向型インターナショナリズムの四類型になると整理している。要約すれば、コンテクストとトポス、および外界からの刺激の受容方法の如何によって、東アジア知識人の対外的な思惟はこの四つのパラダイムの間をいくつかの経路に従って移動したとされるわけであるが、その歴史的推移の背後に儒教という知的体系が存在し、個々の思惟のあり方を基本的に規定するというのが、本論文の解釈の枠組みである。

 第三章「儒教と現実:儒教的世界観」では、小楠と雲養の対外思惟の性格や方向に基本的な枠組みを提供した儒教的思惟について、その普遍主義的対外思惟の可能性と、二人の思惟の間に生じうる相違のトポス的条件を検討している。第一に、両者はともに学問と現実を結び付ける実学的な学問観を持っていたが、現実と学問のどちらに重心を置くかに相違があったという。第二に、両者はともに人を律する「天」を最重要視したが、小楠が天人一体と天の現在化によって天人間の距離を縮めようとする姿勢を持したのに対して、雲養は人事を天に委託せず、天人間の距離の縮小を意識しない姿勢を有したとしている。第三に、両者は「天」と「理」によって世界と時勢を捉える点で共通しながら、小楠は世界と自己を一体視する世界観を持ち、時勢即応的に時勢を捉える時勢観を有したのに対して、雲養は人間の合理的行動を注視する世界観を持ち、時空的差別を強調する時務観を有していたとする。そして、このような儒教的世界観から、小楠には世界に対する動的な姿勢が生まれ、雲養には静的な姿勢が生まれたことを指摘している。

 以上のように基本的に儒教の普遍主義に則っていた二人の世界観が、ともすれば個別主義的思惟を醸成させやすい国家的危機のなかで、すなわち、コンテクストが鎖国→応接→秩序と推移するなかで、どのように変遷するかを、第四章から第六章までで検討している。第四章「鎖国の空間:個別のなかの普遍」では、開国の危機が迫るにつれて明白化した鎖国の意識空間のなかで、二人の儒教的思惟がどのような性格を帯びたかを、小楠における英雄・君臣の世界観と鎖国論、雲養における「礼」の世界観と封建論に即して明らかにしている。徳川社会の弛緩を面前にして、小楠は英雄による藩政改革や「天合」的君臣関係の確立など、政治倫理の再構築を唱え、同時に、鎖国を自国の独立と経済的安定によしとした。雲養は「礼」を政治意識の根幹とし、中華思想と事大意識の営為を営むと同時に、封建制を国内の政治的安定と国家間の勢力均衡をもたらすによしとした。二人に見られた状況即応的な変容は、結局、鎖国空間の解体過程にほかならなかったが、著者は、この段階での彼らの主張が「仁」と「徳」の道義的観念にもとづく国際秩序観や、自国を「有道の国」とするアイデンティティの原点を構成したとみなす。

 第五章「応接の空間:個別と普遍」では、鎖国が破れ、応接の意識空間に至る時、彼らの道義志向的普遍主義がどのように変転するかを考察する。この時の対外接触においては、拒絶と受容に関する道徳的対応と軍事的対応、原理主義的固執と時勢即応的応接、個別主義的思惟と普遍主義的思惟などが予想されるが、当初、小楠は「皇国の道」と「聖人の道」を結び付ける「道」の個別化を行い、雲養は理念的対応ではなく軍事的対応を講じ、両者とも攘夷の態勢をとった。特徴的なことに、彼らは西洋との交渉と拒絶の準拠を「有道無道」に置いた。しかし、時勢に敏感な二人はやがて開国の不可避を悟り、小楠は対話による合理的な状況対処を探り、雲養は「信義」遵守による国際社会参入を図るようになった。小楠の開国論には「捨短取長」の、雲養の開国論には「東道西器」の論理が導入されるという、対照も見られた。

 第六章「秩序の空間:普遍のなかの個別」では、小楠と雲養が、それぞれのトポスの条件の下、開国に伴う秩序変動をいかに捉え、いかに対応しようとしたかを検討している。小楠は開国の論理として、「道」の遍在性、避戦、国威宣揚ないしは対外進出を挙げたが、雲養には避戦の論理だけがあった。開国の国内的条件としては、両者とも国内統合と富国強兵を挙げたが、小楠が民富・国富の増大による強兵を唱えるのに対して、雲養は節用による強兵を唱えるなどの違いも見られた。二人の国際秩序観にもトポス的な差異が現れた。すなわち、国際秩序を「割拠」の秩序と見た小楠は、「仁義」をもって覇道的国際社会に「乗出」し、大国の覇道的行動を癒そうとした。これに対して、国際秩序を「合従連衡」の秩序と見た雲養は、国際法を遵守して「信」を守り、大国との「合従連衡」によって孤立無援を脱出しようとした。小楠に外向きの対外発出の意志があったとすれば、雲養には内向きの秩序順応の思惟があったと、著者はいうのである。そして、晩年の雲養は、西洋の「道」や宗教をも認め、西洋の政治制度を受け入れ、それを「堯舜三代」の理想政治に付会する「大同」意識を示したとされる。

 最後に、第七章「儒教と近代:結章」では、小楠と雲養の共通性と相違点がまとめられ、二人が追い求めた儒教的理想がその後の日韓両国において変容を余儀なくされる予兆が示される。著者によれば、小楠と雲養の二人は、同一のコンテクストの推移を経る過程で、儒教的な対外思惟のパラダイムを捨てることはなかった。一時強烈な攘夷意識を見せた二人も、開国以後は、軍事一途の思考や偏狭な自己中心主義、あるいは道徳的原理主義にもとづく個別主義を拒否した。どちらも「道」と「力」を並行させたが、雲養は国権喪失の進行とともに、「力」(国家)よりも「道」を優先させる心理を表明するに到ったという。

 以上のような内容を持つ本論文は、東アジア国際関係史中最大の転機に際会した東アジア知識人の、代表的な思想的営為の一つを包括的に活写した力作であり、重要な業績である。また、比較事例の組み合わせの斬新さと比較の方法の工夫とによって学界に新たな地平を拓く可能性がある。さらに、若干皮相に流れる最近の儒教再評価の知的風潮のなか、伝統から近代に接続する時代の渦中にあって、儒教がどのような思惟の枠組みを提供したかを明らかにし、儒教の可能性を示したことも有意義であり、今後の研究に相当な影響を与えるものと予想される。

 より具体的には、まず第一に、厳密な比較分析をめざしたその分析が、日韓両国の相対的な差異の影響を明快に指摘する一方、まさにその結果として、両者に共通する儒教の国際思想としての普遍性を摘出する成果を生んでいると、評価される。第一章に掲げられた課題、すなわち、(1)小楠、雲養二人の普遍主義的思惟の思想的構造、(2)「道」にかかわる普遍主義と「国家」にまつわる個別主義との関係、(3)東アジア国際秩序の変動のなかでの儒教的秩序観の含意、(4)小楠、雲養をはじめとする両国知識人の対外意識の性格や方向性の異同を明らかにすること、という課題は概ね達成されている。二人の普遍主義的思惟の構造を明らかにすることから取り組んで、その結果として、儒教の普遍性の側面を明らかにしようとした試みも成功している。

 方法の面では、やや時代を異にする二つの国の思想家を比較するために、コンテクストとトポスという二つの分析枠組みを組み合わせるという方法は、当然考えられる一つの方法である。恣意的な比較を避けるために、この工夫に相当の努力が払われたこと、二つの事例にこの分析枠組みが均等かつ厳密に適用されたことも評価の対象となる。かなりの「荒技」であるが、この工夫によって有意義な比較が可能になり、その比較の結果、多くの興味深い異同が明らかにされたことは疑いない。ただし、逆の言い方をすると、この枠組みが先行して、事例の「切り方」が恣意的になりはしないかと危惧されたのであるが、さまざまな論点の証明のために博引された小楠と雲養の文章からの引用は概ね正確であると判定された。かえって、こうして比較されたために、従来の個別研究では指摘されえなかった興味深い発見も、大小、数少なくない。特に雲養について、従来の研究にはない新しい雲養像を示しえたこと、小楠についても、一国史的研究では気づかれないそのユニークさを明らかにしえたことは積極的に評価される。本論文で提起された方法は、今後さらに錬磨すれば、比較思想史の新しい方法を確立する端緒となりうるであろう。

 個々の細部においても、成熟した見解、独自の解釈、興味深い指摘がふんだんに存在し、豊富な内容の論文と評価されるが、冒頭に近い第二章で長大な方法論が展開される構成には難点があるというのが多くの審査委員の感想であった。また、コンテクストとトポスを組み合わせた比較の枠組みでは、朝鮮の開国が半ば日本によるものであり、その後日本の支配が強化されたという歴史への配慮が十分にはなされないのではないかという指摘もあった。このように、主として方法の面でなお改善すべき点が残されているが、本論文は、東アジア国際関係思想史の分野で未曾有の比較研究を行うという野心的な試みを成功させている。とりわけ、朝鮮・韓国が近代国際関係に参入する時点で亡国の淵に沈みつつ、道義的な人々の国たりえたのはなぜかという疑問に、冷静着実な比較分析によって納得のいく説明を与えた点は出色の成果であり、内容と作法の両面において水準を越えた力作であると評価される。

 よって、審査委員全員は、本論文を博士(学術)を与えるにふさわしい業績であると判定した。

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