学位論文要旨



No 111545
著者(漢字) 大杉,由香
著者(英字)
著者(カナ) オオスギ,ユカ
標題(和) 明治前期における経済と福祉 : 農村と都市の観点から
標題(洋)
報告番号 111545
報告番号 甲11545
学位授与日 1995.12.13
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第95号
研究科 経済学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石井,寛治
 東京大学 教授 西田,美昭
 東京大学 教授 武田,晴人
 東京大学 助教授 大澤,眞理
 東京大学 助教授 岡崎,哲二
内容要旨

 現在、日本の社会福祉史研究はそれほど目覚ましい研究成果を上げておらず、単に段階的時期区分に多種多様の救済制度を書き込んでいるといった、いわば編年史に留まっている。その最大の原因は、労働不能の窮民(以下一般窮民)の問題はどの時代においても発生するものであるため、労働能力を持つ有能貧民の失業・授産等といった、資本主義の生成・発展との関わりが明確な問題とは別物にされてきた点にあった。しかし、戦前の長きに亙って一般窮民に関する唯一の国家法規であった恤救規則は慈恵的性格を持ち、家族・親戚・隣保・区(市)町村・府県のいずれの段階でも救済できなかった者のみを救済対象としたから、恤救規則適用者(国費救済者)の現れ方は、居住地域(府県・区(市)町村・隣保等)での救済能力を示し、それは同時に救済能力を規定する地域の社会経済的状況をも反映していた。つまり国の救済が地方公共団体による公費救済・私的救済(血縁・地縁に基づく従来の救済システムと慈善事業に代表される新しい民間救済システム)を前提にし、私的救済や公費救済のあり方が国費救済者発生に影響していた以上、この三者の関係を捉えることは、一般窮民が如何なる社会経済的状況を経て公的扶助を受けるようになるのかを見るうえで重要な視角となりうる。そこで本稿では、一般窮民問題と資本主義生成・発展との関係を考える手始めとして、三者の関係に注目し、資本主義草創期にあたる明治前期(日清戦争まで)に焦点を当てている。具体的には、第1章で農村(岡山・山梨・秋田)における商品経済化がどのような形で救済のあり方に影響したかを考え、第2章では、同様の問題を都市(東京・京都)を対象に考察する。最終章では、農村・都市を通じた共通点および両者の相違点を探り、社会経済的状況との関わりの中で明治前期の日本における救恤の実態を捉える試みをしている。

 まず最初に本稿では、恤救規則と官費棄児救済の実施状況について統計分析を行った。これらの実施状況に大きな地域差があることについては、今まで地方官の恣意が反映したものに過ぎないとされていたが、実際に救済人員や救済率を分析してみると、全国平均救済率以上の府県は西日本に多く、養蚕地帯・水稲単作地帯をはじめとした中部・東日本では平均救済率の半分以下の県が目立ち、そこにはある程度社会経済的な状況が反映されていたと考えられる。続いて本稿は国費救済に依拠することの多かった西南日本型の例として岡山県を、またそれとは対照的な動きを示した養蚕地帯の例として山梨県を、そして水稲単作地帯の例として秋田県をそれぞれ取り上げ、県庁史料等に依りつつ具体的な分析を行った。これは全国的な視野で位置付けられることの少なかった各県の社会福祉史を整理する意味を持つと同時に、今までの地主制史研究に欠落しがちであった村落共同体等の社会関係を見直す意図も含まれている。ただし都市については、統計分析から特徴を読み取ることは難しかった。と言うのは、全国統計では府の特徴は掴めてもそれは区(市)と郡を合わせた性格に過ぎず、京都のように一時期を除けば両者の区別ができないケースでは、区(市)のみを取り出して全国的な位置付けをすることは、不可能だったからである。

 岡山県に関して言えば、全体として国費救済率(恤救規則適用者人数/府・県人口)は極めて高い。これは既に幕末の時点で五人組が経済格差を抜きにした隣保扶助関係から経済的な関係(雇用関係・地主小作関係等)に変化していることからも窺えるように、同県では村落共同体内部でのつながりが比較的早い時期から緩み始めていたためである。都市と農村部を結ぶ河川をはじめとした交通網の発達、本家に頼らずとも何とか経営のできる高い生産力、収入補填に欠かせぬ副業が多岐にわたって存在していたことは、隣保団結に影を落としていたと考えられる。県が積極的に慈善事業を奨励した背景もここにある。

 それに対し山梨県の国費救済率は全国でも最も低い部類に属し、しかも同県では明治後期に至っても慈善事業の発展は殆ど見られない状況であった。それは村落共同体内部において古くからの扶助関係が再編されつつも残っていたことと、養蚕業の発展を軸にした農村内部での経済力の高さ故と思われる。現に山梨県ではこの産業の発展で農民層分解が早くから進行しており、そのため本家分家の関係は固定的な上下関係ではなく、流動的になりやすい傾向にあった。事実、同県に見られる親分子分関係は本家分家といった血縁関係より地主小作関係を反映していることが多いのである。なお同県では後述の秋田とは対照的に富豪同士が救済組織を結成するような動きは殆ど見られず、あくまでも救済は個人的なつながりで行われていた点も特徴である。

 他方、秋田県も山梨県同様に国費救済率は低いが、その内情はかなり異なる。秋田の場合、小作証書を取り交すケースが極めて少ないことからも窺えるように、当時まだ古くからの扶助関係がそのまま残されていた。要するに山梨県と比べ本家分家関係も固定的なものであって、また相対的に広い土地での農業経営とそれに伴う農業技術水準の低さは、両者の相互依存関係を更に強めることになった。何故ならば、同一面積で生産力を上げるにはそれだけ多くの働き手を要したからで本家は無償労働力を確保したいがために容易に分家を許さず、分家も低い生産力故に一応独立した後も何かと本家に頼らざるをえない状況にあったからである。とは言え、同時に低い生産力はしばしば飢餓的な状況を生み出しており、到底一族の相互扶助だけでは乗り切れないことも少なくなかった。感恩講をはじめ、秋田では地主等の富豪同士が連携を取って、時には行政側とも結び付きつつ、救済を実施するケースが多いのはこのためと思われる。

 ところが、東京・京都といった都市では、特に明治初期において府をはじめとした行政機関が救済の主体になるケースが多く、隣保扶助のみに救済を任せることはしていなかった。それは東京の場合、(1)府自らが人心を掌握するため救済の主体になろうとしていたこと、(2)国家権力と結び付いた豪商が町会所の救済を否定し、かつ町会所崩壊後に設立された東京会議所でもそういった豪商の方が町会所の業務に以前従事していた旧江戸商人よりも多数派であったこと等で町方の救済が抑制されてしまったためであった。しかも明治初年の一時期を除けば、東京は借家の需要も高くなり、地主にすれば、店借は家賃の支払可能な者であれば誰でも良く、支払を滞らせるような貧窮民の救済にはさほど関心を持たなかった。また地主は直接の借家管理を差配人に任せることが多いうえ、家賃収入だけでなく、商売で生活収入を得るケースが少なくないこともあって、店借との関係は希薄であり、農村のように地主が救済に乗り出すことは殆どなかったのである。尤も地主と店借との関係が希薄であるのは、店借が土地にしがみつく必要のない雑業層であることと無関係ではない。更に居住地で相互扶助が不可欠となる農業と違って、雑業はそうした必要がないためか、店借間の相互扶助も多くはなかった。端的に言えば、東京では隣保扶助をはじめとした古い私的救済システムが既にこの時期に崩壊し、町方の救済が復活できる余地はなくなってしまい、新しい私的救済システムとも言うべき慈善事業の担い手すらいない状況だったのである。東京で府が一貫して救済を担っていたのは、以上の理由による。

 京都でも維新直後から松方デフレにかけて府が救済のイニシャティブを取ったのは事実だが、町や町組の結束を強めるために小学校建設を奨励したことにも見られるように、町方の力を最大限引き出そうとした点では、東京と対照的である。そして一般窮民救済に一定程度の役割を果たした窮民授産所の廃止に見られるように、京都では府の救済事業が松方デフレ以降殆どなくなった点でも、東京とは異なる。それは町や町組の結束力が高く、町が問題を処理するケースが少なくないこと、更には民間で慈善事業の担い手が多く見られたことと関係している。確かに京都でも店借の実態は雑業層であったものの、町が住民の出入を厳しくチェックし、表店衆の許可がなければ住めなかったから、市外から貧窮民が流入してくるのは東京よりも困難であった。町が外の人間の流入に対し制限を行ったことは、捨子養子制度にも表れており、ある町で拾われた棄児は多少の金を付けて必ずよその町に住む家庭に引き渡されたのである。換言すれば、京都の場合、町が貧窮民の出入を抑制し、棄児問題にも対応したことが、国費救済・公費救済共に少ない状況を生み出したと言える。そして同時に町の中で貧窮民問題が起こった時は徹して助けるという状況があり、それは個人の小規模な慈善事業が結構見られた点とも対応する。無論、京都では宗教関係者による慈善事業も少なくなかった。

 財政的な裏付けが貧弱で、実態に十分対応しない国家法規が中央集権的に布告された場合、その政策の実施は、府県の社会経済的状況に左右されることが多くなるが、明治前期の救恤政策はまさにその典型であった。そして救恤関係の国家費用を極小化したツケは、家族や親戚、隣保、地方公共団体がその時々の状況に対応しつつ払っていたのであり、国家の強大化のために民に犠牲を強いる体制は、農村であれ都市であれ、ほぼこの時点で成立したのである。

審査要旨

 本論文は、日清戦争までの明治前期の日本における労働不能の一般窮民に対する公的・私的救済の特徴を、日本資本主義の生成・発展との関わりにおいて捉えることを試みたものである。こうした問題についての研究の必要性は、最近の福祉国家化の進展の中でますます高まっているにも拘らず、研究業績としては、社会福祉の研究者によるものが若干あるにとどまり、歴史研究者による研究は極めて乏しいのが実情である。本論文の著者は、そうした研究の空白を埋めるべく精力的に実証研究に取り組んできた。

 本論文は、研究史の問題点を指摘しつつ本論文の分析視角を示した序章、岡山・山梨・秋山3県を中心に農村部における救済の在り方を論じた第1章、東京と京都を中心に都市部における救済の在り方を論じた第2章、以上の検討を総括した終章からなっている。

 序章「日本社会福祉研究の問題点と本稿の視座」において、著者は、従来の社会福祉の専門家による歴史研究が、一般窮民の救済と資本主義の発展との関連を問題とするとしながらも、実際には段階的時期区分に多種多様な救済制度を詰め込んだ「編年史」に終わっていること、社会政策の専門家による歴史研究は、労働能力を持つ貧民(有能貧民)を対象とするだけで一般窮民問題は扱ってこなかったこと、歴史家による社会福祉史研究もそうした限界を克服するものではなかったことを問題点として指摘する。その上で、著者は、1874年(明治7)の恤救規則が家族・親戚や隣保・町村・府県のいずれの段階でも救済できなかった一般窮民のみを救済対象としたために、恤救規則による国費救済者の現れ方は地域の社会経済状況を反映した救済能力を示すことになる点に着目し、血縁・地縁ないし慈善事業による「私的救済」と、地方公共団体による「公費救済」、および、恤救規則による「国費救済」の三者の関係の地域別分析を通じて、一般窮民問題と資本主義発展との関係を把握するという分析方法を提起する。

 ついで、著者は、1880年(明治13)から1893年(明治26)にかけての府県別の恤救規則(および官費棄児救済)適用率(救済人員/府県人口)の平均値を比較し、従来の研究者はそこに大きな格差があることに基づいて国費救済が如何に地方官の恣意によって行われてきたかを専ら強調してきたが、全国的に見る限り、救済率が西日本の先進地帯において高く、東日本の養蚕地帯や水田単作地帯において低いという特徴が見られるのであって、救済率の格差と各府県の社会経済状況の間に密接な関連が想定できるとして、以下の地域別分析への導入としている。

 第1章「明治前期農村部における公的扶助と私的救済-岡山・山梨・秋田を中心に-」において、著者は、国費救済率の高い西南日本型の例として岡山県を、それと対照的に国費救済率の低い養蚕地帯の例として山梨県を、さらに水田単作地帯の例として秋田県を順次取り上げ、一般窮民救済と社会経済状況の関係を分析していく。

 まず、岡山県については、商品経済化の進展によって幕末から本家分家関係や隣保扶助関係の弱体化が進み、とくに松方デフレ期には村落共同体を支える在村地主層までが没落するとともに木綿・畳表などの副業が凋落したため、地域内部では救済する力がますます乏しくなったこと、他方での岡山協力救貧院に代表される新しい民間救済システムもまだ弱体であったため、国費救済に依存する度合いが高まったことを指摘する。

 ついで、山梨県については、養蚕製糸業を軸として幕末から商品経済化が急速に進み、明治前期においても経済発展が続いていること、農民層の分解が進みつつも在村地主層が存続して親分子分関係を形造るとともに、親戚や五人組(伍組)といった形での旧来の救済システムも根強く存続していたこと、新しい民間救済事業は発展しなかったが、旧来の隣保扶助を町村が援助したために国費救済への依存度が低くなったことを指摘する。

 さいごに、秋山県については、旧来の本家分家関係がそのまま存続して窮民救済に当たるとともに、大地主・商人による窮民救済組織としての感恩講が江戸時代から各地に組織され、講所有地の収穫米によって救済活動をしており、明治前期には組織数が増加していること、それら親戚や感恩講の活動が国費救済を抑制していたことを指摘する。

 以上の地域別検討を通じて、著者は、農村部における救済は、基本的にはそれぞれの地域における隣保扶助を中心とした古い救済システムに則って行われ、県などの行政機関はその動きを援助することはあっても自ら積極的に救済組織を創設する動きはなく、ましてや中央政府による「官治主義的救済」(池田敬正)が地域独自の救済を抑圧するという事態は全く見られなかったこと、中央政府による国費救済は、地域独自の救済を前提とするものであり、両者は共存関係にあったことを結論として述べている。

 第2章「都市の恤救政策とその社会経済的背景-東京・京都を中心に-」において、著者は、最初に、明治前期の都市部の恤救政策の研究が史料・統計の不足のために農村部の場合に比べてはなはだ困難であることを述べ、本論文においても三都のうち大阪は残存する行政文書が皆無に等しいため検討対象を東京と京都に限定せざるをえなかったことを断った上で、東京と京都の区部=市部における国費救済率を比較し、恤救規則による救済率も官費による棄児救済率も、東京の方が数倍高く、とくに東京の官費棄児救済率は全国平均すら上回っていることを明らかにする。

 東京については、まず、明治初年に江戸時代以来の町会所の資金によって設立された救育所が資金難から閉鎖され、町会所も積金を払う地主達の苦境から1872年に閉鎖された後、新たに設立された営繕会議所(後の東京会議所)では窮民救済に無関心な政商が力をもっていたため、東京における救済の主たる担い手は次第に町方ではなくなり、東京府などの行政機関に変わっていったことを指摘し、その実態を養育院と癲狂院への窮民の収容や施療費の支出について分析する。ついで、国費救済者数の時期別変化を追い、松方デフレ期に低位安定し、その後の米価騰貴にさいして激増している点で、農村部とは対照的であることを指摘するとともに、養育院入院希望者の個別データの検討を通じて、一般窮民の多くが著名な貧民窟とその周辺に居住していること、地主の援助を受けていたものは例外的であり、住民の移動の激しい東京では地主と店借との関係は希薄であったことを指摘する。さらに、東京府が周旋人に手数料を払って棄児を民間の里親に委ねた個別データを検討し、里親に芝区・浅草区の芸人が多かったことを明らかにするとともに、そうした府による棄児救済にも限界があったため、もともと棄児の多い東京においては国費による救済率が全国平均を上回ることになったのであろうと述べる。さいごに、個人・有志による慈善事業が、東京においては余り多くなく、中には東京慈恵医院のように有志の組織から皇室・上流婦人らの組織に変わった場合もあることを指摘する。

 京都については、まず、1878-79年の区部の恤救名簿の分析を通じて、国費救済者が市部周辺のスラムに多く発生していたことを明らかにし、その一部の戸籍を検討することによって、そうした地域の家族には生産年齢人口が少ないことを指摘する。ついで、京都府が1872年に設立した窮民授産所が勧業政策の一端を担って次第に採算面で独立しつつ一般窮民の救済に努めたが、83年に府の勧業政策が転換したため民間に払い下げられ、代わって区が白米安売などの形で貧民救済に乗り出すとともに、宗教者や商人などによる民間慈善事業が多数設立され、貧窮民の救済に当ったことを明らかにする。さらに、これらの慈善事業が対象としなかった棄児の救済については、町における古くからの捨子養子制度が存続しており、捨子は町の負担で他の町の者に養子に出されていたと述べている。このように京都においては、町単位の自治が存続して他者を排除しつつ、隣保扶助を通じて国費救済者の発生を抑制していたと指摘する。

 東京と京都についての以上の検討を通じて、著者は、両者の共通点として、府をはじめとする行政機関が主体的に救済に乗り出していたことと、近代的な救済システムとしての慈善事業が見られたことを挙げ、それらが貧民窟なとの隣保扶助の足りない部分を補っていたと指摘する。と同時に、そうした行政の動きを中央政府による「官治主義的救済」とみなすことは誤りであり、府の独自の判断が働いていたことを強調する。

 終章「明治前期日本における公的扶助の実態-農村と都市を通して-」においては、著者は、以上の分析を総括して、当時の一般窮民の救済の在り方は、各地域の社会経済状況に大きく規定されており、農村・都市を問わず、「官治主義的救済」(あるいは「天皇制的慈恵」)が地域独自の救済を抑圧することはなかったと主張する。そして、地方の社会経済状況によって恤救政策の在り方が規定されるのは、1874年の恤救規則には窮民救助が国や地方公共団体の義務として規定されてないためでもあり、その意味では1890年(明治23)の第一議会に恤救規則改正案として提出された、国等の救助義務を認める窮民救助法案が、多数の反対で潰されたことが留意されるべきだと述べる。こうして、日本の公的扶助は、1932年(昭和7)施行の救護法まで救助義務が伴わず、最小限の財政支出に抑えられ続けたのであり、そのツケは、家族や親戚、隣保、地方公共団体がその時々の社会経済状況に対応しつつ支払っていた、と結論している。

 以上の内容紹介から窺えるように、本論文の最大の特徴は、国費による一般窮民の救済にみられる地域差を地方官の恣意に求めていた従来の研究の欠陥を鋭く突いて、地域差の背後に地域内部の救済力の差があり、それは地域の社会経済状況と密接な関連があることを実証せんとしたことにある。国費救済と公費救済と私的救済の関連を問うという新たな分析方法を導入したことにより、本論文は、日本社会福祉史の研究を制度史的水準から本格的な実証研究の水準へと引き上げる道を開いたといっても過言ではなかろう。

 実証にさいして、著者は、各府県の行政文書をはじめとする根本史料を博捜し、国費救済が具体的にどのような手続きにより如何なる一般窮民に対して実施されたかを個別具体的に明らかにした。さらに、明治前期という激しく変動する時期の各府県の社会経済状況についても可能な限り基本的な史料に依拠しつつ分析を試みており、地域差に関する著者の主張を説得力のあるものとしている。

 しかしながら、本論文は、論旨展開の明晰さという点で未熟な部分を残すとともに、様々な問題点を含んでいることも指摘しなければならない。例えば、著者は「官治主義的救済」という把握を繰り返し批判するが、当時の府県知事は官選であることを考えると、著者の述べる府県の独自な活動も一種の「官治」ではないかという疑問が依然として残るのであり、中央政府と府県との救済政策上の関係がいま少し立ち入って分析される必要があろう。著者は、1890年の窮民救助法案を、国等の救助義務を認めた法案として高く評価しているが、議会での政府委員の説明による限り必ずしも救助義務を認めたとは言えないのであり、そうした政策基調の検討も十分とは言い難い。また、本論文では一般窮民の救済システムに関する分析は詳しいが、一般窮民の出現という論点については「歴史貫通的」なものとしての理解に止まっており、地域によって一般窮民それ自体の密度がどう違うのか、生産方法や家族形態あるいは社会制度の変化が一般窮民の析出の仕方をどう規定するのかという問題は扱われていない。さらに、副題に「農村と都市の観点から」と記しているにもかかわらず、都市についての分析が東京と京都に限られており、農村部の分析にさいして地方都市の固有の問題が無視されているのも物足りないといえよう。

 このように、本論文は幾つかの問題点を含むとはいえ、日本社会福祉史と社会経済史研究の新たな領域の開拓を試みることを通して、本論文の著者が自立した研究者としての能力を有するに至ったことは明らかであり、審査委員会は全員一致で本論文の著者が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論に達した。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/53892