学位論文要旨



No 111550
著者(漢字) 中嶋,毅
著者(英字)
著者(カナ) ナカシマ,タケシ
標題(和) ロシア・テクノクラートとソヴィエト権力 : ソ連における技術と政治 1917-1929
標題(洋)
報告番号 111550
報告番号 甲11550
学位授与日 1995.12.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第66号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中井,和夫
 東京大学 教授 和田,春樹
 東京大学 教授 塩川,伸明
 東京大学 教授 草光,俊雄
 東京大学 教授 柴,宜弘
内容要旨

 本論文は、1917年のロシア革命から1929-1930年のいわゆる「スターリン政治体制」形成期に至る時期の、ソヴィエト権力とロシア技術者集団との関係の変遷を分析すること、それを通じてソヴィエト・ロシアの工業化の方法ないし原理の変容過程を考察すること、を主要な課題としている。本論文が対象とする技術者集団は、政治的には体制が依拠するイデオロギーとは異質な要素と認識されたにもかかわらず、それが政治体制の維持・発展にとって不可欠の存在であったために、「労働者国家」を標榜する国家の重要な構成要素となった。したがって、「ブルジョワ専門家」と呼ばれたこの集団に対する体制の対応を考察することは、政治革命後のロシアの社会構造の変化を分析する上で重要な課題を構成すると考えられる。従来のソ連の工業化過程の研究が主として経済政策や計画作成問題および労働者階級に関心を向けてきたのに対して、本論文がその考察対象を技術者集団に求めるのは、工業化の実践過程を担った技術者集団と政治体制との関係および技術者集団にかかわる諸問題を分析することを通じて、工業化過程におけるソ連社会の変容を新たな視角からとらえ直すことが可能になると考えるからである。

 以上のような問題意識に立って、本論文は、知識社会学・職業社会学の理論を歴史分析に批判的に援用しながら、ロシア技術者集団の組織化・凝集性・特有の思考様式という点にとくに着目して、技術者集団と革命後の国家体制との相互関係の変容過程を考察している。この作業を通じて本論文は、ネップからスターリン体制形成期にかけての社会集団の変容と工業化の方法的転換との関連を解明しようと試みている。

 本論文は、ほぼ時系列に沿った四つの章と序章および終章から構成されている。

 第1章「ロシア革命と技術者集団」は、革命前のロシア技術者がすでにほかの社会集団から区別しうる独自の社会集団を形成しており、1917年のロシア革命に際してもこの集団が曲折を経ながらも凝集性を保持して存続していった過程を明らかにしている。ボリシェヴィキ権力が依拠するに足る技術者・専門家の絶対的不足という状況の中で、国家建設とりわけ経済復興の課題を遂行しなければならなかった体制は、専門家の政治的信頼度という問題をひとまず棚上げにして彼らの組織的統合を推進し、それと同時に経済的刺激を活用しながら、専門家の知識と経験を社会主義建設に積極的に利用しようと試みた。こうした政策的対応の結果、技術者・専門家の量的な統合は年を追うごとに進展し、政策上は「ブルジョワ専門家」と呼ばれた人々の利用が促進されていった。しかし専門家が実際に働く労働環境においては、政治指導者が意図した結果が必ずしももたらされていたわけではなかった。政治指導者のあいだでさえも、「ブルジョワ専門家」に対する態度は微妙な相違を呈していたのである。

 第2章「新経済政策と技術者集団の再編」では、ネップの導入による「階級対立」路線の緩和にともなって技術者の独自の社会団体が体制の公認をえたこと、当時の技術者集団がネップ期ソ連社会において特有の集団構造を有し、また独自の理念によってこの集団が支えられていたこと、が示される。技術者集団は労働組合組織によって徐々に統合されていったと同時にその中で技術者独自の組織を形成することに成功し、体制の中で集団的利益を表出する公的な回路を確保した。のみならずネップの導入にともなう「階級協調」的政治気象の下で、技術者集団は、体制から相対的自立性を保った社会団体を再編することが可能となった。体制による技術者集団の統合的側面と、体制からの独自性を強調する技術者集団の自立的側面という、両立が必ずしも容易ではなかったこの二つの側面は、経済建設とりわけ技術的基礎に立脚した工業化の追求という共通の志向の上に、一定の調和を保つことができた。技術者集団は、政治体制の劇的な転換にもかかわらず、工業化の推進という新たな体制との共通目標を見いだすことによって、社会主義権力の下で徐々に適応していくことができたのである。

 第3章「工業化の進展と技術者集団の対応」では、次第に工業化が本格化する中で技術者をとりまく環境が徐々に変化の兆しを見せはじめ、独自の社会集団としての技術者集団がおかれた立場がその変化に影響を受けたことが叙述される。生産現場においては、労働者と技術人員とのあいだには、「専門家排斥」という特徴的な現象が一貫して存在していた。1920年代の生産現場における技術者に関する資料は、専門家排斥を警告したおびただしい記述を残している。これらの記述は、とりわけ1920年代中葉以降、工業建設が新たな局面を迎えるとともに、この問題が深刻化していったことを物語っている。このことは、技術人員と経営機関とくに企業長との相互関係についてもあてはまる。たしかに企業経営を円滑に進めていくためには両者のあいだに一定の協働関係の存在は不可欠であり、この意味では少なくとも表面的には、両者の関係は「調和的に機能」していたとみることができるかもしれない。しかしこの技術人員と経営機関との関係は、企業および経営機関のおかれた状況に左右されやすい、極めて流動的なものであった。労働者からの専門家排斥と同様、1920年代中葉以降、技術人員と経営機関との関係は常に緊張をはらんだものとなった。ネップの下での「階級協調」的政策が様々な局面で次第に隘路を迎えるにつれて、政治気象の微妙な変化が体制と技術者集団の調和を支えていた土台を揺さぶるようになった。変化の要素は技術者集団のあいだにも少しずつ浸透しつつあったが、1927年頃まではこの傾向は一部の突出的な表現という段階を越えるものではなかった。

 第4章「転換」は、1928年にはじまる政治状況の転換にともなって対専門家政策が事実上変化を遂げたこと、この変化が生産秩序に大きな混乱をもたらしたこと、政治体制の質的転換が技術者集団の構造転換をもたらすと同時に工業化方法の質的転換をもたらしたこと、を明らかにする。ドンバスの技術者が「反革命妨害活動」をおこなったとして摘発された1928年の「シャフトゥイ事件」は、「ブルジョワ専門家」の運命にとって決定的な意味を持つことになった。事件を契機として、専門家排斥は爆発的に拡大した。経営機関は専門家の活動に常に介入し、司法機関は専門家の活動を調査し、彼らを逮捕した。これらの諸事象は、残された無数の断片的資料からうかがい知ることができる。1920年代後半にあらわれた工業化の新たな課題とそれへの政策的対応は、生産現場における専門家をとりまく諸関係を急速に尖鋭化させていたが、シャフトゥイ事件は結果的にみて、かかる諸矛盾を一挙に噴出させる契機となったと考えられる。さらに重要なことは、シャフトゥイ事件以後、専門家の仕事における様々な失敗のみならず生産の不調や生産計画不履行が「意図的な妨害活動」として糾弾されるようになったことである。専門家の政治的立場が問題視され、彼らの政治的中立性は厳しい批判にさらされるようになった。これは対専門家政策が事実上転換したことを示す兆候であった。技術者集団と体制とのあいだの調和を支えていた、技術的基礎に立脚した経済計画路線は、技術合理性を無視した「工業化のテンポ」の追求と大衆動員に基づいた新たな工業化戦略にとって代わられた。それと同時に体制は、政治的忠誠すなわち「党派性」を専門家に要求し、体制にとって「閉鎖性」ととらえられた専門家の相対的自立性を打破して、体制による一元的統制の下に専門家を統合し直す方向へと大きく踏み込んでいったのである。この点でシャフトゥイ事件は、専門家をとりまく環境に新たな局面を開くものであったと評価できる。

 終章では本論文の叙述全体を総括してえられる結論を提示するとともに、若干の歴史的展望を考察することを試みている。本論文の叙述全体からえられる第一の結論は、1920年代後半までの時期においては専門家集団とりわけ技師集団は、人的構成はもとより社会的行動様式、科学技術に対する独自の思想といった多くの側面において、革命前の社会と極めて強い連続性を示していたということである。第二に、技術者集団に構造転換が生じたのが、1928年のシャフトゥイ事件以降にはじまり「産業党」裁判に至る、この社会集団をとりまく環境の劇的な変化の時期であり、その構造転換は社会集団の内的展開過程によるものではなく外在的要因によって強制されたものであった、という結論がえられる。第三の結論として、このような技術者集団の内部構造の転換と1920年代末の工業化路線の質的変化とが密接な連関を有していた、と指摘することができる。以上の結論をふまえて本論文は、次のような歴史的展望を仮説的に提示した。すなわち、この「上からの革命」期に「抑圧がビルトインされた政策遂行過程」を経験したことは、後の時代のいわゆる「行政命令システム」の形成に大きな影響を及ぼしたのではないかと推測される。さらにこの時期の経験が技術者集団に与えた影響は、とくに彼らの行動規範という面では無視しえないものであった。技術者に対する抑圧の傾向は、体制が遂行する工業化に対する技術者の批判的思考を停止させることになり、その結果、上からの指令に無批判に順応する新たな行動様式をもたらしたと考えることができる。

審査要旨

 中嶋毅氏の論文「ロシア・テクノクラートとソヴィエト権力 -ソ連における技術と政治 1917-1929-」は、ソヴィエト期ロシアにおける権力と技術者集団の関係の変遷を実証的に綿密に考察したものである。

 論文は注及び文献目録を含めて340ページ(400字詰め原稿用紙換算で約1015枚)の膨大な大作である。

 ロシア革命後のソ連社会の研究においては、これまでどちらかと言えば農業集団化につながる農民・農村社会の変貌の研究が主流であり、工業化の過程の研究にあっても経済政策史あるいは労働者階級の分析が主流であった。本論文が主要な対象とする技術者集団はこれまでの研究史では比較的看過されてきたグループである。しかし、技術者集団がソ連の工業化のプロセスで果たした役割は決して小さなものではなく、また技術者集団とソヴィエト権力の関係そのものが工業化路線の性格をも規定したことは否定できない。技術者集団は特権的ブルジョア階級と見なされていたためソヴィエト権力からは異質なグループと考えられていたが、同時にソヴィエト権力が推進しようとする工業化にとってなくてはならないグループでもあったため国家による取り込みの対象となった。そのような独特な集団の構造及び集団と権力の関係を分析することは、革命後ソ連社会の特質を検討する上で貴重なモデルを提供することになるのである。そしてそれはソ連の工業化の特質を明らかにすることに資するばかりでなく、工業化プロセス一般における技術者の役割という普遍的意義をもつ問題に対する新しい光をあてるものである。本論文においては、ロシアの文書館のアルヒーフ資料も利用しながら、技術者組織の機関誌、当時の党、政府の機関紙、地方紙など当時の原資料を緻密に読み、分析を加え、行論を支えていくというオーソドクスかつ実証的方法が取られている。論文の分析叙述は以下のようにほぼ時系列にそって進められている。

 まず、第1章「ロシア革命と技術者集団」では、技術者集団の特徴を革命前から叙述し、すでに革命前からこの集団が他の集団とは異なる特質を持っていたことを明らかにし、その特質が革命を経ても基本的に保持されたことをさまざまな事例をあげつつ説得的に分析した。革命後のソヴィエト政権は、経済再建のために必要な技術者集団に対して、経済的優遇策を取りつつ組織的統合を促進し、社会主義建設のために体制への統合策をとった。技術者数の絶対的不足という状況の中で、社会主義国家建設のためにイデオロギー的には相容れない「ブルジョア専門家」の積極的利用が図られた背景が本章で叙述されている。

 この第1章において革命前の帝政ロシア時代における技術者集団に関する記述は、技術者集団の特質と凝集性の革命前と革命後における連続性、持続性を示すためのものではあるが、革命前の技術者集団というこれまで殆ど研究されてこなかった分野に対する貴重な貢献であるという高い評価を複数の審査委員から得た。

 第2章「新経済政策と技術者集団の再編」は新経済政策(ネップ)期に入ってからの技術者集団の組織的問題を扱う。ここではネップの導入による階級協調的雰囲気の中で、技術者の独自の団体組織が体制の公認を受けたこと、技術者集団が当時のソ連社会において特有の集団的構造と理念を保持していたことが示された。技術者集団は一方で労働組合に組み込まれながらも、その中で産業別ではない技術者独自の組織を形成することに成功し、ソヴィエト体制の中で技術者としての集団的利益をそれによって表出させることができた。さらに技術者集団はそのような独自の社会集団を形成することによってソヴィエト体制そのものから相対的に自立的な性格を維持することにも成功した。体制側からする技術者集団の体制への組み込み、統合と、体制からの技術者集団の自立という二つの相反する様相が、ネップ期には一定の緊張をはらみながらも併存していた。それは技術者集団が一定の自立性を維持しながらも、技術者のもっている本来的性格、すなわち政治体制の如何にかかわらず技術者集団は、工業と技術の進展に努力するという本性が、ソヴィエト権力の工業化推進という目標と合致し、「政治的中立」のもとでの社会主義政権との協力が可能となったからである。

 このネップ期の技術者集団の組織の再編過程での議論を丹念に追うことによって、この時期の技術者集団の意識とソヴィエト権力の対応が明瞭に分析されているのが本章である。

 第3章「工業化の進展と技術者集団の対応」は1920年代半ば以降の時期を扱う。ここでは工業化の進展の中で、技術者がおかれていた環境が次第に変化していったこと、特に独自の社会集団としての技術者集団の意識と立場がその環境の変化に影響を受けていったことが分析叙述されている。工場などの生産現場では、労働者と技術者とのあいだにすでに1920年代当初から緊張があり、「専門家排斥」という現象がみられていたが、1920年代中葉以降、工業化が本格化するなかで、この問題がより深刻化していったことが資料から見て取れる。しかも技術者は生産現場における労働者との軋轢だけでなく、経営機関、工場長などとの関係においても緊張を強いられていた。技術者と経営機関との関係は企業の置かれた状況に左右される流動的なものであり、工業化の進展とネップの行き詰まりという政治経済状況の変化のなかで必ずしも調和的でなくなっていった。こうして技術者は生産現場で下からは労働者による排斥、上からは経営機関との軋轢という挟み撃ち状態におちいっていくことになるのである。工業化の本格的な進展の開始とともに、階級融和的な政策であるネップがさまざまな局面で隘路にぶつかり、行き詰まっていく中で政治的な雰囲気にも微妙な変化が生じ、技術者集団とソヴィエト権力の調和的関係にも変化が生じたことを本章は詳細に分析叙述した。

 第4章「転換」は1928年の「シャフトィ事件」を中心に技術者に対する政策転換を扱っている。ドンバスの技術者が「反革命妨害活動」をおこなったとして摘発された1928年の「シャフトィ事件」は、「ブルジョワ専門家」としての技術者の運命にとって決定的な意味をもつ事件だった。これをきっかけに専門家排斥は爆発的に拡大した。労働者は生産現場で技術者を攻撃し、経営機関は技術者の活動に介入し、司法機関は技術者の活動を調査し、彼らを逮捕した。1920年代半ば以降にあらわれた工業化の新たな課題とそれへの政策的対応は、生産現場における技術者をとりまく関係を急速に変化させ先鋭化させていたが、シャフトィ事件は結果的に見てそれらの矛盾を一挙に噴出させる契機となった。そしてこの事件の後、技術者の業務上の失敗や生産の不調、計画未達成などが、「意図的な妨害活動」として糾弾されるようになったのである。技術者の政治的立場があらためて問題視され、彼らの政治的中立は厳しく批判されるようになる。これは対技術者政策の転換を示すものである。技術者集団とソヴィエト政権との協力の背景にあった、技術的基礎に立脚した合理的経済発展路線は、技術的合理性を無視した「工業化の高いテンポ」の追求と大衆動員に基づいた新たな工業化戦略にとって代わられた。ソヴィエト政権は技術者に対し、政治的中立ではなく政治的忠誠を要求し、技術者集団の相対的自立性を打破し、体制による一元的統制の下に技術者を統合し直す方向へと大きく踏み込んでいったのである。

 このように本章は、1928年にはじまる政治状況の転換にともなって対技術者政策が本質的に変化を遂げたこと、この変化が生産現場に大きな変化をもたらしたこと、政治体制の質的転換が技術者集団の構造転換をもたらすと同時に工業化方法の質的転換をもたらしたこと、を明らかにした。

 終章は本論文の結論部分である。第一の結論は、革命後の技術者集団はその構成、行動様式、理念といった多くの側面において、革命前の時代ときわめて強い連続性を示していたということである。第二に、技術者集団に構造転換が生じたのが、1928年のシャフトィ事件以降の集団をとりまく環境の激変期であり、その構造変換は集団の内的変化によるものではなく外在的要因によって強制されたものだったということである。第三の結論として、このような技術者集団の構造転換と1920年代末の工業化路線の質的変化とが密接な連関をもっていた、ということである。このような結論を踏まえて、本章は次のような歴史的展望を提示している。この技術者集団に対する政策転換が後の時代のいわゆる「行政命令システム」の形成に影響を与えた、ということ、さらに後の時代の技術者の行動規範、すなわち体制の指令に対して無批判的に従う行動様式へと移行するのに影響したと考えることができる、というのが1930年代以降を見た結論となっている。

 以上のような内容を持つ本論文は、1917年のロシア革命からスターリン体制成立前までの、ソ連社会における技術者集団の特質と役割、そして工業化のプロセスの中でのその集団に対するソヴィエト権力の政策について綿密にあとづけた力作であり、重要な業績である。技術者集団研究はあまり蓄積がなく、本論文は世界的に見ても先駆的業績と言えるが、行論の裏付けとなる資料についても質量ともに申し分なく、吟味も行き届いている。方法は禁欲的とも言えるほど実証に徹し、従来では指摘されえなかった興味深い発見も数少なくない。ソ連史研究の新たな業績として内外に高く評価されることは間違いない成果と評価できる。

 すぐれた研究であるが、いくつか問題点も指摘された。「テクノクラート」、「技術者」、「技師」、「専門家」といった語句の使い分けと区別が鮮明でないという叙述の問題の指摘があった。さらにロシアの技術者たちが、他の工業国家と較べどのような独自性、類似性があったのか、もう少し比較史的叙述があれば、ロシア史以外の研究者にも親切であったと思われる。また技術者が生産現場で具体的にどのような仕事をし生活をしていたのか、という技術者の具体的・日常的相貌が描かれていない、という不満も提起された。社会史的研究をめざしていないので組織構成や組織をめぐる議論が中心となったのはやむを得ない面もあるが、技術者の具体像が浮かんでこないと言う難点があった。技術者集団の内部的変化について叙述すべきではないか、との批判も出された。さらに終章の結論部分に展望を書き込むのは不適切ではないかとの疑問も出された。以上、改善すべきところもいくつか残されているが、全体としてはレベルの高い研究としての評価で一致した。

 よって、審査委員会は全員一致で、本論文が博士(学術)の学位にふさわしい業績であると判定した。

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