この論文は、日本社会における近代化の過程を、移動と帰属という角度からとらえ直すことを目的とする。その最初のステップとして、この問題に関して従来広く受け入れられてきたある仮説(これを移動と帰属に関する近代化仮説と呼ぶ)をとりあげ、その説明力を検討する。近代化仮説とは、この歴史的に連続する社会を前近代社会と近代社会という二つのものの質的な対比によってとらえるもので、前者から後者への転換を移動や帰属の社会全域的で事実的な変化によって説明しようとする点に特徴をもつ。神島二郎[1961]、鈴木栄太郎[1957]らが、その代表的な論者である。 論文では、この仮説が成員の了解という契機を十分に考慮していないことを問題とする。了解とは、社会の成員自身が具体的な移動や帰属を行う際に、その大前提とされる解釈図式のことであり、Schutzのいう有意性(relevance)の体系のように、秩序だった世界観として構成されているものである。移動や帰属という現象は、その当事者や居合わせる他の成員たちが移動や帰属に関するこの意味での了解を、どのような形で抱いているかに依存して、成り立っている。故に論文では、移動の事実的側面と了解的側面(移動の見え方)とを区別し、さらにこのそれぞれを幾つかに区別する。そしてこれら全てを規定している構造的要因に立ち戻ったうえで、変化の重層的な性格や、社会の各所で多様な移動と帰属が行われている実態を、とらえ直すべきことを主張する。 中心的に論じられるのは、明治以降の日本社会における移動と帰属の特性、およびその成立のプロセスである。まず明治以降における特性としては、(1)ある集団に帰属していた個人が別な集団に帰属するようになる過程を、社会移動とみる了解の成立、および(2)社会移動が容易であるという了解の成立、という2点に注目し、同じ日本社会のなかでもそうした特性を欠いていた時期の諸現象と対比させつつ分析を行う。また成立のプロセスについては、とりわけ明治以降における学校教育諸機関の果たした役割を重視しつつ、新しい了解が徐々に普及していく過程をあとづける。 この分析により、近代日本においては社会全域に唯一種類の移動や帰属が普及しているのではなく、社会の局所ごとに多様な移動や帰属が存在していたことが示される。また近代と前近代の違いが、近代化仮説のように事実的なレベルでのみ論じられるのではなく、それと了解のレベルとを包括する視点から論じられるべきであることも明らかとなる。 各章の構成は次のようである。 第1章では、前近代と近代における集団、集団への帰属および集団間移動に関する、従来のとらえかたが紹介される。ここでは近代化仮説の論者として神島や鈴木に加え、川島武宜、大塚久雄、柳田國男、福武直、安田三郎らが挙げられ、そのそれぞれについて、前近代の諸集団が相互に孤立した「自然村」的な概念によってとらえられてきたこと、そして近代への変容とはこの自然村の解体として理解されてきたことが確認される。またこの変容過程は、社会全域における事実的な移動の変化によって引き起こされるもので、それに伴い帰属の性格も、属性主義的な要因に基づくものから業績主義的な要因に基づくものへと、全面的に転換すると理解されてきたことが確認される。 第2章では、近代化仮説のもつ論理的な難点として、移動や帰属という現象の基礎をなす了解という契機が、十分に考慮されていないことが指摘される。また、仮説の問題点を克服しうる、構造論的な新しい分析枠組--法共同体の関係構造モデル--が提案される。関係構造とは、事実的な移動と移動に関する了解とを、ともに規定している構造的要因であり、その規定のしかたによって、およそ3つのタイプに分けられる。なおこの章では、移動、帰属、法共同体、集団といった主要概念の定義や、分析方法の確認も行われる。 第3章〜第5章では、この関係構造の3タイプのモデルを用いて、各時代の集団、移動、帰属の具体的な実態がとらえ直され、それらとの対比で近代における集団、移動、帰属の特質が明らかにされる。 まず第3章では、関係構造の特性と、その形成過程がたどられる。ここでは関係構造が「間にある」(非集団)Cの位相をもつモデル(平安期まで)と、「上にある」(非集団)Cの位相をもつモデル(鎌倉期以降)が対比的に示され、さらにその中でも最も包括的な単位(Cxと表記)が強い集団性をもつようになった社会(「上にある」集団Cxのモデル)として、明治以降の日本社会が位置付けられる。 第4章では、関係構造の変容に伴う移動の変化(およびその前提をなす集団の定義の変化)について論じられる。まず移動に関する了解の変化としては、関係構造の変容によって、中世後期以降、各下位集団間の移動を追跡しうるようになった。また近代には、Cxの集団性が最強となることで、その種の集団間移動は容易とみなされるようになった。他方事実的な移動の変化としては、古代以来一定程度の移動は常に行われてきており、近年では江戸時代後期に移動の量および形態のかなり大きな変化がみられたが、その後はほぼ1930年代後半になるまで、全域的な変化はみられない。なるほど折々に、特定の社会層における局所的な量的変化はみられるものの、形態的な変化は1920年代に至るまで、そして本格的には1930年代の半ば過ぎまで、ほとんど起こっていない。これらのことから、明治以降に始まった変化とは、主に了解面での変化であり、近代化仮説のいうように事実的な移動の全域的な変化ではなかったという主張が導かれる。 第5章では、やはり関係構造の変容と相関する、帰属の性格の変容が論じられる。明治以前においては集団への帰属は、主に属性主義的な要因に基づくものとみなされていたが、明治以降、業績主義的な要因に基づくものとみなされるようになる。だが事実的には、どの時代にも属性主義的な要因による帰属と、業績主義的な要因による帰属とは共存していた。以上のことが、学歴という、明治以降の帰属において重要な役割をもつようになった要因の性格分析を通じて示される。そしてこの分析により、帰属の性格に関しても、明治以降に起こっていたのは専ら了解の変化で、事実的な変化ではないことが確認される。 第6章は、前章までの議論を総括する章である。ここでは、明治以降における変化や、そこに成立してきた移動や帰属の特性をいかにとらえるべきかが論じられる。近代化仮説においては、明治初頭は移動や帰属に、全域的で事実的な変化が始まった時期とされた。しかし3〜5章の分析によれば、明治初頭は移動においても帰属においても、主に了解面での変化の開始点である。しかもこの変化は、各社会層ごとに時期をずらしつつ、常に局所的な変化として生じてきたのである。また仮説では、明治政府の諸立法や諸改革は、事実的な移動を解放し、帰属における個々人の選択可能性を高める直接的なきっかけであったと理解される。だが我々の分析によれば、それらの諸立法・諸改革は、人々に集団Cxが存在するという了解を抱かせる上での契機であった。この経験が人々の間に、移動が可能であるという了解や、個々人の選択に基づく帰属が可能であるという了解を育み、さらにこれらの了解に基づく様々なふるまいをも、生み出してきたのである。例えば現在の日本社会に、学歴主義の信憑等が根強く存在し、学歴獲得競争が行われ続けているのも、かつて移動の可能性を人々に気づかせる際に重要な役割を果たしたのが、学校教育諸機関と、その卒業資格である学歴であったことの、一つの結果とみるべきである。 このように、明治以降の日本社会における移動や帰属という現象は、了解という観点をはずしては論じることができない。この社会の移動と帰属の複合的な様相は、従来は見落とされてきた移動の見え方の変化、そしてまた帰属に関する了解の変化という側面に、改めて光を当てることによって初めて、とらえかえすことができるのである。 さらにこのことは、日本社会の近代化の過程をみるにあたり、事実と了解とを区別した分析枠組が不可欠であることを示している。仮にも「近代化」を論じる以上、前近代と近代とは何らかのメルクマールによって、質的に区分されなければならない。しかしそれは、移動や帰属の事実的な面のみに関してではなく、移動や帰属に関する了解のレベルを考慮するかたちで、なされなければならないのである。 なお付論として、以上のような実態にも拘わらず近代化仮説のような理解が生まれた背景について、一つの解釈が示される。それは仮説の論者たちが、仮説の成立に先立つ1936〜65年の時期に、了解の変化と事実的な変化とを不可分のものとして経験したからだ、というものである。また前近代社会を移動のない社会と仮定させた一つの重要な要因として、やはり1936〜65年の移動や帰属の経験が、前近代の日本社会に関して「自然村」的な孤立した村落の散在するイメージを抱かせるような、変質した農村を現れさせたことも、指摘される。また仮説で明治初頭が転換点とみなされたことについては、移動の見え方の変わり始めた明治初頭という時期が、二種の移動を区別する習慣をもたない論者たちには、事実的な移動に関する転換期にもみえてしまったのではないかという、解釈が示される。 |