学位論文要旨



No 111562
著者(漢字) 古島,靖夫
著者(英字)
著者(カナ) フルシマ,ヤスオ
標題(和) 相模湾奥部の循環流・海水交換・水質の変動とそれらに対する黒潮変動の影響
標題(洋)
報告番号 111562
報告番号 甲11562
学位授与日 1996.02.05
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1625号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 杉本,隆成
 東京大学 教授 清水,誠
 東京大学 教授 松宮,義晴
 東京大学 助教授 青木,一郎
 東京大学 助教授 中田,英昭
内容要旨

 わが国の太平洋岸には、相模湾や駿河湾の他に豊後水道、土佐湾、紀伊水道などの開放型の湾が並んでいる。これらの湾の海水循環は、沖合を流れる黒潮の離接岸に伴う黒潮系水の流入の影響が強く海水交換がよいと考えられている。そのため、水質に対する大きな懸念はなかった。しかし、相模湾奥部の表層では、1980年代に入り、海水の有機物の指標であるCOD濃度が1.5ppm程度となり、1970年代に比べ1.5〜2倍に増加した。このような水質の悪化に伴い、沿岸域では赤潮やクラゲの大発生が見られるようになり、沿岸漁業にも影響が出ている。相模湾奥部の上層の水質は、主に、隣接する東京湾から流入する東京湾系水や相模川・酒匂川など相模湾に流入する河川水による負荷、湾内の上層における内部生産、沖合水との海水交換および下層水との混合によって規定されていると考えられる。中でも、大島西水道、東水道からの黒潮系水の流入に伴う湾内の循環流の変動と海水交換は、相模湾奥部の水質に対しても影響が大きく、その変動機構を解明することは重要な課題である。

 そこで本研究では、1980年代における水質悪化の原因解明に焦点を絞って、現場観測により相模湾奥部の循環流の変動特性を調べ、既往資料の統計的解析により相模湾に直接流入する有機物負荷量と沿岸域への影響の特性を明らかにした。さらに、塩分収支のボックスモデル解析により、東京湾系水の相模湾奥部への流入流量を見積り、その黒潮流路型による差異を定量的に明らかにするとともに、開放型沿岸域の海水交換や水質の長期変動特性について考察した。

 得られた研究成果の大要は以下の通りである。

1.相模湾奥部の水平循環流の短期変動特性

 相模湾奥部における水平循環流の構造と変動特性を明らかにするため、1992年5月から約1年間、三崎西沖と真鶴東沖の2地点で係留系による測流を行い、これと水温・塩分分布構造の観測、および潮位資料の解析により、以下のことを明らかにした。

 1)黒潮流路が、熊野灘・遠州灘沖で大蛇行するさいは、伊豆半島沖で著しく接岸し、大島西水道からの黒潮分枝流の流入が強まり、相模湾奥部では左旋環流が発達することが知られている。しかし、黒潮の非大蛇行期には左旋環流は卓越せず、弱い左旋流、弱い右旋流、三崎沖と真鶴沖の両地点でともに流入または流出する4つの型が同程度の頻度で生じる。それらの型の持続期間は、2〜10日と短い。

 2)係留系で得られた流速のエネルギー・スペクトルには、3日、10日、20日前後にピークが見られる。これらの周期は、黒潮前線域の擾乱(Kimura et al.、1993)や、相模湾南部の黒潮分枝流域の流速変動(秋、1992)の周期とほぼ一致することから、相模湾奥部の循環は黒潮前線波動および分枝流の変動と連動している可能性が強い。

 3)大島と南伊豆、大島と布良の日平均潮位差に地衡流を仮定して推測される黒潮系沖合水の通過流は、黒潮の非大蛇行期には東向きの場合と西向きの場合の両方が見られるが、湾内の4循環型の出現頻度には影響しない。

2.相模湾奥部に流入する河川からの有機物とN・P負荷量の変遷

 相模湾奥部に流入する河川水の水質と負荷量の変動および、沿岸域の水質と河川からの負荷との関係を既往資料を用いて分析し、以下のことを明らかにした。

 1)相模湾奥部に流入する大規模河川(相模川と酒匂川)の有機物濃度(BOD)は、下水処理場の設置後は低下したが、中規模河川(境川、花水川など)の濃度はほとんど減少せず、大規模河川に比べて10倍程度の高濃度で推移し、中小河川による有機物の総負荷量は大規模河川より大きい。

 2)大規模河川を経由するか下水処理場から沿岸域に流入する無機態の窒素とリンの濃度・負荷量は、1980年代には1970年代に比べて1.4〜2倍程度増加し、海域での内部生産による有機物の増加が推測される。

 3)相模湾奥部における水質変動は、湾中央部を境にして、東京湾系水の影響の強い東側と相模湾に流入する河川系水の影響の強い西側とで特性を異にする。

3.相模湾奥部への東京湾系水の流入

 相模湾奥部への東京湾系水の流入パターンと黒潮流路型の関係、風および東京湾内への流入河川流量との関係について検討し、以下のことを明らかにした。

 1)黒潮大蛇行期には、大島西水道から東水道に抜ける黒潮分枝流が強まり、相模湾奥部に左旋環流が発達し、東京湾系水の湾外とくに相模湾奥部への張り出しが抑えられる。このため、相模湾内の水質は非大蛇行期に比べ良好になる。一方、黒潮非大蛇行期の夏季には、相模湾東部沿岸域への東京湾系水の張り出しが明瞭に観測され、同時に相模湾奥部のCOD濃度も上昇する。

 2)月単位の観測から見た東京湾系水の相模湾への張り出しは、東京湾に流入する月単位の河川流量とはよく対応するが、短期変動の影響が大きいと考えられる風との間にはよい対応性は見られない。

4.相模湾奥部の海水交換と水質に及ぼす黒潮分枝流の変動の影響

 夏季における相模湾奥部の循環パターンと海水交換、および東京湾系水の相模湾奥部への流入量をボックスモデルを用いて見積り、以下のことを明らかにした。

 1)季節平均程度の時間スケールで見た相模湾奥部における夏季の表層循環は、黒潮の非大蛇行期・大蛇行期とも左旋環流を示すが、平均速度は大蛇行期の10cm/s程度に比べて非大蛇行期は1cm/s程度と一桁小さい。

 2)東京湾系水の相模湾奥部への淡水流入量は、黒潮大蛇行期に比べて非大蛇行期に多く、非大蛇行期における流入量は、相模湾に流入する河川流量が多い年にはその数分の1程度であるが、河川流量が少ない年にはその数倍になる。また、東京湾系水の流入による相模湾奥部へのCOD負荷量は、非大蛇行期には大蛇行期の約4倍になる。

 3)海水交換時間は、黒潮非大蛇行期が約3〜4週間、大蛇行期が約1週間と見積られ、前者は1992年5月の海洋観測データ等から見積った海水交換時間ともほぼ一致する。これらのことから、1980年代の相模湾奥部の水質の悪化には、黒潮流路の直進化に伴う東京湾系水の相模湾奥部への流入量の増加とともに、相模湾内の海水交換率の低下が影響しているものと考えられる。

 以上のことから、相模湾奥部の海水交換過程とそれに伴う水質変動に関して、以下のことが結論される。1970年代は、相模湾に流入する河川や東京湾で有機汚濁にピークが見られ、相模湾奥部は1980年代に比べて、陸起源負荷による水質悪化が進行しやすい状況にあった。しかし、実際は1980年代の方が1970年代よりも水質が悪化していた。この水質の悪化は、1970年代と1980年代以降の黒潮流路の違いによって引き起こされた。すなわち、1970年代後半(75〜79年)は大蛇行期が約5年間続き、相模湾奥部は黒潮系沖合水の流入による海水交換が活発で、東京湾系水や相模湾沿岸域からの負荷が大きくても水質は低レベルで維持されていた。しかし、1980年代および1990年代前半は、1987年を除き非大蛇行期であったため、相模湾奥部では循環が弱く、沖合水との海水交換も不活発であった。そのため、東京湾系水や相模湾に注ぐ河川系水が湾内に滞留する時間が1970年代に比べて長く、また東京湾系水による相模湾への汚濁負荷も増大したため、相模湾奥部のCOD濃度が約1.5〜2倍程度上昇したと言える。この結論は、相模湾のみならず、黒潮の影響を受ける開放型内湾の水質変動には、黒潮変動に伴う湾内の循環流の変動の影響が重要であることを示唆している。

審査要旨

 地球温暖化などの環境問題に関連して、有機物質の沿岸から外洋への流出量をより正確に見積もる必要がある。また、従来はあまり心配されていなかった開放型の湾でも赤潮やミズクラゲなどの発生が少なからず認められるようになり、有機汚染の機構を解明することが必要である。さらにまた、開放型の湾を産卵場または生育場とする魚類の再生産機構の研究において、湾内外の海水交換の機構および輸送機能を定量的に知ることは、水産資源研究の面から極めて重要な課題である。そこで、本研究は東京湾に隣接する相模湾奥部を対象にして、循環流の変動や海水交換、東京湾系水の拡がりの機構と大きさを、現場観測とボックスモデルによる既往資料解析から明らかにしたものである。

 本研究の成果の概要は以下の通りである。

1.係留系による測流からみた相模湾奥部の水平循環流の変動特性

 黒潮流路が大蛇行するさいは相模湾奥部で左旋環流が発達するが、非大蛇行期には弱い左旋環流、弱い右旋環流、および東西の両岸沖でともに流入または流出する4型が同程度の頻度で生じる。流速の卓越周期は、3日、10日、20日前後にあり、黒潮前線波動および分岐流の変動と連動している可能性が強いことが明らかになった。

2.既往資料分析からみた河川からの有機物およびN・P負荷量の変遷

 流入する大規模河川(相模川と酒匂川)の有機物濃度は下水処理場設置後低下したが、中規模河川の濃度は減少せず、中小河川による有機物の総負荷量は大規模河川より大きい。大規模河川と下水処理場から沿岸域に流入する無機態窒素とリンの濃度・負荷量は、1980年代には1970年代に比べて1.4〜2倍程度増加し、海域での有機物生産の影響が推測された。

3.水温、塩分、COD濃度の分布からみた相模湾への東京湾系水の流出

 黒潮大蛇行期には黒潮分岐流が強まり、相模湾奥部に左旋環流が発達して、東京湾系水の相模湾奥部への張出しが抑えられる。このため、相模湾内の水質は非蛇行期に比べ良好になる。一方、黒潮非蛇行期の夏季は、相模湾東部沿岸域へ東京湾系水が張出し、相模湾奥部のCOD濃度が上昇する。

4.相模湾奥部の海水交換と水質に及ぼす黒潮変動の影響の解析

 ボックスモデルを用いて見積もった相模湾奥部における夏季の表層循環は、黒潮の非大蛇行・大蛇行期とも左旋環流を示すが、平均速度は大蛇行期の10cm/s程度に比べて非蛇行期は一桁小さい。東京湾系水の相模湾奥部への流入量は、黒潮大蛇行期に比べて非大蛇行期に多く、非大蛇行期における淡水流入量は、相模湾に流入する河川流量が多い年にはその数分の1であるが、河川流量が少ない年にはその数倍になる。また、東京湾系水による相模湾奥部へのCOD負荷量は非大蛇行期の約4倍になる。海水交換時間は、黒潮非大蛇行期が3〜4週間、大蛇行期が約1週間である。

 1970年代後半は大蛇行期が約5年間続き、相模湾奥部は黒潮系沖合水の流入による海水交換が活発で、流入負荷が大でも水質は比較的低レベルで維持されていた。しかし、1980年代〜1990年代前半は黒潮が非大蛇行期で相模湾奥部の循環が弱く、沖合との海水交換は不活発の上、東京湾系水の流入による負荷も増大したため、相模湾奥部のCOD濃度が上昇したことが解明された。このように、黒潮の影響を受ける開放型の湾の水質変動には、黒潮変動に伴う湾内の循環流の変動の影響の重要であることが示された。

 以上、本研究により、相模湾奥部の循環流、海水交換および東京湾系水の流入の大きさの、黒潮の大蛇行期、非大蛇行期による差異が定量的に示された。これらの成果は、開放型の湾の循環流の変動、海水交換、陸起源物質の沖合への流出過程を理解し予測する上で、学術用・応用上寄与するところ大と考える。よって審査委員一同は申請者に博士(農学)の学位を授与する価値があるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54491