学位論文要旨



No 111566
著者(漢字) 角谷,暢一
著者(英字)
著者(カナ) カクタニ,ノブカズ
標題(和) 低速多価イオンによる表面原子のポテンシャルスパッタリング
標題(洋)
報告番号 111566
報告番号 甲11566
学位授与日 1996.02.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第68号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山崎,泰規
 東京大学 教授 櫻井,捷海
 東京大学 教授 小牧,研一郎
 東京大学 教授 兵頭,俊夫
 東京大学 助教授 永田,敬
内容要旨 序論

 低速多価イオンと物質の相互作用の研究は、対応するイオン源の開発、普及を要したため、非常に新しい分野となっている。1980年代後半になって、代表的な多価イオン源であるElectron Beam Ion Source(EBIS)やElectron Cyclotron ResonanceIon Source(ECRIS)が普及し始め、それとともに、低速の多価イオンとガスや金属表面との相互作用の研究が盛んになってきた。1994年にはEBIS型のイオントラップによるU92+の生成も可能になり、多価イオン研究は、新しい段階に入ってきている。

 多価イオンは、大きなクーロンポテンシャルエネルギー(イオン化に必要なエネルギー)を持っており、本実験で用いたArの場合にはAr16+で6keVになり、U92+に至っては900keVにもなる。このポテンシャルエネルギーが起因しておこる現象をポテンシャル効果と呼ぶ。本研究では、2次イオン放出におけるポテンシャル効果に注目し、実験をおこなった。

ポテンシャルスパッタリング

 荷電粒子が固体ターゲットに衝突したとき、その入射位置周辺に様々な形でエネルギーが付与される。その結果、イオンまたは中性の2次粒子が表面から放出される現象、すなわち、スパッタリング現象が生じる。荷電粒子が標的へエネルギーを付与する過程は、入射エネルギーによって変化し、それに応じて2次粒子放出機構を分類することができる。

 入射エネルギーが数10keV/uより高い場合には、イオンは標的内の電子を励起・電離することにより、エネルギーを失う。すなわち、固体内には入射イオンの軌跡に沿って、励起、電離が引き起こされる。その結果、標的原子間にクーロン的な反発が生じ、原子やイオンが放出される(electronic sputteringの機構)。

 入射エネルギーがkeV領域まで下がってくると、入射粒子は標的の電子よりも遅くなり、電子的な励起断面積は非常に小さくなる。かわって、標的へのエネルギー付与機構として、入射イオンと標的原子間の弾性的な衝突過程が重要になってくる。このとき、標的原子は入射イオンと弾性衝突することにより直接運動エネルギーを受け取り、その後、カスケード状に標的内の他の原子と弾性衝突を繰り返した後、一部が表面から放出される(kinetic sputteringの機構)。

 これら二つの過程では、入射イオンの運動エネルギーが表面付近の原子に付与された結果、標的原子のボンドが切れ、2次粒子放出が引き起こされる。一方、低速多価イオンは大きなポテンシャルエネルギーを持っており、これが標的に付与される。多価イオンは固体表面に近づくと、激しく多電子移行をおこす。そのため、多価イオンの入射位置を中心に、表面周辺が一時的に帯電し、その領域では電荷を帯びた状態の原子が多数生成されると考えられる。この帯電状態が長時間続けば、その領域にある電荷を帯びた粒子が互いのクーロン相互作用により、運動エネルギーを得て2次粒子として放出される可能性がある(potential sputteringの機構)。

多価イオンによる低伝導性物質のスパッタリング

 比較的低エネルギーの多価イオンを使った低伝導性物質(Si,CsI等)のスパッタリング実験が、80年代後半を中心に幾つかおこなわれており、2次粒子収量の入射粒子価数依存性が調べられている。しかし、potential sputteringが期待できる入射価数が比較的大きい(〜10価)実験では、入射エネルギーも大きく(10keV以上)、kinetic sputteringが無視できない。このことに注意して、これらの実験結果について述べる。まず、2次粒子をH+とその他の粒子に分けて考えることができる。H+以外の2次粒子収量の価数依存性は、ある場合とない場合があり、価数依存性があっても非常に弱く、価数依存性の有無は明らかではない。これは、上に述べたように、kinetic sputteringがもっとも強くなる入射エネルギー範囲であるため、ポテンシャル効果が相対的に小さくなったことが原因と考えられる。一方、H+の場合には(Hは水や炭化水素の形で残留ガスとして試料表面に吸着していると考えられている)、その収量が価数の約3乗に比例するという結果が得られている。これについてモデルが報告されているが、kinetic sputteringが考慮されていない等の問題がある。

装置

 ポテンシャルスパッタリングを研究するために、小型のEBIS型低速多価イオン源と以下に示す2次イオン検出装置を製作した。2次イオン検出装置には、1)大口径のmulti channel plate(MCP)を使い、でてくる2次イオンをすべて検出するようにし、2)2次イオンの種類はターゲットに入射粒子が衝突するときに生じる2次電子をトリガーにして、2次イオンの飛程時間を測定する方法(TOF法)をもちいた。この方法を採用することにより、1)ターゲットの帯電が起こらない程度の弱いビーム強度でも、ノイズの少ない計測ができ、2)入射粒子毎のイベントの測定が可能となり、3)multi-stop TAC(time amplitude converter)をもちいることにより、同時に生成される多数の2次イオン(多重2次イオン放出)を測定でき(ただし、m/qが異なっている場合)、4)TOFスペクトルの2次イオンのピークの幅より、出射エネルギー分布を決定できる。

本研究における実験の概要

 ポテンシャルスパッタリングの現象を理解するためには、入射エネルギーをできるだけ下げてkinetic sputteringを抑え、且つ、多電子移行の影響が顕著になるような高い価数を用いる必要があると考え、次の条件で2次イオンの測定をおこなった。入射イオンとして0.02keV-4.8keVのArq+(q=4-16)を用い、標的として電気伝導性が低いC60蒸着膜とCu(表面はCuO)を用いた。実験中の真空度は1×10-7Torr程度であった。そのため、炭化水素など、残留ガスが吸着する系になっており、CnHの他に非常に強いH+のピークが観測された。そこで、本研究では特に、定量的検出手段が非常に乏しいにも関わらず物性に大きな影響を与える表面上の水素に注目した。H+収量の入射イオン価数依存性、入射エネルギー依存性、出射エネルギー分布、等を測定し、H+のポテンシャルスパッタリング機構の解明を試みた。

結果

 2次イオンの質量スペクトルを測定した結果、CnHm+(n=1-3)の他にH+の非常に強いピークが観測された。C60を標的にした場合、2次イオンの質量スペクトルにHnO+が観測されないことと、多重2次イオン放出現象を調べた結果、H+とCHm+に相関が強いことを見いだした。これより、本実験においてC60からでてくるH+の供給源は水でないことが確かめられた。

 2次イオン収量の入射イオン価数依存性を調べた結果、CnHm+は、入射エネルギー300-1200eVの範囲で価数を7+から14+に変えると収量が〜3倍程度増加するだけであったが、H+の収量は、30倍以上増加した。入射イオンの価数を変え、H+収量を詳しく調べた結果、500eVで入射した場合はq〜4.6、4800eVで入射した場合にはq〜3.6といったべき依存性をもつことがわかった。この事からAr16+はAr+に比べて105倍もH+に対して感度が良いことが予測される。表面が酸化されているCuOターゲットに関しても同様の価数依存性が得られ、表面状態に強く依存するものではないと考えられる。H2+放出に関しても同様の結果を得た。

 Ar12+に関して入射エネルギー依存性を調べた結果、〜400eV以下では入射エネルギーに依存しないことがわかった。この入射エネルギー領域で、kinetic sputteringの影響がなくなったと考えられる。さらにH+のTOFスペクトルより出射エネルギー分布を求めた結果、kinetic sputteringによるもの(テイル部)とpotential sputteringによるもの(ピーク部)の2成分からなっていることがわかった。この2つの成分の入射エネルギーと価数に対する依存性から、keV程度の入射エネルギーでもkineticsputteringに起因する現象が無視できず、potential sputteringに起因する現象を見えづらくしていることが本研究により明らかになった。classical over barrier modelに基づいた考察の結果、potential sputteringによって生成されるH+の放出エネルギー分布は価数に依存しないと予想され、実験結果もそれに矛盾しないことがわかった。H+スパッタリングの価数依存性が非常に強いことから、低速多価イオンは、表面吸着水素を超高感度で検出でき、かつ、ほとんど基盤へ損傷を与えることのないプローブとして、非常に有用である考えられる。以上多価イオンによるプロトンスパッタリングを主に調べた。その中で価数依存性が非常に強いことから、表面吸着水素をダメージレスの高感度検出方法として適用できる可能性、さらに多価イオンと表面の相互作用を調べる手がかりとして、プロトンの放出過程を理解することは極めて重要であると考えられる。

審査要旨

 本論丈は、低速の多価イオンにより引き起こされる固体表面上の水素のスパッタリングを、スパッタリング収量の入射イオン電荷、入射エネルギーの関数として測定し、また、スパッタリングにより放出されてくる水素イオンのエネルギー分布を測定することによって、大きなポテンシャルエネルギーを持つイオンと絶縁体表面との相互作用を研究したものである。

 本論文は、1.序章、2.電子ビームイオン源、3. 2次イオン測定法、4.結果と考察、5.まとめ、の全5章からなっており、非常に低エネルギーで、反跳によるスパッタリングがほぼ無視できる運動エネルギー領域において、多価イオンの持っているポテンシャルエネルギーがスパッタリング現象に果たす役割の重要性を、特に表面水素について研究したユニークなものである。

 第1章は、本研究の背景、特に、低速多価イオンと表面の相互作用について、これまでに得られている知見について議論している。特に、「古典的むバリア乗り越えモデル」と呼ばれる簡単なモデルが多くの実験結果を再現することが示されていて興味深い。

 第2章は、本研究に用いられた多価イオン源-電子ビームイオン源-と周辺機器について、その動作原理について、また、実際に論文申請者が作成した小型電子ビームイオン源の稼働条件と性能について詳細に議論されている。2keVの電子ビームにより、ポテンシャルエネルギーが6keVに達するAr16+までのイオンが引き出されている。電子ビームイオン源は、大まがに言って、電子銃とドリフトチューブ、また、それを取り巻くソレノイドコイルからなる。電子銃から出た電子ビームは、ソレノイドコイルで細く絞られ、軸対称の強い電場を形成する。従って、ひとたび電離されたイオンは常に電子ビームに引き込まれ、次々とイオン化されて価数の高いイオンが形成されることになる。このイオン源は、また、取り出されるイオンのエネルギー分布についても優れた性能を持っており、実測では0.8eV/qという値が報告されている。

 第3章は、作成された2次イオン検出装置についてその動作原理と性能を議論している。ここでは、メッシュ状のC60及びCuOの標的を用い、多価イオンが表面をたたいたとき2次イオンと同時に放出される2次電子をも検出することによって、両者の時間差から、2次イオンの質量を決定する方法が採られている。更に、1個の多価イオンが多数の2次イオンを放出することも考慮し、最大8個までの同時放出イオンを検出・記録できるmulti-stop-TACの開発も行っている。

 第4章が本論丈の主委部分である。まず、検出された2次イオンの質量分布スペクトルにおいて、標的の主要構成元素である炭素よりも不純物水素の強度がはるかに大きいことが示され、ついで水素イオンの起源が吸着した水分子からのものではないことを重水を塗布することによって確かめている。ついで、水素イオン収量の入射電荷依存性、入射エネルギー依存性が測定され、電荷のほぽ4.5乗という非常に強い依存性を示すこと、数百eV以下では収量に変化がないことなどが報告されている。後者から、このような運動エネルギー領域では、水素イオン生成機構が主に入射イオンの価数、或いは、ポテンシャルエネルギーによりえ配されていることが分かる。

 ついで、放出水素イオンのエネルギー分布が測定され、収量が入射エネルギーに依存しなくなる数百eV以下の入射エネルギーでは、数eVにピークを持つ単純な分布であるのに対して、数keVでは上のピークに重畳して数百eVにまで伸びるティルの観測されることが示されている。このようなエネルギー分布は、反跳によるいわゆるkinetic sputteringとして容易に理解され、多価イオンに対しても既に数keVで無視できない寄与をすることを示す好例となっている。さらに、このkinetic sputteringの寄与を差し引いた残りの強度は、入射多価イオンのエネルギーに関わらず、ほぼ電荷の5乗に比例することが見いだされている。これより、ピークに含まれる水素イオンは、potential sputteringに起因すると結論されている。

 論文申請者は、水素イオンのエネルギー分布が入射電荷に依存しなかったこと、また、古典的バリアー乗り越えモデルからイオン価数が増加しても表面の帯電密度は変化しないと考えられることから、多価イオンが表面のC-Hボンドから2つの電子を引き抜いて生じるイオン間のクーロン反発により水素イオンが放出されるとするpair-wise Coulomb sputteringを提唱している。

 表面付近の水素分布は多くの物質の物性を左右する重要な元素であるにも関わらず、通常のオージェ電子分光法、X先分光法等では検出されない。そういう意味でも、本研究で見いだされた低速多価イオンによる表面水素のスパッタリング現象は、入射イオンの運動エネルギーが低くても高感度であること、また、極微少電流で測定が可能であるため標的への損傷が非常に少ないことなどから、今後重要な表面水素分析法としても重要になると考えられる。

 なお、本論文に含まれるすべての研究は、数人の研究者との共同作業を必要とするものであるが、論文提出者が主体となって実験計画の立案、実験、そして分析を行ったもので、論文提出者の寄与は十分であると判断される。

 以上の理由により、審査員全員は、論文提出者が博士(学術)の学位を受けるにふさわしく合格であると判定した。

UTokyo Repositoryリンク