本論丈は、低速の多価イオンにより引き起こされる固体表面上の水素のスパッタリングを、スパッタリング収量の入射イオン電荷、入射エネルギーの関数として測定し、また、スパッタリングにより放出されてくる水素イオンのエネルギー分布を測定することによって、大きなポテンシャルエネルギーを持つイオンと絶縁体表面との相互作用を研究したものである。 本論文は、1.序章、2.電子ビームイオン源、3. 2次イオン測定法、4.結果と考察、5.まとめ、の全5章からなっており、非常に低エネルギーで、反跳によるスパッタリングがほぼ無視できる運動エネルギー領域において、多価イオンの持っているポテンシャルエネルギーがスパッタリング現象に果たす役割の重要性を、特に表面水素について研究したユニークなものである。 第1章は、本研究の背景、特に、低速多価イオンと表面の相互作用について、これまでに得られている知見について議論している。特に、「古典的むバリア乗り越えモデル」と呼ばれる簡単なモデルが多くの実験結果を再現することが示されていて興味深い。 第2章は、本研究に用いられた多価イオン源-電子ビームイオン源-と周辺機器について、その動作原理について、また、実際に論文申請者が作成した小型電子ビームイオン源の稼働条件と性能について詳細に議論されている。2keVの電子ビームにより、ポテンシャルエネルギーが6keVに達するAr16+までのイオンが引き出されている。電子ビームイオン源は、大まがに言って、電子銃とドリフトチューブ、また、それを取り巻くソレノイドコイルからなる。電子銃から出た電子ビームは、ソレノイドコイルで細く絞られ、軸対称の強い電場を形成する。従って、ひとたび電離されたイオンは常に電子ビームに引き込まれ、次々とイオン化されて価数の高いイオンが形成されることになる。このイオン源は、また、取り出されるイオンのエネルギー分布についても優れた性能を持っており、実測では0.8eV/qという値が報告されている。 第3章は、作成された2次イオン検出装置についてその動作原理と性能を議論している。ここでは、メッシュ状のC60及びCuOの標的を用い、多価イオンが表面をたたいたとき2次イオンと同時に放出される2次電子をも検出することによって、両者の時間差から、2次イオンの質量を決定する方法が採られている。更に、1個の多価イオンが多数の2次イオンを放出することも考慮し、最大8個までの同時放出イオンを検出・記録できるmulti-stop-TACの開発も行っている。 第4章が本論丈の主委部分である。まず、検出された2次イオンの質量分布スペクトルにおいて、標的の主要構成元素である炭素よりも不純物水素の強度がはるかに大きいことが示され、ついで水素イオンの起源が吸着した水分子からのものではないことを重水を塗布することによって確かめている。ついで、水素イオン収量の入射電荷依存性、入射エネルギー依存性が測定され、電荷のほぽ4.5乗という非常に強い依存性を示すこと、数百eV以下では収量に変化がないことなどが報告されている。後者から、このような運動エネルギー領域では、水素イオン生成機構が主に入射イオンの価数、或いは、ポテンシャルエネルギーによりえ配されていることが分かる。 ついで、放出水素イオンのエネルギー分布が測定され、収量が入射エネルギーに依存しなくなる数百eV以下の入射エネルギーでは、数eVにピークを持つ単純な分布であるのに対して、数keVでは上のピークに重畳して数百eVにまで伸びるティルの観測されることが示されている。このようなエネルギー分布は、反跳によるいわゆるkinetic sputteringとして容易に理解され、多価イオンに対しても既に数keVで無視できない寄与をすることを示す好例となっている。さらに、このkinetic sputteringの寄与を差し引いた残りの強度は、入射多価イオンのエネルギーに関わらず、ほぼ電荷の5乗に比例することが見いだされている。これより、ピークに含まれる水素イオンは、potential sputteringに起因すると結論されている。 論文申請者は、水素イオンのエネルギー分布が入射電荷に依存しなかったこと、また、古典的バリアー乗り越えモデルからイオン価数が増加しても表面の帯電密度は変化しないと考えられることから、多価イオンが表面のC-Hボンドから2つの電子を引き抜いて生じるイオン間のクーロン反発により水素イオンが放出されるとするpair-wise Coulomb sputteringを提唱している。 表面付近の水素分布は多くの物質の物性を左右する重要な元素であるにも関わらず、通常のオージェ電子分光法、X先分光法等では検出されない。そういう意味でも、本研究で見いだされた低速多価イオンによる表面水素のスパッタリング現象は、入射イオンの運動エネルギーが低くても高感度であること、また、極微少電流で測定が可能であるため標的への損傷が非常に少ないことなどから、今後重要な表面水素分析法としても重要になると考えられる。 なお、本論文に含まれるすべての研究は、数人の研究者との共同作業を必要とするものであるが、論文提出者が主体となって実験計画の立案、実験、そして分析を行ったもので、論文提出者の寄与は十分であると判断される。 以上の理由により、審査員全員は、論文提出者が博士(学術)の学位を受けるにふさわしく合格であると判定した。 |