学位論文要旨



No 111567
著者(漢字) 箭内,匡
著者(英字)
著者(カナ) ヤナイ,タダシ
標題(和) 想起と反復 : 現代マプーチェ社会における文化的生成
標題(洋)
報告番号 111567
報告番号 甲11567
学位授与日 1996.02.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第69号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 船曳,建夫
 東京大学 教授 大貫,良夫
 東京大学 教授 山下,晋司
 東京大学 助教授 木村,秀雄
 茨城大学 教授 落合,一泰
内容要旨

 今日、南米チリの南部地域に居住する先住民族マプーチェは、世界のあらゆる地域の人々と同様、地球規模の社会変動のただ中で、伝統と近代とが複雑に入り混じった生活を営んでいる。この論文の目的は、そうした生活の中で、過去から引き継がれた彼らの「文化」が、いかなる形で未来に向かって「生成」してゆくかという問題を考えることである。議論は、現地調査(1990-92年にチリのカラフケン湖西北部地域の居留地で実施)による詳細なデータに民族誌的基盤を置くものであるが、筆者の問題設定が本質的に新しいものを含んでいるため、高度に理論的な議論も記述の中に同時に織り込まれてゆくことになる。

 論文は全7章から構成される。1章では論文全体への理論的及び民族誌的導入を行い、2〜4章では、カラフケン湖西北部地域の伝統的な社会文化的実践をこの論文の枠組に基づいてつぶさに検討する。続く5章では、論文全体の鍵概念である「反復」(repetition)の概念を理論的に洗練し、2〜4章の議論に新たな展望を与えるとともに、6章と7章のための理論的準備を行う。そして、6章と7章で、今日、居留地及び都市の双方においてマプーチェの人々が営んでいる文化的生成の諸相を、検討することになる。

 1章の理論的部分では、まず、人類学者が広く用いてきた「文化」の概念が、現実にも、また思想史的にも、内的な生成性を最初から排除した形で成立していることを指摘し、次に、そうした状況からの脱出を目指した試みとして、P・ブルデューのハビトゥス理論を評価する。そして、このハビトゥス理論を筆者の目的にかなう形で批判的に継承しつつ、論文の最初の理論的枠組である、{同一性+反復}の概念的セットを導く。

 2章では、カラフケン湖西北部地域のマプーチェの社会文化的実践に最も強い同一性を与えていると考えられる、「想起(konumpan)の原理」とでも呼ぶべきものについて検討する。これは、夢などの意識外の現象を契機に神(あるいは霊的存在)の力を想起し、次に、こうした思考上の想起を、適切な時に適切な形式(主に祈りと捧げもの)を通して、身体的行動として現実化するというものである。マブーチェ的な世界は、この「想起の原理」に従った実践を通じ、折りにふれて天上的世界を模範として秩序づけられ、それによって彼らの実践の超時間的な同一性が一定の範囲内で維持されると考えられる。ただし、この「想起の原理」は表面的な同一性を求めるものではなく、ある意味でプラトンの想起説とも比しうるような深遠な側面も持っている。

 「想起の原理」はマプーチェの伝統的実践にとって根本的な同一性原理であるが、しかし、その全てを説明するものではない。3章でみるように、彼らの儀礼体系は、一方ではもちろん「想起の原理」に深く基づくものであるが、他方で、詳細な検討を行うなら、それと必ずしも合致しない別の論理を含んだものであることも判明してくる。この別の論理は、地上的な精霊(神ではなく)に対して生け賛を捧げることにより力(newen)を獲得する、という考えに収斂するものと考えられ、筆者はこれを「力の原理」と呼ぶことにする。3章の最後の節では、E・ヴィヴェイロス=ジ=カストロの「食人的コギト」の概念を援用しつつ、この「力の原理」が、あるきわめて屈折した形で同一性原理(第二の同一性原理)として機能しうるものであること、しかし同時に、それが自らの中に差異を導入してゆく可能性をも持ったものであることを示してゆく。

 4章では、親族・婚姻・政治の領域におけるハビトゥスの同一性について検討する。この章の前半ではマプーチェの親族と婚姻について論ずるが、そこで明らかになるのは、あえて単純化して述べるなら、親族の論理は「想起の原理」の一つの表出として、婚姻の論理は「力の原理」の一つの表出として基本的に理解しうるということである。そして、カラフケン湖西北部地域の人々の伝統的な社会的実践は、様々な角度からみて、これら二つの原理がまさにぶつかり合う領域を焦点として繰り広げられているものと考えられる。4章の後半では、二つの同一性原理が生み出す政治的効果についての検討を行う。この検討は、第一に、マプーチェの伝統的な社会的実践が、静的な同一性の持続の中にあるのではなく、二つの同一性原理が相矛盾してぶつかり合う中で生まれる動的な過程の中にあること、第二に、彼らの社会的実践のある部分が、「水平性の原理」とでも呼ぶべき第三の同一性原理によって下部構造的に支えられていること、を示すことになる。

 さて、2〜4章の伝統的な社会的実践の体系についての記述と分析は、その同一性を維持する仕組みに焦点を当てるものであったが、それはとりもなおさず、この体系の生成的側面をいわば剰余の部分として浮き彫りにすることになる。5章では、このことを引き受けながら、民族誌的対象を真に生成的な形で把握するための理論的枠組を構成すべく、哲学者G・ドゥルーズの著作に主に基いて、「反復」の問題を存在論的及び社会的観点から検討する。身体的習慣のような表面的で同一的な反復から、ニーチェが永遠回帰という言葉で呼んだような類の深く存在論的な反復までを包みこむこの概念は、そこで示すように、同一性に基づく理論的思考様式を根本的に組み替えて、生成性を十分に取り込みうるような新たな枠組を形成するために役立つものである。5章の最後の節では、反復の問題を近代の問題と関連づけて論じる。この議論は、伝統と近代とが入り組んだ状況について反復の概念を具体的に適用してゆくための指針を与えるとともに、反復の概念自体が近代という運動と密接に連関している事実を明るみに出すはずである。

 6章では、2〜4章で行った伝統的な諸実践に関する記述と、5章で切り開かれた理論的視野とに依拠しながら、今日のカラフケン湖西北部地域の居留地における人々の社会文化的実践の諸相を分析する。この章の前半では、彼らの経済・政治・日常及び精神生活の構造を検討し、それらが「マプーチェ的なハビトゥス」と「チリ的なハビトゥス」に、両者をいわば折衷した「中間的なハビトゥス」とでも呼ぶべきものを加えた3つが共存するなかで営まれていることを明らかにする。6章の後半では、こうしたしばしば相互に激しく矛盾しあうものが共存する今日の彼らの生活様式が、いかにして彼らの「マプーチェ的なハビトゥス」を次第に硬直化させて反復強迫的な様相の濃いものにしているか、また、そのために彼らの生活がいかにして一種の重苦しさと悲劇性によって彩られたものになっているか、を示してゆく。

 しかし、他方で見落とすことができないのは、現在、上のようなドラマと同時的に生起している、居留地から都市への大量の移民と、居留地の生活自体の都市化である。そこで、最後の7章では、主に都市を基盤として生活しているマプーチェたちが、自らの内なるマプーチェ的伝統とどのような関係を営んでいるか、という問題を検討する。7章の最初の節では、一方で、都市に出たマプーチェたちが、自らの伝統を近代的な目で新たに見つめ直す習慣を獲得してゆく様子を確認するとともに、他方で、彼らの無意識=身体の中に埋蔵された「マプーチェ的なもの」が、時折、「抑圧されたものの回帰」のように力強く現出してくる様子を見る。続く第2節では、今世紀のマプーチェ知識層による、マプーチェ的伝統に関する様々な言動を分析する。そしてこの節の末尾で、このような人々の間から、今日、「マプーチェ的なもの」と「チリ的なもの」の双方を根源的に把握し直すことを通じて、単純にマプーチェ的でもチリ的でもなくそれでいて深くマブーチェ的でもチリ的でもあるような、新しい試みが生まれてきていることを明らかにする。

 マプーチェ知識層の一部が現在取り組みつつある、この最後のタイプの試みは、この論文の出発点である文化の生成性の問題と深く交叉するものであると同時に、『反時代的考察』などのテクストに見られるニーチェの「文化」の概念とも関連づけることができるものである。つまり文化とは、人類学者が、そして当の社会に住む人々自身もがしばしば見なしがちであるような、静的あるいは固定的なものであるとは限らないのであって(ただしそれは文化の持つ一つの側面ではある)、状況によっては、ニーチェが考えたように、文化というものが深く生成的、創造的な力を帯びることもあるのである。こうした論点を受け、7章の最後の節では、筆者は次のような主張を行う。つまり、今日の世界における文化的生成の状況を考慮するなら、筆者がこの論文で少なくとも試みた作業、つまり、人々の社会文化的実践について、それがはらんでいる可能性をできるかぎり汲み取り、そこに含まれている複数性・多様性をできるかぎり想起しつつ記述を行うという作業は、人々が自らの社会文化的実践を未来にむけて創造的に反復してゆくための材料を与える意味を持ちうる、ということである。筆者の考えによれば、民族誌は、このような作業に取り組むことにより、失われゆく伝統への挽歌ではなく、未来に向けての可能性=力(puissance)となるようなきわめて今日的な意義を帯びるはずである。これが、7章の結論であるとともに、論文全体の結論でもある。

審査要旨

 本論文は、南米チリの南部地域に居住するマプーチェと呼ばれる人々の、文化的生成に関する人類学的議論である。調査はマプーチェの中でもカラフケン湖西北部地域を対象として1990年2月から1992年2月までの2年1ケ月間行われた。

 マプーチェ系諸族は比較的孤立した大民族集団として独自の発展を遂げてきた民族である。スペイン人の征服以来の度重なる歴史的な変化、とりわけ19世紀後半からのチリの近代国家としての確立の流れの中で、大きな社会変化を余儀なくされた。しかし、それにもかかわらず、その霊的世界観とそれに基づく文化的行為を形作る二つの原理、「想起の原理」と「力の原理」は、彼らに歴史的な同一性と、進行する近代的状況の中で民族的生存を可能にする主体的変化の可能性を与えている。本論文は、その同一性の確保と主体的変化との二つを同時に可能にする文化的生成がいかに行なわれているかの記述と、その記述を可能にする理論装置としての「反復」の概念の提示を眼目とする。

 論文全体は、全7章より成り、本文中に10葉の地図、8葉の写真、巻末に五つの付録と参照文献表、主要語彙集が加えられている。全体の内容は第1章から第4章と、第5章から第7章の前、後半に分かたれ、前半では、第1章が、後半では冒頭の第5章が理論的な部分を受け持つ、という構成を持つ。

 第1章「序論-歴史民族誌的背景」では「文化」の概念の再検討を行い、人類学がこれまで文化を静態的あるいは持続的な自立性を持つものとして強調しすぎていたことを指摘し、フランスの社会科学者P.ブルデューのハビトゥス理論の批判的検討から、文化が時間の流れの中で同一性と反復を示すことを明らかにし、次章以降の理論的枠組みを示した。

 第2章では筆者が「想起の原理」と名付けるところの、夢などの意識外の現象の中に神の力を見い出し、それがある一定の時間的経過の後に、彼らにとって重要な社会的行為である儀礼(主に祈りと捧げもの)という現実の行為となるプロセスを示す。続いて第3章では、もう一つの原理、神ではなく地上的な精霊に対していけにえを捧げることにより力を獲得する「力の原理」の説明を行なう。「想起の原理」は彼らにいわば伝統的な世界が現在も繰り返される同一性を与え、「力の原理」はそれによって差異を現在にもたらすことで変化の契機となる。第4章では、親族、婚姻、政治に関して議論が行なわれる。筆者は、親族の論理は出自集団などにおける同一性をもたらす「想起の原理」の表出の一つとして、婚姻の論理は他者を得ることによる「力の原理」の表出の一つとして理解し得ると論ずる。

 第1章から第4章まではマプーチェ社会の同一性、別の言葉で言えば伝統的世界の持続の仕組みを明らかにするものであった。それを受けて筆者は第5章で、主にG.ドゥルーズの著作に基づいて、「反復」の問題を検討する。筆者は変化を同一性からのズレや矛盾としてとらえるのでなく、反復の中に可能性が現れ、その可能性が現実化することによって生成的変化が現れるという理論的枠組みを提示する。そしてマプーチェ社会における伝統と近代が入り組んだ状況の中で、反復の概念を当てはめることを行なう。それが第6章、第7章の分析の導入となる。

 第6章では、マプーチェの人々の、経済、政治、日常、そして精神生活の構造を検討し、その中に「マプーチェ的なハビトゥス」と「チリ的なハビトゥス」、そして両者の折衷としてある「中間的なハビトゥス」の三つが共存する在り様を明らかにした。そこにおいては「マプーチェ的なハビトゥス」は、マプーチェの伝統を守ろうとする反復強迫的なものとなっている場合もあることを指摘する。一方、第7章では、都市に移住してそこで生活をするマプーチェたちが、自らの伝統を近代の視点で見直そうとしていることを筆者は取り上げる。そこでは、ある場合は、精神的妄想の中に「マプーチェ的なるもの」が噴き出すこともあるが、マプーチェの知識層の活動、たとえば詩などの作品に、単純にマプーチェ的であったりチリ的であったりするのではなく、深い意味でマプーチェ的であったりチリ的であったりする新しい文化のかたちが生まれていることを明らかにした。

 本論文の文化人類学に対する貢献は次の二点に集約できる。第一点は、すでに述べたように、この学問において文化の動態的側面を明らかにしようとする試みは久しく行なわれてきたが、それらはもっぱら記述の内に動態的要素をふくませるという方向に向かっていたのに対し、筆者が周到な理論的研鑚の上に、新たな分析的枠組みを提出し、文化の生成の過程をつまびらかにしたことにある。第二の貢献は民族誌の作成である。本論文は長期のフィールドワークによって収集された資料に基づいている。その資料はスペイン語はもとより、著者の卓抜した語学能力と努力によるマブーチェ語の練達によって、現地の人々の日常の語りと、儀礼的な祈りをふくんで分厚いものとなった。これらの貢献が日本のみならず国際的水準において高く評価されるであろうという期待は、このような審査報告のクリッシェとしてではなく、ほとんどかなえられることが確実なものとしてある。

 一方この論文の構成において、後半部の理論的前提が巻中央の第5章で行なわれていることは、議論の流れをやや阻害していると、の批判、理論的枠組の構築に総動員された感のある、プラトン以降のニーチェ、ドゥルーズに至る西洋思想が、果たしてこの論文に関しては全て必要であったのか、という、1800枚を越える論文の長さにもかかわる疑念、も呈されたが、本論文の価値を大きく損なうものではなかった。

 以上により、本論文提出者は文化人類学の研究に対して重要な貢献をなしたと評価される。従って、審査員一同は、本論文提出者は博士(学術)の学位を授与されるに充分な資格があるものと認める。

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