現代の経済活動の中で貨幣は極めて重要な役割を担っている。貨幣は一方で取引を媒介しながら、他方で価値の保蔵手段としての性格を持っている。こうした多面的な性格を持った貨幣が、経済の実物面にどのような影響を与えているかは、過去、現在を通じて経済学の主要なテーマである。 本論文は、価値の保蔵手段としての貨幣の役割に対象を絞り、世代重複モデルという標準的な枠組みの中に私的情報や競争の不完全性という新しい、そして現実的な要素を導入する。その上で貨幣が標準的なモデルとは異なった役割を持ち、そのために経済の均衡の性質が変わることを明らかにしている。従って従来の貨幣の基礎理論では把えることができなかった貨幣の役割の新しい側面に光をあてようとするのが本論文の目的であると言えよう。 このような問題意識から、全体は次の四つの章から構成されている。 第一章 Fiat Money(法定不換紙幣)と世代重複モデル 第二章 リスクのない資産としての貨幣 第二章補論 保蔵リスクと貨幣の価値 第三章 「貨幣はいつでも人々を幸福にするか」 第四章 動学効率性の阻害要因としての無数の投資家の存在 以下この構成順序に従って本論文の内容を要約紹介する。 第一章では、Fiat Moneyを巡る研究史を概観し、本論文の研究史上の位置を明確にする。Fiat Moneyは、第一に発行者がそれを何かと交換するという約束ではないという性質と、第二に、それ自体は効用も生まないし、何も生産しないという性質を持っている。そこで問題となるのは何故貨幣が人々によって需要されるかである。貨幣は他の人々によって需要されるという人々の期待の故に需要され、それによって人々の期待が自己実現するという性格を持っている。 いわゆる世代重複モデルは貨幣のこの性格が最も単純な形で出現するモデルであり、従って貨幣の基礎理論の研究史において標準的なモデルとなっている。このモデルでは重複して存在する世代の間の取引が不完全な為に、Fiat Moneyのない経済では非効率な均衡に経済がある。これを動学的非効率性と呼ぶ。これに対し、Fiat Moneyが導入されると動学的非効率性は解消され、本来それ自身価値を持たないFiat Moneyが正の価値を持つようになるのである。 標準的な世代重複モデルでは、Fiat Moneyが正の価値を持つ条件として動学的非効率性が重要な役割を占めているが、これに対し最近の研究はこうした動学的非効率性だけでなく、私的情報の存在が貨幣が正の価値を持つ理由として考えられることを主張している。世代間の取引が可能であったとしても、時間を通じる取引(投資)には不確実性が伴う。そこにもし私的な情報があれば、その情報を有利に使うMoral Hazardの問題が生じ、それが取引を歪めて、本来望ましい取引が行われなくなり均衡が存在しない可能性がある。そこに不確実性のない資産としてのFiat Moneyが存在すれば、人々の選択可能な手段を広げ、均衡の存在を保証するのである。 第二章と第三章は、こうした私的情報の存在が貨幣経済にどのような性質を与えるかを吟味している。特に重要なのは、私的情報のある経済ではFiat Moneyが正の価値を持つのは動学的非効率性が存在するからでもなく、叉貨幣の存在が必ずパレートーの意味で望ましいというのではないことを明らかにした点である。 第二章(及びその補論)では、標準的な世代交替モデルに投資の不確実性を持込み、さらに投資収益が投資家以外には観測できないという私的情報の要素を導入する。これによってFiat Moneyはリスクのない資産として保有され、正の価値を持つようになる。 この章では、Fiat Moneyがこのようにリスクのない資産としてポートフォリオの一部に保有される経済では、貨幣が正の価値を持つ貨幣経済が必ずしも貨幣のない経済よりもパレートの意味で望ましいわけではないことを例示している。更には、標準的なモデルでは成立するマンデルーフレミング効果(貨幣供給増加率の上昇が資本蓄積を促す)が場合によって逆転することを示している。 第三章は、第二章と類似のモデルを使い、私的情報の存在する貨幣経済の性質を更に深く考察する。投資収益については投資家以外には観測可能でないという設定と、更に不確実性が純粋にミクロ的なものであるという二点から、モラルハザードの為に保険が存在しなくなる。その時、Fiat Moneyが実はモラルハザードを実現する手段として使われるようになるという逆説的な結果が生じる。つまり正直に投資をするかわりに何もせず貨幣の形で持つということが可能になるからである。この経済では、実は貨幣が正の高い価値をもっていることは、モラルハザードが深刻であるという形になっており、それが叉、安全資産としての貨幣に対する需要をサポートしているという構図になっている。 第四章では標準的な世代交替モデルにPrice-Setting行動を導入する。ここでは簡単化のためにBertrand型の価格競争を考えている。このフレームワークの中で、Price-Setting行動の為に経済が動学的に効率的な均衡を失うことを示している。更に、競争が実はatomistic(競争者の数が無限)であることがこうした結果をもたらしていることを明らかにしている。実際、適当な競争制限策によって動学的に効率的な経済が達成されることを示している。 以上に見られる通り、本論文は貨幣の基礎理論としての世代交替モデルに、より現実的と思われる私的情報とモラルハザードの問題や競争形態についての新しい仮定を導入し、それが導く貨幣経済の興味深い性質についての深い洞察を得ることに成功しているといえよう。特に貨幣の存在と私的情報とモラルハザードが密接に関係し、均衡において相互に規定していることを明らかにした点は高く評価することができよう。 更には、貨幣を入れた通時的一般均衡モデルのフレームワークで、競争の形態が及ぼす影響を明確に考察した点は、重要な貢献である。しかも競争の制限が逆に効率性を回復する例を示した点は特筆に値するであろう。 以上のような積極的な評価にもかかわらず、同時に本論文にはいくつかの欠点が存在していることも否めない。 まず第一に、モデルが極めてstylizedなものであり、そこでの結果がモデルの仮定をゆるめたとき、どの位ロバストなものであるか、若干の疑念が残る。特にこの点は、貨幣の基礎理論のような根元的な問題を取り扱っているのであるから、なおさらである。 第二に、第一の点と関連するが、すべての結果がsecond bestの形になっている点に不安が残る。場合によってはfirst bestとなる他のcontrivanceが存在し、筆者の主要な主張がくつがえされる可能性を否定できない。この点はとくに野心的な第三章にあてはまる。 しかしこれらの問題点も、研究の発展の方向性を示しているとも考えられ、今後の研究の深化によって解決することを十分に期待しうるとすることができる。 以上のような評価にたって、本論文は著者の自立した研究者としての資格と能力を十分確認しうるに足るものであり、審査委員会は、これを博士(経済学)の学位授与に値するものと判定した。 |