クェーサー(QSO)のスペクトル中に観測される吸収線系は、水素のライマン端での連続吸収を示すLyman limit系(LLS)やCIV系、MgII系などの重元素イオンの吸収線によって分類できる。これらの重元素吸収線系は、1)高赤方偏移においてはCIV系の二体相関関数が、銀河の二体相関関数と類似の相関距離を示すこと、2)低赤方偏移ではMgII系に対応する銀河が同定されていることから、我々とQSOの間に存在する銀河の巨大なガスハーローに起源があると考えられている。この論文では次の作業仮説に基づき、赤方偏移Z=5から0までの重元素吸収線系およびその電離源についての研究を行う。ここで採用した作業仮説は、1)吸収体は銀河を取り巻く巨大なガスハーローである、2)ガスハーローは背景紫外線輻射によって光電離状態にある、3)背景紫外線輻射は主にクェーサーから輻射される紫外線の重ね合わせであることを三つの柱とする。今研究の目的は、QSOの重元素吸収線を用いて、遠方にあるために光や電波などでは直接観測できない銀河および遠方の宇宙の物理状態を探り、観測に基づいた整合性のあるQSOの吸収線系の描像を構築することにある。特に、観測が示す電離状態を再現する背景紫外線輻射のモデルの構築と、QSO重元素吸収線の進化を再現する背景紫外線輻射および銀河進化のモデルの検討を主に研究している。吸収線系のモデルとしては、論文全体を通して球対称で吸収体の中心からの距離の二乗に反比例するガスの密度分布を持つガスハーローを考える。ガスの広がりとしては100kpcとする。このようなガスの密度分布およびその広がりは、観測から示唆される吸収体のモデルとして最も単純で基本的なものである。 まず第一に、重元素吸収線の電離状態を決めているのは背景紫外線輻射なのか、ガスハーローの中心に存在する遠方の銀河からの紫外線の寄与が大きいのかついて検討を行った。赤方偏移が2付近のLLSとCIV系の観測データを用いてその時期の電離源を調べた。紫外線輻射の候補として、QSOのような周波数のべき乗で表されるスペクトルを持つ背景紫外線輻射とOB型星などからの紫外線の寄与が効いた銀河タイプのスペクトルを考える。その結果、OB型星からの寄与は完全には否定することはできないが、クェーサータイプの紫外線輻射が優った輻射場によって重元素吸収線系の光電離状態が決まっていることが分かった。また、必要な輻射の水素のライマン端での強度はライマン雲の解析から求められた値と一致する。他の研究者が平板状のガス雲を用いて求めた結果と同じ結果を得ているが、球対称モデルで電離状態の異なるLLSとCIV系の観測データを同時に説明するモデルを構築できたことに意味がある。 しかし、近年になってこれまで検討した比較的単純な紫外線輻射のスペクトルモデルでは再現するのは難しい新たな観測データが報告されてきた。以前は発見されていなかったHelの吸収線がLLSに付随していることがハッブル望遠鏡の観測で同定され、しかも同じLLSにOVIなどの高電離イオンも同時に付随することが報告されたため、低電離イオンであるHelとOVIなどの高電離イオンの共存が問題になった。また同時に炭素、窒素、および酸素の様々なイオンの吸収線が同定されたので、背景紫外線輻射のスペクトルを求めるための格好の観測データである。そこで赤方偏移z=2〜3における紫外線輻射場のスペクトルについて再検討を行った。先に述べた作業仮説に基づき、遠方の銀河を取り巻く巨大なガスハーローが背景紫外線輻射によって光電離状態にあるとする。背景紫外線輻射は、ライマン雲の解析から求められた強度や軟X線の強度などの観測による制限を拘束条件として、折れ曲がり線のスペクトルでモデル化する。得られた最適なスペクトルモデルは、Hellのライマン端(54eV)付近で急激な傾きを持ち、それよりも高エネルギー側では1keVまでほとんど平らなスペクトルを持つものであった。そのような背景紫外線輻射を考えれば、超新星爆発に起因する衝突電離ガスの寄与を考えなくてもOVIなどの高電離イオンの存在は説明可能である。また、観測データが示す電離状態を再現するようなLLSの典型的なモデルは、太陽近傍のガスで測定された金属量の1から3%の金属量を含むガスが遠方の銀河の周囲に50から100kpcの範囲に広がっていて、全体で太陽質量の1010倍の質量のガスが存在している場合であった。ここで得られた最適な背景紫外線輻射のモデルが示すスペクトルの特徴は、QSOからの紫外線の重ね合わせがライマン雲やLLSの吸収を受けて変形した時に得られるスペクトルと類似していることも分かった。 さらに得られた最適モデルスペクトルとQSOからの紫外線の重ね合わせに吸収の効果を考慮したスペクトルモデルを用いて、ライマン雲と銀河間物質(IGM)の電離状態および宇宙の光学的厚みを調べた。ライマン雲は質量の小さい(最小2桁小さい質量)ガスハーローとしてモデル化し、IGMの存在量については、宇宙誕生時における元素合成の理論から得られる値を上限とした。この研究で分かったことは、比較的中性水素柱密度の大きなライマン雲で測定されたCIVと中性水素の柱密度の比を再現するためにはQSOからの重ね合わせによる背景紫外線輻射のモデルの方が適していること、ハップル望遠鏡で観測されたHellの光学的厚みはライマン雲に起因するHellの吸収線の重ね合わせのみでは説明するのは難しいことである。IGMはHIの光学的厚み(元来のガン・ピーターソンテスト)に対してはほとんど寄与しないが、Hellの光学的厚みには無視できない寄与をする可能性が高い。 論文のこれまでの部分では赤方偏移がz=2〜3付近でのQSO重元素吸収線系の観測データを用いて、その時期における背景紫外線輻射の性質について調べてきた。得られた結果によれば、重元素吸収線系の電離状態は局所的な電離源によってではなく、背景紫外線輻射によって決定されていると判断できる。そこで、QSOからの紫外線の重ね合わせに吸収の効果を考慮した背景紫外線輻射のモデルに基づいて、QSO重元素吸収線系の進化についての研究を進めた。 QSOからの紫外線の重ね合わせる際には、観測されているQSOの光度関数や観測に基づく光度進化則を採用しているが、赤方偏移が3以上の観測データは不十分であり観測的なバイアスが含まれている可能性が高い。そこで、赤方偏移が3以上ではQSOの数、および光度ともに進化しないという仮定を採用する。その方がガン・ピーターソンテストやライマン雲の解析から求められた背景紫外線輻射への制限に対しても好都合である。また、ライマン雲やLLSに起因する吸収の効果は観測で得られた赤方偏移分布・柱密度分布を用いて評価する。得られた背景紫外線輻射の強度の進化はQSOの進化とほぼ同様の進化を示し、赤方偏移が2以上では水素やヘリウムのライマン端での強度は赤方偏移に依らずほぼ一定となる。 背景紫外線輻射の進化則に基づくQSO重元素吸収線系の単位赤方偏移当りの数密度の進化を考えると、背景紫外線輻射の強度がほぼ一定なら、吸収体の進化(銀河進化)を考慮しない限り宇宙膨張に起因する変化を示す。赤方偏移が大きくなるにつれて、強度が強くなるような進化を背景紫外線輻射がする場合は、LLSやMgII系の数密度は背景輻射の変化を上下を逆にひっくり返したような変化、すなわち数密度が減少する。CIV系の数密度の変化は吸収体の電離状態に依存し、CIV系の数密度の変化の振舞い方は銀河ハーローのガス密度と背景紫外線輻射のスペクトルの形で決定される。低赤方偏移では、背景紫外線輻射のスペクトルに応じて適当なガス密度を持つ吸収体を採用すればCIV系の数密度の変化は再現できることが分かったが、LLSやMgII系の観測データを説明するためには銀河の進化が不可欠である。 そこでdamped Lyman alpha系(DLA)の観測データから求められた銀河進化のモデルを採用して、重元素吸収線系の数密度変化がどうなるかを調べた。この場合は、ガスハーローのガス密度が低いため、金属量の増加による変化はあまり効果的でなく、ガスの量の変化によって重元素吸収線系の数密度の進化が決定されている。その結果、低赤方偏移でのLLSやMgII系の数密度の変化を説明することが可能となった。ただし、CIV系の低赤方偏移での観測データは、銀河進化の効果を取り入れると観測の再現は多少困難になる。また、高赤方偏移でCIV系の数密度が減少する観測結果は銀河進化の導入で解決できるが、数密度が減少する傾向は吸収線の強さに依存性がある。観測装置の精度が向上してこれまでよりも弱い吸収線を測定するようになれば減少する傾向は解消することが予測できる。さらに、観測されている重元素吸収線系の進化が、背景紫外線輻射の進化に依るものなのか銀河進化に主に依るのかについてはCII/CIVの比の進化が良い指標となることについて議論を行った。 結論をまとめると、最初に挙げた作業仮説はQSOの重元素吸収線系の観測データに基づく整合性のある描像としての基本をなすといえる。光で観測を行うと電波で観測できるQSOの半分以上を数え落としている可能性が強いことがごく最近報告されたこともあり、QSOは背景紫外線輻射の主な源として非常に有力と考えられる。重元素吸収線系は星形成のサイクルに基づいた銀河進化を受けている可能性が強く、その吸収体としての正体は遠方の銀河を取り巻く巨大なガスハーローと考えるのが適当であることを明らかにした。 |