本論文は、占領期日本の教育改革政策を、米国側からの情報を駆使して、その計画段階からの展開過程が堅実で一貫したものであったことを立証しようとした英文の論文である。本論文の結論的なメッセージは、戦後初期の教育改革は、最も大事な時期に、まさにそれにふさわしい人物たちが正当な時と所を得る形で展開したというもので、著者はそれを「穏健派の勝利」と呼んでいる。本論文の特色は、米国対日教育使節団を中心として、改革過程の参画者の人物像を明らかにし、これらの人物たちが教育改革をいかに柔軟で、一貫したものにしたかを解明している点にある。 本論文は、2部構成で、第1部は3章、第2部は4章、計7章から成っている。 第1部では、まず米国政府における初期占領政策立案の展開過程が跡づけられる。占領政策の立案は、占領政策全体の立案準備のために国務省に特別調査課が設立された1942年にワシントンで開始された。1942年8月23日、東アジアの専門家、ジョージ・ブレイクスリーは、東アジア政策の企画担当に任ぜられる。日本で学業を積んだ経験のあるクェイカー教徒、ヒュー・ボートンは、この企画への参加要請を受け、占領政策全体、そして後に教育政策の立案における常任スタッフとなる。このボートンこそ、ワシントンにおける初期政策段階から戦後の政策実施段階に至るまで、終始、教育政策過程にかかわり、教育政策を推進する中心人物として活躍するのである。 1943年にボートンは、後に日本占領の趨勢を設定することになる政策文書を書いている。この時期に、国務省をはじめ米国政府内では二つの相反する意見が現れている。一方には、知日派の外交官たちがいた。彼らは、日本に対して柔軟な態度を示し、占領は穏健な日本人指導者を捜し出し必要な改革を実施させることでなければならないと考えていた。他方には、「親中国派」と呼ばれる、日本に対して強硬策を主張した人々がいた。彼らは、日本が再び世界平和の脅威にならないよう、占領下の日本でより急進的な改革を導入しようとした。ブレイクスリー及びボートンは、この両者の中庸をいくような路線を進めたというのが著者の理解である。 著者によれば、1944年の戦後計画委員会(PWC)におけるブレイクスリーとボートンの役割も顕著であった。ボートンは、日本政府の機能を通じて行う「間接占領」の考え方を提示し、ジョゼフ・グルーのような著名な知日派の外交官の支持を得て、天皇制継続を主張した。1944年12月、国務・陸軍・海軍の三省調整委員会(SWNCC)が設立されるが、これはドイツ、オーストリア、日本及び朝鮮の戦後政策を立案する最も重要な機関となった。ブレイクスリーとボートンは、この委員会の極東小委員会に属し、政策立案に参画したのである。 第1部第2章では文部省による初期改革案、GHQ内の民間情報教育局(CI&E)教育課の設置、1946年の初期まで続いた懲罰期など、占領初期の政策展開を素描した後、著者は、第3章で第一次米国教育使節団の結成について検証している。女性4名、黒人1名を含む使節団員27名全員のプロフィールを描き、地域や分野などに配慮した人選であったとしている。なかでもクェイカー教徒のゴードン・ボールスが国務省を代表する使節団メンバーとして加わったことに注目し、ワシントン、ハワイ、グアムにおいて、使節団が日本の教育についてどのような学習を行ったかに触れている。特に重要なのは、ボールスとボートンの両者がワシントンにおける出発前の説明会に参加していたことである。ボートンは、占領政策全体及び初期教育政策の立案時の中心的な存在であり、使節団は何を期待されているか、占領政策展開にとってどのようなガイドラインが必要であるかに関し豊かな知識をもって説明することができたからである。 第2部は米国教育使節団の来日以降の展開が叙述される。その第1章では、1946年3月、第一次米国対日教育使節団の東京到着を概観している。使節団員には、ロバート・アレン及び後に教育課長になるマーク・オアによって編集された132ページの冊子「日本の教育」が手渡される。著者は、使節団に協力する目的で設立された南原繁を委員長とする日本側教育家委員会(JEC)とCI&E教育課の陣容、この両者と使節団の組織を簡潔に分析し、米日の共同作業の人的態勢を描いている。 CI&E教育課の職員は、米国使節団の来日に際し、種々の講義を行ったが、そのうち従来の研究でしばしば議論の対象になったのは3月13日に行われたロバート・キング・ホールによる講演である。ホールは、かねてより日本語の書き言葉から漢字を追放し、代わりにローマ字もしくは片仮名を採用すべきであると提案していた。ホールは、漢字のもつ文化的な重要性に言及することなく、漢字の部首のもつ意味を理解せず、しかも上司の同意も得ることなく、このような講演を行ったのである。著者は、ボールスへのインタビューから、ボールスがこの講演に同席し、ホールが誇張した点、誤解している点を指摘したこと、結局ホールのような極端な議論と改革案を阻止することができたことについて証言を得ている。 第2部第2章では、日本側教育家委員会の提案と役割について解明している。これは従来の一部の先行研究が過小評価し、あるいは無視した点である。すでに土持法―やゴードン・ボールスによって日本側教育家委員会と使節団報告書との関係についての言及はなされているが、著者は、特に委員長の南原繁が使節団報告書に重大な提案を行ったと評価し、とりわけ6-3-3制の採用についての勧告を重視している。 第2部第3章では、教育家ジョン・デューイが第一次米国対日使節団メンバーに与えた影響を検証している。著者がこの点を考察しているのは、当時から日本側に使節団は日本を教育改革の実験台として利用しようとする理想主義者で構成されているという見方が根強くあったためである。このような誤解は、使節団のメンバーがジョン・デューイのプラグマティズム的な教育思想に影響されていると思われたことに起因していた。そこで、著者は、デューイの思想を概説した上で、使節団のメンバーがどの程度これに影響を受けていたかを検証する必要があるとしている。著者によれば、例えば使節団団長、ジョージ・ストッダードは、デューイの思想に基本的には同意しながらも、アメリカの教育の行き過ぎた点を遺憾に思い、これはデューイの教義を誤解したことによりもたらされたものであると考えていた。著者は、ストッダートに、デューイの思想を十分に理解し、その極端なあるいは間違った解釈を避けようとする慎重な教育者像を見出している。 次に、著者は南原繁の思想と行動を検証している。南原は、キリスト教徒であり、第一次米国対日使節団の来日当時、東京帝国大学学長であったが、日本の復興を固く信じ、占領が改革の好機であると見なしていた。彼は、日本側教育家委員会の委員長として、またこの委員会を引き継いだ教育刷新委員会の当時の副委員長(後の委員長)として、積極的な役割を果たし、日本に6-3-3制の教育制度を導入する推進力となった。南原は、アメリカ人執政者からも尊敬され、バランスのとれた方策をとり、教育改革を効果的なものとするには日本人の改革当事者が積極的にこれを推進するべきであると考えた。彼の主張は戦後日本の教育改革への大きなインプットとなったというのが、著者の評価である。 著者は、また、CI&Eのスッタフの能力について河合一夫や文部省官僚が否定的評価をしていることに留意し、教育課の職員の有していた資格や能力はかなり高いものであったことを立証している。民間情報教育局局長のニュージェントは、もともと学術的な経験を相当積んでいたし、アメリカと日本で教職の経験もあった。特筆すべきは、ロバート・キング・ホールではなくマーク・オアが教育課長に任命されたことであるという。占領統治は間接型をとったため、教育課は文部省と協調して活動しなければならなかった。ここで大きな役割を果たしたのがマーク・オアであった。彼は、歳若く、経験も豊富とはいえなかったが、日本側とアメリカ側の双方から尊敬され、これが改革過程において教育刷新委員会との合同作業を有効に機能させる要因となったという。 そして「使節団報告書の実施」と題する第4章で、著者は、教育行政の分権化、学校体系の再編などをめぐるCI&E教育課と文部省や日教組との折衝過程を描いているが、教育刷新委員会が仲介的機能を果たしたことを強調している。 以上のように要約できる本論文は、以下の点で注目すべき指摘を行ったといえる。 第一は、ワシントンにおける占領政策全体の展開に際し、一貫して堅実な主導性を発揮したヒュー・ボートンの役割が極めて重要であったことである。初期占領教育政策は、ワシントンの全体政策にかなり影響されたからである。日本占領政策全体がより急進的なものであったならば、教育政策にもその影響が及び、急進的なアプローチがとられたであろう。ボートンの長年の日本での生活経験が、改革すべき日本社会の対して、思慮深く、賢明でバランスのとれた理解を示す背景となり、まさにこれが占領期の改革政策に求められたものであったというのが、著者の洞察の一つである。 第二は、南原繁の果たした役割を評価し、教育改革に対して日本側から貴重なインプットがなされたとしている点である。戦後教育改革に対する南原の参加・貢献については、これまでも多くの研究が指摘しており、南原自身の個々の具体的な言動も実証されている。しかし、南原の言動のもつ意味を、占領軍当局の側から、改革構想の形成過程に即して位置づけた論考は少ない。著者は、南原が日本側を代表するに足る意欲と能力のある人物であり、6-3-3制導入が彼のリーダーシップに負うところ大きかったことを立証し、教育改革政策はGHQの押し付けであったというような言説を否定している。著者は、教育改革は不可避であったが、これをCI&E教育課及び文部省だけ委ねていたならば、改革への道のりは遺恨と不信を招ねき困難になっていただろうとしている。 こうして、著者は、ボートンと南原という、比較文化的な観点を踏まえ、これを巧みに実施に移した非凡な二人の活躍が、戦後初期の教育改革過程を穏健で一貫したものに導いたことを強調している。 本論文は、従来、日本側の史料によっては解明されなかった対日占領初期の教育政策の形成過程に、アメリカ側の史料を使って光を当てたという点で大きな貢献をなすものである。最近、日本人研究者によってアメリカ側関連史料の本格的解明が開始されているが、著者はその先鞭を付けたと言ってよい。特に、ボートン、ボールス、南原といった改革過程で中心的な役割を果たした「人」(パーソナリティ)に焦点を当てることによって、状況と人物の出会いを解き明かすことに成功している。そのためにボートン、ボールス、オアー、西村巌など関係者へのインタビューも行い有用な証言を得ている。また、むしろ占領した側の史料を使うことによって間接統治と占領された日本側の積極的な「姿勢」が改革政策といかに結びついたかを明らかにした点も高く評価できる。 本論文にも問題点がないわけではない。人物に焦点を当てて改革過程を解明するならば、そうした人物と改革案の形成がどのように結びついていたかについてもう少し具体的に生き生きとした叙述と分析がほしかったところである。また、ジョン・デューイや南原繁について充分に思想的・哲学的な深みにまで立ち入っていない恨みもある。こうした点でせっかくの人物分析に掘り下げが不足し、やや平板になっているという印象を免れない。 しかし、こうした問題点は、最近公刊された「教育刷新委員会・教育刷新審議会会議録」など新たな史料の活用を含め、本論文の公表に際しての補強によって対処することが期待できるものであり、博士学位論文としての本論文の価値を大きく損なうものではない。よって、本論文は博士(学術)の学位を授与するに充分の資格があるものと判断する。 |