マックス・ウェーバーのエートス論を倫理学の立場から賦活するというのが私の目下の試みの大枠である。その際、「神義論(Theodizee)」・「心意倫理(Gesinnungsethik)」・「同胞愛(Bruderlichkeit)」という、従来あまり注視されてこなかった重要な概念に着目している。それは、人間の担っている「エートス」をいくらか構造的に把握するためには、自己と超越者との関係(世界像)・自己の信念と自己の行為との関係(自律性)・自己と他者との関係(共存性)という三つのレヴェルヘと分節化することが有効ではないかと私は考えており、ウェーバー宗教社会学の中でこの三つのレヴェルに対応する概念として「神義論」と「心意倫理」と「同胞愛」が見出せるからである。 そして、これら三概念をいかなる方向で考察していくのかという点では次の二つの軌道を想定している。 第一に、ウェーバーの概念設定は、カントやニーチェといった思想家の影響を様々な形で受容しており、この点を顕在化させることによって、従来社会科学者(もしくは社会学者)というイメージの強いウェーバーの思想を倫理学あるいは宗教哲学の系譜の中に位置づけ、その倫理学的意義を検討するという軌道。 第二に、ウェーバーはそれらの概念を使って形而上学を打ち立てたわけではなく、諸文化地域のエートスの比較という作業を試みたわけであり、その視座を継承しつつ、日本人のエートスにおいて「神義論」・「心意倫理」・「同胞愛」はいかなる様相を見出せるのかを探究するという軌道. この二つの軌道を折衝させる営みの中に倫理学を定位させたいというのが私の見通しである。ウェーバー宗教社会学は、上述の二つの軌道を惹起する機軸となるという点で有効性をもっているものと私は考えている. 二つの軌道に対応して、本稿では、ウェーバーの「神義論」・「心意倫理」・「同胞愛」の意味とそこに込められた価値関心を、ウェーバーの叙述の把捉・再構成を中心とし、ウェーバー以前の使用例の参照や先行ウェーバー研究の検討なども交えて、極力さぐりだす試み(第二・四・六章)と、この三概念それぞれに相当する思想を日本の過去の諸思想の中に探索し、ウェーバーの見ていたものとのズレを見出すことを通じて日本の諸思想(ひいては現代日本人にまで及ぶエートス)の特質のいくつかに光をあてようとする試み(第三・五・七章)とを並置した。第八・九章において「ルサンティマン」をとりあげたのは、第一に「ルサンティマン」概念は上の三概念(とくに「神義論」)と密接に関わるものであり、第二に近年しばしば議論されるようになったウェーバーとニーチェとの関係という問題の立て方において「ルサンティマン」概念はキーワードたらざるをえない、という理由による. |