内容要旨 | | 肉親や近隣住民の死をどのように受け止め,対応・処理し,その欠落感・喪失感を埋めてゆくか.そのための仕組みは,さまざまな社会の中で慣習として形成されている.しかし葬送や墓地の在り方は,決して不変ではない.従来のやり方よりも魅力的な方法が提案され,多くの人々がそれを受容してゆけば,葬送墓制が大きく変化することもあり得る.そして,多くの人々が新方式に従うためには,彼らの属する社会に,それを可能にする一定の条件が備わっていることが必要であろう.したがって,過去の社会の葬送墓制を究明することは,その社会が到達していた歴史的条件に迫るひとつの道ではないだろうか.本論文では,葬送墓制の具体相と,寺院側の対応を追及することにより,中世後期の都市領主階層の特質や,都市や村における地縁的共同体の性格の一面を照らし出し,また,「葬式仏教化」と呼ばれる経過の積極的側面を強調しようと試みた. 第一に,中世都市研究との関連性を強調すべく,中世後期〜近世前期の都市京都における葬送墓制,火葬場の実態と変遷を具体的に跡付けた.また,葬送の特異な慣習や,葬地の地名についても詮索してみた.人口の集中する都市の環境問題のひとつとして,間違いなく,日々大量に発生する都市住民の遺体処理がある.中世都市では,これはどのように行なわれていたのか.墓地や火葬場,あるいはそこで働く三昧聖の有り様を明らかにすることによって,中世都市における規制の在り方や,都市の非人集団の活動などを議論する素材を提供できると考える.また,都市の領主階級の葬送墓制モードは,単純な伝播波及ではないにせよ,都市の一般住民や外部の村々の住民の葬送墓制スタイルにも何がしかの影響を残したのではあるまいか.とすれば,中世の都市領主の特殊な葬送墓制慣習を明らかにすることで,同時代の他の地域や,近世以降の各地に見られる慣習との,比較や互いの位置付けを将来可能にするかもしれない. 第二に,地域の住民の寺院への期待と,それに応えて境内を地域住民の葬送・追善の場として開放し,彼らを檀家として囲い込むことで存立の基盤を固めようとしていた戦国期の寺院の営業展開を明らかにしたい.「葬式仏教」と呼ばれる近世以降の在り方の基盤を準備したのは,中世後期の社会と寺院との新しい関わり方であった.中世後期には各地域において,住民主導で新たに設立されたり,あるいは既存の末端寺院が衣替えする形で,地域住民のための菩提寺が続々と誕生していた.ほとんど寺領をもたず,また,中世の正統派顕密仏教の本末支配システムに依存しない地域の新興寺院は,葬送・追善供養を通じて地元住民を檀家に獲得したが,このような葬祭寺院の活動には当初,伝統的顕密寺社勢力の側から制肘を受け,またその本末・門前支配システムに依存する非人団体からも,既得権侵害に対する補償要求を突き付けられた.葬祭寺院はこれらの障害を乗り越えて,地域住民との寺檀関係を自律的に形成していったのである. 第三に,都市と村(惣村地帯)での墓地のあり方の違いを,都市の境内墓地,村の惣墓という対比でとらえてみた.戦国期の畿内都市からは尼崎と堺を選んで検討し,惣墓については和泉国と,大和国布留郷を素材とした.墓地の在り方は,地縁的共同体(町や村)の特質に関わることが予想される.中世後期には,各地で自立的な都市共同体(町)や惣村が結成されたが,これらの地縁的共同体は,所属住民の墓所をどのように確保していたのだろうか.京都・尼崎・堺といった都市においては,地縁的共同体が規制・管理する集中的共同墓地が見られず,都市住民は,各自の判断で自らの墓所を諸寺院の境内に求めていたと思われる.これに対し畿内惣村地帯では,惣墓と呼ばれる大規模な地縁的共同墓地が発達し,村々は連合して墓地を管理・運営していた.地縁で結ばれた生活共同体であっても,死後に鎮まる場の確保については,都市と村では対応が分かれるのである.村の住民が,死後も墓地を共有して地縁で結ばれ続けるのに対し,都市の住民は,死後は寺縁(檀家の共同墓地)ヘスイッチする.都市と村の特質の違いは,ここにも現われている. |