朝鮮の農村社会は農民の生活の場である洞里とその上位の地域単位である面、そして郡に構成されていたが、洞里には植民地化以前の時期まで地域名望家層を中心とする自治運営の慣行が貫徹していた。総督府は農村社会を全面的に支配していくため、農村の各地域単位を直接的に支配していかなければならなかった。自治運営の担い手である地域名望家層が義兵抗争などを通じて異民族支配に抵抗したため、「名望家支配」による植民地統治が事実上不可能な状況にあったためである。 総督府はまず自治基盤の微弱であった面を末端行政単位に設定し、それを前哨基地に地方支配体制を構築しようとした。1910年代には郡面洞里統廃合措置及び面制の実施を通じて既存の自治的地域運営を弱化させながら、法制的には支配体制の基盤を形成していった。1920年代に入って、総督府は面への行政力をより強化していくと同時に、面協議会制度の実施を通じて地域名望家層を体制内へ包摂する政策を実施した。しかし、それは農村の各地域単位を直接支配するために必要な条件を満たしたにすぎず、この時期までは郡一面につながる行政支配と洞里の自治的運営が同時併存していた。1920年代末の模範部落政策と1930年代の農村振興運動は、洞里を直接掌握する条件を充足させるために総督府が実施した本格的な政策に他ならなかった。総督府はこうした政策の展開を通じて1930年代末、既存の自治的地域運営慣行を無力化させ、郡--面--洞里につながる体系的な地方支配体制を完成するにいたった。これは既存の自治的地域運営の慣行に代替する新しい官治的地域公共性の創出過程に他ならなかった。 こうした変動に主体的に対応しつつ、植民地支配に積極的に抵抗していった中心勢力は地域名望家層であった。かれらは自分たちの社会的地位を基盤に農民を全村的に動員しながら、三・一運動、1920年代の地方青年会運動・小作人会運動・新幹会運動、1930年代の赤色農民組合運動などを主導していった。しかし、1930年代に支配体制が完成されかれらの機能する空間が喪失されることによって、結局名望家層を中心とする運動は基本的な限界にぶつかってしまう。以後、局地的ではあるが、咸鏡道地方を中心に農民層主導下での運動が展開され、総督府の全面的地方支配に対応する新しい次元の農村社会運動が発芽するにいたる。 |