江戸時代には、幕府の執拗な宗教管理政策や、徹底した現実原理に即して動き出す町人社会の拡大および定着などに影響され、ある意味においては非宗教的ともいうべきような合理的な現世中心主義のエトスが社会の底辺にあったとみることが可能であろう。もっとも江戸時代には、他方において、「おかげまいり」や「ええじゃないか」で象徴されるように、広範な大衆の集団的パトスが宗教を媒介として展開され、しかもとりわけ幕末期において、新宗教の一般的成立や展開でもって代表されるような「新しい信仰の高揚期」でもあった。本稿の目的は、この幕末期の新宗教における救済思想の宗教的エトスを明らかにし、それを「現世における超越の思想」として把握していくことにある。 その際、検討対象としては、まず幕末期の新宗教のなかで代表的なものとされる如来教・黒住教・天理教・金光教などの思想を中心とし、そのほか必要によって、新宗教の原型ともいうべき富士講・楔教・丸山教などの思想を含め、さらに山崎闇斎・伊藤仁斎・安藤昌益・本居宣長など、近世日本の知識人の思想および石門心学の思想をも視野に入れることにする。そして具体的な論旨の展開においては、「二元的世界」・「悪と苦難の問題」・「心と超越」といった三つの論点を手がかりとする本稿の構成は次の通りである。 まず「序」では、先の三つの論点とそれぞれ対応する三つの「救済」のイメージが提示される。つまり本稿でいう「救済」とは、ひとまず「二元的世界」の対立的な諸要素を「調和」させる側面、「悪と苦難」の問題に対する何らかの「問い」と「答え」を提示する側面、「超越」に関わる側面などを含むものである。 予備的理解としての歴史的概観を行う第一章では、江戸時代の文化的エトス(役の体系、武士道精神、町人文化における現世中心主義)、江戸時代の全般的な宗教地形の概観、幕末期の「行き詰まり」的な時代状況およびそうした時代に成立ないし発展した如来教・黒住教・天理教・金光教などの思想的基盤や展開過程に対する概観などが述べられる。 第二章では、これまでの新宗教の研究史を概観するとともに、新宗教思想のキー概念ともいうべき「生命主義的救済観」、「親神思想」、「生き神思想」、「心なおし」などについて検討する。そこで本稿の方法論的観点が「内在的理解」にあること、また本稿の最終的な関心が「現世における超越」を問うことにあることをも明示する。 第三章では「二元的世界」という論点をめぐって、天理教と黒住教の救済思想を照明し、それを安藤昌益の思想構造と対比させつつ、これらが「二元的世界」の「調和」を求めるものであることを明らかにする。 第四章では、「悪と苦難」の問題を中心に如来教と金光教の救済思想を検討し、それが「悪と苦難」への積極的な働きかけという特色を示すものであることを究明する一方、本居宣長の思想構造についてもふれる。 第五章では、「理」よりも「事」を重視する日本の仏教思想の流れと、朱子学的普遍原理である「理」を否定していく近世儒学思想とをパラレルに論じつつ、仏教思想・神道思想・儒学思想・心学思想などにおける心観を分析するなかで、そこから「超越の内在化」のエトスを見出し、それを天理教における「理」観や「心」観に対比させ、新宗教の救済思想が「心なおし」による「内在的超越」を求めるものであることを確認する。 第六章では、第二章以下第五章までの言及内容を総合的に振り返りつつ、問題点および対案について考えてみる。その際「現世における超越」の内容や意味は、「生命力」の強い希求、「二元的世界」の素直な受容や「調和」の追求、「悪と苦難」への積極的な関わり方、「心」の普遍性と無限の可能性に対する信頼といった四点に要約され得る。このように、美点や可能性を評価する一方、そこに見られる問題点を広く日本の思想構造や現代社会の倫理的問題と結び付けて考える。その際、「悪の実体を否認するオプティミズムの問題」と「土着的神国思想の痕跡と関わるナショナリズムの問題」を「救済のパラドクス」とし、それを避け難い人間の条件に由来するものと捉える一方、そうした「救済のパラドクス」をさらに日本の近世思想や現代の倫理思想に関連づけながら、「緊張ある対話の持続」による「パラドクスの救済」という理念を措定してみる。 要するに、本稿でいう「現世における超越」とは、「生命力の強い希求」や「人間に対する強い信頼」に由来する「心なおしによる自己超越=超越の内在化」というイメージと密接な関わりを持つものであり、そうした「現世における超越の思想」として特徴づけられる新宗教の救済思想は、「二元的世界」の中のあらゆる「悪と苦難」によって衰えた「生命力」なり「調和」なり「創造的緊張」なりの回復を目指すものといえよう。 |