学位論文要旨



No 111599
著者(漢字) 村上,郁也
著者(英字)
著者(カナ) ムラカミ,イクヤ
標題(和) 視覚運動情報に基づく分節化および統合の処理過程
標題(洋)
報告番号 111599
報告番号 甲11599
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(心理学)
学位記番号 博人社第143号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 立花,政夫
 東京大学 教授 二木,宏明
 東京大学 助教授 佐藤,隆夫
 東京大学 教授 河内,十郎
 東京大学 助教授 下條,信輔
内容要旨

 ヒトの視覚運動情報処理のうち,運動情報に基づく視野の分節化は運動対象の図地分化などにとって重要であり,運動情報に基づく統合は1つないしそれ以上の面の形成などにとって重要である.本研究ではこれら2種類の情報処理過程の仕組み,およびそれらの相互作用の仕組みを解明すべく心理物理学的実験を行った.

 まず運動情報に基づく分節化の処理過程に関しては,「運動コントラスト検出器」(選好運動方向に関する中心一周辺拮抗型の受容野をもち,視野の内部表現において網膜部位特異的に並んでいる処理単位)を提案し,それが実際に視覚系に実装されて機能している心理物理学的証拠を得た.視野内に同心円状の領域を設定して中心と周辺いずれにもランダム・ドット・パタンの運動刺激を呈示した.周辺に強い運動成分が存在する場合に,中心が静止して見えるために中心に実際に加えなければならない運動成分(静止の主観的等価点)をもって,周辺の運動が中心の運動検出に及ぼす修飾の量とした.さまざまな刺激サイズ・偏心度にて周辺修飾の量を測定した結果,正の周辺修飾が最大になる最適刺激サイズがあること,最適刺激サイズは偏心度の関数として移動すること,がわかった.空間スケーリングの手続きを用いて刺激サイズをスケールした結果,刺激サイズ依存性は偏心度にかかわらず同じような曲線形状を描いた.曲線が帯域通過特性を示すことと,線形のスケーリング係数を導入して測定結果がよく記述されろことから,運動コントラスト検出器が生物学的に妥当な形で実装され,機能していることが示唆された.

 次に運動情報に基づく統合の処理過程に関しては,まず盲点における知覚的充填の現象を扱った.充填の内部表現のありようを明らかにするために,充填した運動で順応した後で盲点内部に運動残効が生じるか否かを調べた.右眼盲点で充填が生じた結果知覚される運動に順応した後で,右眼盲点に対応する視野領域において試験刺激を左眼に呈示したところ,有意な運動残効の両眼間転移が観察された.その運動残効は実際運動で相殺することが可能だった.これらの結果から,盲点における充填の内部表現は網膜部位特異的で,運動残効一般の責任中枢と同一の処理過程によって処理されていることが示唆された.

 運動情報に基づく統合の過程を調べるもうひとつの研究として,運動透明視の現象を扱った.特徴追跡や空間周波数・方位フィルタリングなどでは説明できない刺激布置を新たに開発し,そこに生じる運動透明視の生成機序を明らかにするために,運動透明視の輝度依存特性を調べた.その結果,輝度に基づく透明視の法則では許されないはずの輝度階調を用いたときにも運動透明視は顕著に生じ,同法則が制約条件として用いられている可能性が低くなった.残る可能性としては運動感覚エネルギーのモデルがあるが,同モデルに実験結果が合致しているか否かを調べるためにシミュレーションを行い,心理物理学的結果とシミュレーション結果との間によい一致をみた.したがって,運動感覚エネルギーの情報を用いた運動透明視の処理過程が存在することが示唆された.また,運動感覚エネルギーを時空間加算する過程の定量的特性をみるために,呈示時間,2枚の運動面の運動方向の角度差,要素運動の運動方向のばらつき範囲などを操作して運動透明視が生じるために必要な必要条件を調べた.その結果,ばらつき範囲と呈示時間との間にトレード・オフの関係がみられ,ばらつき範囲と角度差との間にもトレード・オフの関係がみられた.このことから,運動情報処理系内部に動的に形成される活性化パタンの分布から,表現されるべき面の個数が判別されるという可能性が示唆された.

 最後に,運動情報に基づく分節化の過程と統合の過程との相互関係がどうなっているのかをみるために,分節化の過程が関与していると考えられる誘導運動/運動捕捉の現象をとりあげ,統合の過程が関与していると考えられる運動透明視図形をその誘導図形として用いて,錯視の生じる方向を調べた.その結果,誘導運動の方向は刺激に与える両眼視差に依存しており,運動捕捉の方向は誘導図形の見えの奥行き順序に依存していると結論し,複数の処理過程の間の階層構造をモデル化した.すなわち,誘導運動の責任中枢は運動捕捉の責任中枢とはおそらく独立・並列に位置しており,両眼視差の情報を入力として受けるのに対して,運動捕捉の責任中枢は運動透明視の責任中枢の処理の結果を入力として受けるというものである.

 以上の実験結果から,神経生理学的知見と一貫した脳内運動情報処理機構のモデルとしてどのようなものが考えられるかを考察した.運動感覚エネルギーがV1野において検出され,分節化の処理過程と統合の処理過程とはいずれもMT野の下位区分として存在しているモデルを提案した.

審査要旨

 人間の視覚系は時々刻々変化する網膜入力から外界の構造に関する情報を抽出する機能を持つが、中でも運動視は対象の構造や運動ばかりではなく、自己の環境に対する運動について正確な情報を与え得る点で、きわめて重要である。この学位請求論文は、運動視の多岐にわたる機能に注目し、心理物理学的方法によって測定したデータを、計算論的モデルや神経生理学的知見と比較検討した,きわめて優秀な論文である。

 本論文の第一の特徴は、その手堅い心理物理学的方法にある。人の知覚機能を実験的に研究しようとする際の最大の困難は、信頼に足る客観的データを得る難しさにあるが、明快な仮説と入念な方法によって、きわめて信頼できる知見を得たものと評価できる。とりわけ盲点の知覚的充填に関する知見などは、この分野における長年の論争の行方に決定的影響を与える独創的な知見である。

 第二の特徴として、モデルの明確さと計算論的な分析の周到さを挙げることができる。実験結果をはっきり予測できる明確なモデルを提示し、必要に応じてシミュレーションなどの手法も取り入れながら、モデルの妥当性を多角的に検証している。

 さらに第三の特徴として、こうした計算論的モデルを大脳視覚皮質の神経情報処理に関する最新の知見とも比較した点を指摘できる。単に計算論上の可能性を述べるにとどまらず、生理学的メカニズムについても十分に説得力のある考察を展開している。

 以上をまとめるなら、本論文は運動知覚のある側面が比較的単純な神経科学的モデルと合致することを、学際的な知識と方法とを動員して総括的に示したものであり、国際水準に照らしてもきわめて優れた論文である。そこで当審査委員会は、この論文が博士(心理学)論文として、学位に十分値するものと判断する。

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