学位論文要旨



No 111601
著者(漢字) 長野,徹
著者(英字)
著者(カナ) ナガノ,トオル
標題(和) ディーノ・ブッツァーティの作品における〈幻想〉の主題と構造
標題(洋)
報告番号 111601
報告番号 甲11601
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第145号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 長神,悟
 東京大学 助教授 浦,一章
 東京大学 教授 田村,毅
 東京大学 助教授 中地,義和
 東京大学 教授 長谷見,一雄
内容要旨

 本論文の目的は、イタリアの現代作家ディーノ・ブッツァーティの小説作品における〈幻想〉の諸表現の分析を通じて、彼の文学的時空間を成り立たせ、〈幻想〉の生成条件となっている基本的な原理、メカニズムを解明することにある。そして、これまで個々に論じられることが多かったブッツァーティ文学の諸テーマ、モチーフを整理し、相互の連関を明らかにしつつ、彼の物語世界の構造を可能な限り、全体的な像として提示することを目指す。

 第1章では、予備的考察として、ブッツァーティの物語世界像の雛型とも言える短篇「七人の使者」の分析を通じて、彼の小説テクストの基本的特質とされる〈幻想〉および〈寓意〉の概念に検討が加えられ、ブッツァーティ文学において、〈幻想〉と〈寓意〉は、〈現実〉の隠された本質を明るみに引き出し、トータルな世界認識に迫り、その現象世界の実相を言語的・芸術的に把握するための方法という共通の機能をもっていることが指摘される。

 第2章から第6章においては、彼の物語世界を形づくっている、諸々の主題、原理、形象、構造が、個々の作品の検討を通して分析される。

 第2章では、彼の小説作品において、〈無気味さ〉の感覚を生み出す心理的なメカニズムが、幻想の生成装置として機能していることが解明され、〈理性〉や〈合理主義〉と〈非合理なもの〉との対決の主題が諸作品において変奏されていることが指摘される。

 第3章では、幻想的な物語に本質的に内在する二項対立と〈境界性〉の構造、および既存の秩序の転覆を惹起する〈グロテスク〉の機能が、ブッツァーティが提示する諸形象において、いかなる形で具現化されているかが検討される。

 第4章では、合理的因果関係や科学的な認識を崩壊せしめる非合理で夢幻的な物語世界の論理がとりあげられる。さらに、事物や人間の運命を根底的に規定している隠れた法則、神秘的・魔術的な因果関係の支配について言及する。

 第5章では、ブッツァーティの幻想世界における〈ノンセンス〉性と〈不在〉のイメージが分析される。

 第6章では、『山のバルナボ』、『古い森の秘密』、『タタール人の砂漠』の3つの長編小説にみられる〈探求〉の主題が、物語の時間的・空間的構造との関連のもとに考察される。ブッツァーティの〈探求〉の主題は、存在の破壊者としての時間の非人間的で仮借のない作用下にあって、生の究極的な意味を発見すること、またそれによって無機的な時間の流れを有意味的なカイロスの時間に変容させることを目指し、それは、典型的には、意味論的に対立関係にある二つの場所、空間領域をめぐって展開される。またこの探求は、ある種のヒロイズムの感覚を投射させた生の冒険としての性格を有することが指摘される。

審査要旨

 論文「ディーノ・ブッツァーティの作品における〈幻想〉の主題と構造」は,イタリア現代作家ディーノ・ブッツァーティ(1906-72)の初期の長編小説3編や彼がもっとも本領を発揮した短編作品を対象としながら,ブッツァーティの「幻想」のメカニズムと,この「幻想」によって伝達される主題・メッセージがいかに生成されたかを,具体的かつ詳細にきわめて明晰に分析している.まず「幻想」のメカニズムとしては,正常/異常,存在/非存在,意味/無意味,自然(因果)/超自然(超因果),意識/無意識などの間に通常引かれている「境界線」をとり外すことによって,常識の枠からはみ出た,謎めいた混沌とした世界が意識的に創りだされる.そこから不安や恐怖,カタストロフィ,グロテスク,アイロニー,ブラック・ユーモアなどの効果が産みだされる仕組が,論文においては豊富な例証とともに説得的に解明されている.「境界線」によって人間の生は矮小化しているが,「部分化した生」の「全体性回復」にむけての「探求」がブッツァーティの重要な主題を形成する.だが,「回復」をもたらすはずの決定的な出来事は生ぜず,ひとは実現する見込みもない試みを虚しく「反復」したり,いつ果てるとも知れない苦しい「待機」を強いられることになる.「敗北」と「失敗」が眼に見えているような「探求」の試みに果敢にとり組むこと.いわば「不条理な人間の運命」に勇敢に反抗すること.そこにブッツァーティが「英雄的な生き方」を見出し,ともに困難な「探求」の課題にとり組む同志たちの間に結社的・運命共同体的雰囲気を醸しだしている点を,論文は鋭く指摘している.また,「寓意」が認識的側面,すなわち不可解な現実・世界を,言語によって分節化し,物語の構造の中に掬いとるという側面を有していることに注目して,プッツァーティの「幻想」が「寓意」的色彩をも帯びているとしているのは,正鵠を得た指摘と言えよう.

 論文はブッツァーティの文学と「寓話・お伽話」との類似を強調している.ただ,字義/転義の境を越える「幻想」のことばと詩的言語の類似はもっと掘り下げて究明すべき課題であろうし,不条理文学との関連も,ブッツァーティ文学に関する研究とあわせ,もっと言及すべきであったろう.また,プッツァーティ的な「幻想」の世界の生成に,屈折的にではあれ重要な影響を及ぼしたと考えられる伝記的な事実(全体主義の経験)へのより一層の言及があれば,論文はますます視野の拡がりを獲得し,テクスト理解の幅が増したことであろう.

 しかしながら,このような不足は今後の研究によって埋められていくであろうし,論文はその発展のための堅固な基礎としての要件を十分以上に満たしている.よって審査委員会は,論文「ディーノ・ブッツァーティの作品における〈幻想〉の主題と構造」が「博士(文学)」の学位に値するとの結論に達した.

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