この論文は、二十世紀前半に活動し、今日でもなお影響を与え続けているドイツの批評家・作家であるヴァルター・ベンヤミンの批評作品全般をイメージと〈批評〉という二つの要素を軸に、包括的に解釈したものである。 ベンヤミンの批評作品におけるイメージ(Bild、像あるいは形象)という概念は、かれの批評活動の関心の推移により、その意味を変えている。初期の『ゲーテの親和力』においてベンヤミンは自身のイメージ〈批評〉の原型を確立し、それが、これまた初期の作品である『ドイツ悲劇の根源』の「認識批判的序論」の思想的内容に受け継がれていくと考えられる。しかし、後期ベンヤミンのボードレール論や『パッサージュ論』、また.『複製技術時代の芸術作品』やブレヒト論においては、イメージ概念の意味するところは違ってきている。初期のイメージ概念が言葉によって呼び起こされた文学的なイメージであるのに対して、たとえば『バッサージュ論』で十九世紀〈モデルネ〉を扱うときにイメージは商品が担うイメージ(例、広告)であり、また『複製技術時代の芸術作品』においてイメージはいわゆる映像イメージである。要するに、ベンヤミンのイメージ概念は三段階を踏んでおり、それぞれの時代の特徴を負っている。 初期ベンヤミンのイメージ〈批評〉は、いわば「テクストの形而上学」に根ざした志向を持つものである。つまり、初期のイメージ〈批評〉は芸術作品におけるイメージを仮象と否定しつつ、それを〈批評〉という言語空間に翻訳する作業であった。ベンヤミンはイメージを哲学的真理に奉仕するものに位置づける。ベンヤミンの〈批評〉の言葉はいわばイメージを穿ち、そのことにより作品から飛び出してくる美的イメージをして、真理の全体像(イデアール、理想)を暗示するトルソーにする。ベンヤミンは、その暗示を観照するに留まる。ベンヤミンのイメージ〈批評〉は、いわば美が真理に縋る瞬間に、美を観照するという姿勢をとる。〈批評〉はその時点ではもう、イメージに問い尋ね、それを公式化することを止める。 この初期で確立したイメージ〈批評〉の姿勢が後期の著作において変化する。たとえば『複製技術時代の芸術作品』では、イメージの観照という、瞑想ともとれる姿勢が斥けられ、むしろ映像イメージに積極的に関与するモンタージュという技法が肯定される。ベンヤミンはそこでまた、複製芸術によるアウラの崩壊ということも述べているが、そのこととイメージ〈批評〉概念の変遷とは関連がある。アウラは「遥けさの一回限りの現象」であるが、モンタージュという技法は、イメージがそのような〈遥けさ〉のなかにあることを許さない。それは、初期ベンヤミンのイメージ〈批評〉がイメージの観照の必然を強調していたのと対照的である。 後期ベンヤミンの十九世紀パリ〈モデルネ〉諭や複製芸術論に関して、前者が商品イメージ、また後者が映像イメージに関するものであるから、イメージをめぐる今日のわれわれの状況に通じるものがそこにあるのだ、とも言える。しかし、ベンヤミンの時代からゆうに半世紀経ったわれわれの現在において、その言説のアクチャリティーを説くことは本論の目指すところではない。ベンヤミンという思索者の、歴史に刻み込まれた像をめぐり思索すること、そのことが本論では重要と考えた。 |