学位論文要旨



No 111604
著者(漢字) 大六,一志
著者(英字)
著者(カナ) ダイロク,ヒトシ
標題(和) かな文字の読みの習得過程 : 発達遅滞事例の縦断的研究による検討
標題(洋)
報告番号 111604
報告番号 甲11604
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(心理学)
学位記番号 博人社第148号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 二木,宏明
 東京大学 助教授 高野,陽太郎
 東京大学 教授 河内,十郎
 東京大学 助教授 丹野,義彦
 筑波大学 教授 小林,重雄
内容要旨

 本研究では,発達遅滞事例に対するかな文字の教育実験を通して,読みの習得に関する先行理論の矛盾点を明らかにし,代替となる理論の妥当性を検討した。

 欧米の読みの発達段階では,最初期に,文字列と語彙とを対にして記憶するロゴグラフィック段階が存在し,ついで,個々の文字と音の対応規則を利用して読むアルファベット段階になることが知られている。これに対し日本語かな文字においては,欧米のアルファベット段階に相当する逐字読み段階が最初期であると考えられてきた。しかし,実験1において,かな文字の読みを全く習得してない発達遅滞児に,単語文字列と絵の対応づけを教えたところ,被験児はこれを習得することができた。したがって,日本語かな文字にも欧米と同様のロゴグラフィック方略による読みの時期が存在し得ることが明らかになった。また,実験2において,実験1と同じ被験児に,紛らわしい文字列の中から正しい単語文字列を再認させる訓練をしたところ,被験児はこれを習得することができた。したがって,ロゴグラフィックな読み方略でも正確な文字列の再認が期待でき,逐字読み方略が習得されない場合の代償方略として利用できる可能性が示唆された。

 ロゴグラフィック段階に続くアルファベット段階(日本語では逐字読み段階に相当)では,文字と音の対応関係に基づいて文字列が読まれるようになるが,その習得には音韻に対する意識の発達が重要な役割を果たすことが知られている。欧米の文字は音素に対応するので,音素に対する意識が重要であるが,日本語かな文字の場合は,音節とほぼ等しいモーラに対応するので,モーラに対する意識が重要であると考えられる。日本語かな文字に関する従来の研究では,モーラに対する意識は,文字と音との対応関係が学習されるための(つまり,個々のかな文字が音読できるための)必要条件であると考えられてきた。これに対し筆者は,モーラに対する意識は,かな単語を逐字音読によって理解するための必要条件であると考えた。これらの仮説を検証するために行った実験3では,ある程度の数のかな文字が音読できるにもかかわらず,モーラに対する意識を測定する課題の中で最も初歩的な課題である,語をモーラ単位に分解する課題に正答できない発達遅滞児が見出された。したがって,モーラに対する意識は,個々のかな文字が音読できるための必要条件ではないことが明らかになった。また,この事例は,単語文字列を逐字音読できるが,絵と対応づけることはできないことが示された。さらに,モーラ意識を発達させるために,語をモーラ単位に分解する課題,および,単語の各モーラの音を報告する課題について訓練したところ,単語を絵と対応づけられるようになった。したがって,モーラに対する意識は,かな単語を逐字音読によって理解するための必要条件であることが示された。

 実験4では,実験3と同じ被験児について,実験1,2でその存在が確認されたロゴグラフィックな読み方略が,逐字読み方略の習得によって影響を受けるかどうかを調べた。その結果,逐字読み方略が習得されると,ロゴグラフィック方略は消滅してしまうことが明らかになった。欧米の研究では,文字列と語彙とを対にして記憶する方略は,読み発達遅滞者において,また,健常者でも不規則語の処理において使われ続けると考えられており,この点と比較すると,本実験で見出されたロゴグラフィック方略の消滅は,本研究で初めてとらえられた日本語かな文字特有の現象であるといえる。

 実験5では,拗音文字の音読に欧米並の音素レベルの意識が必要かどうかを検証するため,基本音節文字の習得は完了したが拗音文字は未習得の被験児に対し,音素に基づく語の分類課題の訓練を行い,拗音の音読習得への影響を調べた。しかし,音素に基づいて語が分類できるようにならないうちに拗音の音読は習得され,音素レベルの意識は拗音文字の音読にとって必要条件ではないことが明らかになった。むしろ,同じ被験児に対し,2文字が組み合わさって1つの音を作る音の混成という規則を理解させる訓練を行ったところ,拗音文字の音読が習得された。したがって,混成の理解が拗音文字音読の必要条件であることが明らかになった。

審査要旨

 日本語かな文字の読みが習得できるためにはどのような能力があらかじめ備わっている必要があるかを明らかにすることは,かな文字の処理の機序を知る上でも,またかな文字の教育上も重要なことである。本論文は,発達障害事例に対する実験的訓練を通して,かな文字の読みの発達について,従来説とは異なる必要条件を明らかにした研究である。

 本論文の第一の特徴は,発達障害事例を用いていることで,発達が緩慢に進行する事例を用いることによって,無関係な発達的要因の干渉を極力抑え,読み能力とその必要条件となっている能力との影響関係のみを抽出することに成功している。その結果明らかにされた,モーラに対する意識が単語の音読の必要条件となっているという知見は,健常児を対象とした研究では捉えられていなかった,従来説を覆す独創的なものである。

 第二の特徴は,少数事例研究の実証的価値を高める工夫がなされていることで,教育的配慮とのバランスを保ちながらも,可能な限りの厳密な統制によりデータの信頼性の向上を実現することによって,条件統制の難しさや,標本数の少なさによる説得力の弱さなどの,事例研究に基づいて科学的理論を検討する場合に生じる問題点を克服している。また,既存の理論に対する反証というスタイルをとっていることも,説得力の強化に寄与している。本論文はこうした手法により,事例研究を,単なる応用研究・実践研究ではなく,基礎研究の手段とすることに成功している。

 第三の特徴は,理論的洞察の深さで,発達研究によく見られるような現象の序列化に終始することなく,成人の読みの先行研究なども参照して,機構的側面との矛盾が生じないよう配慮している。また,かな文字の先行研究のみならず,アルファベット言語の先行研究も参照し,読み機構の普遍性という観点も考慮している。

 以上を要約すれば,本論文は発達障害事例研究の方法論的洗練により,かな文字の読みの発達過程を,機構的モデルとも合致させつつ示した点に意義が認められる。そこで本審査委員会は,本論文が博士(心理学)の学位を授与するに十分な内容を持つものであると判断する。

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