学位論文要旨



No 111606
著者(漢字) 李,春利
著者(英字)
著者(カナ) リ,シュンリ
標題(和) 中国自動車産業における企業システムの形成と進化に関する研究
標題(洋)
報告番号 111606
報告番号 甲11606
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第102号
研究科 経済学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 藤本,隆宏
 東京大学 教授 安保,哲夫
 東京大学 教授 中兼,和津次
 東京大学 教授 田嶋,俊雄
 東京大学 教授 森,建資
内容要旨

 1.研究課題と方法(第1章) 本論文では、近年国際的な範囲で盛んになってきた企業システムの形成と進化の議論に中国の事例を加えるために、中国の自動車製造企業の生産・開発システムを取り上げ、中国における企業システムの発生・進化のダイナミックな過程を検証することを目的とする。具体的に国有企業の代表格である「第一汽車集団公司」(一汽)と「東風汽車公司」(東風)の事例を取り上げ、両社の企業システムの形成と進化のプロセス、そして企業行動と能力蓄積のパターンを検証・比較を行う。

 「中国では同じ制度・政策の制約下にある国有企業なのに、なぜ企業行動と市場でのパフォーマンスが異なるのか」という本論文の基本的な問いかけに対して、これまでの中国企業論では経済体制論・経済政策論的な視点からのアプローチが多く、地域特殊的なファクターの分析は充実していた。しかし、国有企業間の経営戦略と生産・製品開発システムの違い、企業システムの形成と進化のプロセスといった企業特殊的なファクターに対する実証分析は、必ずしも十分に行われていない。中国の企業行動の分析に企業システムの実証分析にもとづいたミクロ的な基礎を与えようとするのが本論文の狙いである。

 研究方法については基本的に現地実態調査による一次基礎データを主とし、それに加えて既存の文献と広報資料を最大限に活用し、これを補完するように努めた。中国自動車産業に対する現地調査はこれまで5回行なってきたが、そのうち、分析対象の一汽に対して3回、東風には2回直接調査を行なった。

 2.分析の枠組(第2章) 方法論については、本論文は、理論面では基本的にいわゆる「経営資源-競争能力アプローチ(resource-capability view of the firm)」とよばれる理論的枠組に基づいている。「経営資源-競争能力アプローチ」とは、経営戦略論の分野における企業行動や競争力の企業間格差を説明する1つのフレームワークであり、具体的には深層的な企業内部の経営資源と競争能力を透視することによって、企業行動の表面現象を越えて競争力の企業間格差を説明しようとするものである。

 本論文では、制度転換期の中国の現実に即して関連要素を再構築し、「企業進化と能力蓄積のプロセス」という分析の枠組を提示した。具体的には、経済制度と政策を市場の変化と並んで企業行動を制約する環境条件の1つとして位置づけ、「制度・政策-経営資源と競争能力-市場の変容」という政府・企業・市場の枠組の中における企業システムの進化と能力蓄積のプロセスを分析した。さらに、中国における企業進化と能力蓄積のプロセスを規定する諸要因として、(1)初期条件の克服、(2)競争体験、(3)進化能力、(4)業界の構造的特性などをあげ、独自の研究設計を行った。

 3.概観:中国自動車産業の歴史的展開(第3章) 中国自動車産業の発展の歴史について、「重層的分業構造の形成と階層分解」という独自のモデルを用いて産業成立期から今日までの発展過程を概観し、企業進化の経済的・歴史的背景を提示した。

 4.第一汽車におけるフォード・システムの導入と生産システムの進化(第4章)

 一汽の生産システムの特徴は、成熟したフォード・システムの一貫生産体制の確立から始まったことである。本章はフォード・システムの受容と変容という視点から、一汽の企業システムの形成と進化の過程を整合的に分析することを試みた。80年代以降の一汽の企業システムの発展と進化の過程を貫いた基軸は市場競争への反応であった。

 (1)ソ連経由で導入されたフォード・システムは、一汽に移植された後も垂直統合と単一車種という初期の特徴が約30年間保存に近い形で保ってきた。80年代に入って改革開放政策の下で市場が変容し、国内における擬似的な市場競争の激化と外国の輸入車の衝撃に直面し、一汽は経営危機に陥り、製品戦略と生産システムを変化せざるを得なかった。

 (2)市場競争の激化に対する一汽の最初の反応は、86年の主力車種旧「解放」号のフルモデルチェンジであった。一方、硬直的な大量生産システムに内在していたフレキシビリティの欠如が災いのもとになり、一汽の技術変化に高い授業料を払わせることになった。

 (3)30年ぶりのフルモデルチェンジをめぐる惨烈な競争体験は、一汽にフレキシビリティの重要性を認識させ、企業システム全体の進化に反応連鎖をもたらした。その特徴は、製品と製造工程の両面におけるフレキシビリティの追求である。一汽は製品戦略を転換し、フルライン体制の構築を進め、総合自動車メーカーへの脱皮をはかろうとした。

 (4)一汽は80年に長春汽車研究所を吸収し、外生的に強いR&D能力を獲得し、製品開発の面でフルライン体制を可能にした。特に小型トラックの自主開発は、一汽の低価格戦略を可能にし、中国における本格的な価格競争のきっかけを作った。

 (5)生産システムの面では、一汽は81年の大野耐一の直接指導によるトヨタ生産方式の導入の試行を源流として、その後日野の技術指導でトランスミッション工場の建設を通じて、リーン生産方式を体系的に導入し、定着させた。日本の生産管理方式の導入は、一汽の生産システムにおけるフレキシビリティの向上に貢献した。

 5.東風汽車における生産・開発システムと企業間関係の形成と進化(第5章)

 東風汽車は、ソ連に対抗するために設立されたいわゆる「冷戦プロジェクト」という特別な設立経緯と、山間部という立地条件から、多分に企業特殊的な性格を持っている。その後、この初期条件の克服は東風の企業システムの形成と進化に大きな影響を与えた。

 (1)初期の製品選択の失敗と国家投資の不足による工場建設の中断という挫折の体験は、東風の80年代の経営戦略の形成に大きい影響を与えた。工場建設の資金需要から、東風は企業政府間の分配関係を見直す一方で、主力車種の東風号の技術的優位性を武器に、一汽と直接製品競争を展開し、急速なシェアの拡大を実現した。

 (2)東風号の市場シェアの拡大は、企業グループの成長と密接にリンクしていた。「東風グループ」の紐帯になっているのは、実質的に東風号のブランド力にもとづく市場支配力であった。東風は加盟企業に東風号の派生モデルや特殊用途車の生産を委託し、消費立地型の組立ネットワークを形成した。「東風グループ」の形成は企業間関係の新しい位置づけを意味するが、東風汽車と地方政府、中央政府の関係は企業集団の発展を制約していた。

 (3)単一主力車種によるシェア拡大に成功したことを受けて、東風は山間部での工場立地という初期条件の欠陥の克服を最優先し、新生産基地の建設に経営資源を集中的に投入した。そのために、フルライン体制の構築が遅れた。中型トラックの需要が飽和期に入ってくると、単一主力車種に偏っていた東風の経営は行き詰まりを見せはじめた。

 (4)東風の開発組織は基本的に中型・大型トラックに向いた開発組織で、特にユニット部品の開発能力が強みである。しかし、東風は小型トラックや乗用車の開発経験が乏しく、この分野でのR&D能力の不足が製品戦略の展開を制約していた。

 (5)東風では80年代後半から日産ディーゼルに学び、「一個流し」を主とする日本の生産管理方式を導入したが、結局、それによって発生した余剰人員と遊休設備の処理問題で中断してしまった。計画経済の雇用最大化優先の論理に押され、日本の生産管理方式に関する価値観が組織メンバーの間で共有されていなかったためである。

 企業改革のパイオニアであった東風は、単一製品の競争で一汽に勝って、業界のトップになったが、市場の変容への対応が取り遅れ、フルライン体制の構築が遅れたのである。

 6.企業進化と能力蓄積:一汽と東風の比較(第6章)

 一汽と東風のそれぞれの事例研究の結果を踏まえて、企業進化と能力蓄積のプロセスを規定する諸要因の分析視角を用いて、一汽と東風の相違点の総合比較を行った。

 (1)工場立地の誤りという初期条件は、「冷戦プロジェクト」として発足した東風汽車の企業システムの進化の原点であった。東風は、条件さえ整えれば、初期条件の欠陥を克服し、山間部から出るという生産ロジスティクスの展開を優先している。一汽の初期条件の欠陥は敢えていえば、高度の垂直統合と単一車種という生産体制の硬直性であった。したがって、80年代後半の一汽の企業進化の方向は生産システムと製品構成にフレキシビリティを持たせていくことであった。東風のロジスティクスの優先と一汽の製品と工程の重視という企業戦略の違いは、この初期条件の違いによるところが大きい。

 (2)一汽と東風の市場における失敗もしくは成功の競争体験は、次期の経営戦略の形成に大きな影響を与えた。東風の初期の挫折は、その後の市場販売と品質管理、及び企業ネットワークの重視の姿勢につながり、80年代の東風号の競争優位性を生み出した。同じ論理で、一汽はフルモデルチェンジの惨烈な競争体験から、単一車種大量生産体制に内在していたフレキシビリティの欠如を発見し、80年半ば以降のフルライン戦略の導入やリーン生産方式の導入など、製品と生産システム両方のフレキシビリティの追求に転じた。

 (3)一汽と東風の企業間格差をもたらした最大の要因は、製品開発能力の格差である。中型トラックの競争が均質化するにつれて、90年代の主な競争の焦点はモデルの多様化にシフトしてきた。一汽がより多くの基本車種を開発できた背景には、長春汽車研究所を統合し、製品系列全体に対する理解能力と技術の流れを統合できる開発能力をある程度持っていたからである。両社間のR&D能力の格差は実質的に経営資源の格差である。

 (4)企業の進化能力の視点から一汽と東風の行動を見た場合、その違いが歴然である。日本の生産管理方式の導入をめぐって両社の明暗を分けたのは組織メンバーが新システムに関する価値観を共有し、知識の変化をもたらす組織的学習のメカニズムの有無であった。

 (5)一汽は一連の能力蓄積を通じて、自らの経営資源と経営戦略の間にある程度整合性を持つようになった。しかし、東風はトラックメーカーから総合的な自動車メーカーへの脱皮に必要な経営資源と経営戦略の間の整合性を現在まだ見出せない。東風は単一製品において競争力を持っていたが、単一製品の競争が均質化し、競争の焦点が次の段階にシフトした時に、経営戦略と生産システムの転換を適時に果たすことができなかった。つまり、東風は単一車種大量生産システムの論理から抜け出すことができなかったのである。

 従って、本論文では一汽と東風の比較を通じて明らかになった結論は、東風は静態的能力で一汽との直接競争で優位に立っていたが、動態的能力、つまり進化能力においては一汽に後れを取ったということである。環境条件が基本的に同じである一汽と東風の企業システムの形成と進化のプロセスを検討したことにより、企業の行動は、経営資源と競争能力の格差、及びその延長線にある経営戦略の差異に制約されていることが分かるであろう。

 「中国では同じ制度・政策の制約下にある国有企業なのに、なぜ企業行動と市場でのパフォーマンスが異なるのか」という基本的な問いかけに対して、本論文では、「経営資源-競争能力アプローチ」の枠組にもとづいて、中国自動車産業の代表的な国有企業、一汽と東風の生産・開発システムを対象に、その形成と進化のダイナミックな過程を体系的に考察、比較した。そのような分析により、同じ制度・政策の制約下にある両社の企業行動と市場でのパフォーマンスが異なる要因について、企業特殊的な要因と中国特殊的な環境要因を解明し、企業主体的な視点からある程度整合的に説明できたのではないかと考える。

審査要旨

 本論文は、中国の自動車製造企業、特に商用車の二大メーカーである第一汽車集団公司(一汽)と東風汽車公司(東風)を対象に、製造企業における生産・開発システムのダイナミックな進化過程を比較分析し、これらのシステムが持つ中国特殊的側面および企業特殊的側面を浮き彫りにすることを目的としている。論文は、全体で7章からなり、第1章が問題設定、第2章が分析枠組、第3章が中国自動車産業の概観、第4、第5章がそれぞれ一汽と東風の進化過程の分析、第6章が両ケースの比較分析、そして第7章が総括、という構成になっている。

 第1章では、「同じ制度・政策の制約下にある中国の国有企業なのに、なぜ企業行動や市場でのパフォーマンスが異なるのか」という形で基本的な問題設定を行った上で、これまでの中国企業論では経済体制論経済政策論的な視点からの「地域特殊性」の分析は充実していたものの、国有企業間の経営戦略と生産・製品開発システムの違い、あるいは企業システムの形成と進化のプロセスといった、「企業特殊性」に関する実証分析は必ずしも十分に行われてこなかったとして、本論文を研究史上に位置付けることを試みている。また研究方法としては、基本的に現地実態調査による一次データを主とし、既存の文献や企業広報資料でこれを補完するといった、フィールド調査中心の比較ケース分析を採用している。

 第2章では、本論文における分析枠組として、「経営資源-競争能力アプローチ(resource-capability of the firm)」が説明されている。資源・能力アプローチは、経営戦略論などの分野における企業行動や競争力の企業間格差を説明する1つのフレームワークであり、企業特殊的なファクターに関するダイナミックな分析という本論文の分析目的に適合した分析ツールだと主張されている。資源・能力アプローチは、元来は欧米の研究者によって提唱されてきたものであるが、本論文は、制度転換期の中国企業の実態に即してこれを再解釈し、「企業進化と能力蓄積のプロセス」というより具体的な分析枠組を提示している。すなわち、経済制度あるいは政策を、市場の変化と並んで、企業行動を制約する環境条件の一つとして位置づけ、「制度・政策-経営資源と競争能力-市場の変容」という3要素のダイナミックな相互作用として企業システムの進化と能力蓄積のプロセスを分析するとしている。具体的には、初期条件の克服、その後の競争体験からの学習、企業特殊的な進化能力、業界の構造特性などが、企業の能力構築プロセスを分析する上での鍵概念として提示されている。これらは、後段の実証分析に応用されている。

 第3章では、個別企業分析に先立って、中国自動車産業全体の歴史的展開が簡単に分析されている。ここでは、一汽の設立(ソ連からの技術移転)、それに続く中堅自動車メーカーの設立と製品別棲み分けバターンの形成、中央集権的なトラスト(中汽)の設立と解体、ローカルメーカーの簇生、中ソ対立を背景とした二汽(東風)の成立、外国企業の進出といった、主に戦後における中国自動車産業の歴史的発展プロセスを概観し、これらを、「重層的分業構造の形成とその階層分解」という概念によって総括している。

 以上を前提として、以下の章で一汽、東風両社の個別企業レベルでの分析およびその比較分析が展開される。

 まず第4章では、主に「フォード・システムの導入と生産システムの進化」という視点から、先発であった第一汽車における企業システムの形成と進化の過程が記述・分析されている。ここでは、1950年代にソ連経由で一汽に導入されたフォード・システムが、移植後も「垂直統合・単一車種」という初期の特徴を約30年間保存してきたことが指摘されている。その後、後述の二汽(東風)との競争の激化に対する最初の反応として、1986年に一汽の主力車種である旧「解放」号のフルモデルチェンジが行われるが、かつてのT型フォード生度体制にも似た単一車種路線の硬直性が災いのもとになり、このモデルチェンジでは非常に苦労した。結局そのことが一汽にフレキシビリティの重要性を認識させ、その後同社は、製品と製造工程の両面におけるフレキシビリティの追求へと転じるのである。すなわち、一汽は製品戦略を転換し、フルライン体制の構築を進め、また1980年に中国自動車産業最大の研究開発組織であった長春汽車研究所を吸収し、この戦略を製品開発能力の面でバックアップした。また生産システムの面では、トヨタ生産方式の試行をきっかけとして、いわゆるリーン生産方式の体系的な導入・定着を試みている。このような形で、一汽の企業システムは、初期条件に規定された制約とその克服、競争経験の蓄積とそれへの対応といったパターンを示しながら、ある程度企業特殊的な進化の経路をたどってきたと本論はまとめている。

 次に第5章では、二番手であった東風汽車における生産・開発システム、および企業間関係の形成と進化が記述・分析される。東風汽車は、ソ連に対抗するために設立されたいわゆる「冷戦プロジェクト」の一つであったという特殊な初期条件がその後の発展経路に影響しており、特に山間部という立地条件の克服にエネルギーを割いてきたことが、同社の企業システムの形成と進化のパターンを大きく規定してきたと主張されている。また、同じく初期における製品選択の失敗と国家投資の不足による工場建設の中断という体験は、東風の80年代の経営戦略の形成に少なからぬ影響を与えた。すなわち、まず主力車種の東風号が持っていた技術的優位性を武器に、一汽(解放号)と直接製品競争を展開し、急速なシェアの拡大を実現している。また、東風号のブランド力にもとづく市場支配力を背景に、企業グループ化を積極的に進め、これをてこにして、単一車種に頼った企業グループの成長を指向したのである。東風は加盟企業に東風号の派生モデルや特殊用途車の生産を委託し、消費立地型の組立ネットワークを形成した。

 一方、東風は山間部での工場立地という初期条件の欠陥の克服を最優先し、新生産基地の建設に経営資源を集中的に投入した。そのために、フルライン体制の構築が遅れた。中型トラックの需要が飽和期に入ってくると、単一主力車種に偏っていた東風の経営は行き詰まりを見せはじめた。また、東風の開発組織は基本的に中型・大型トラックに向いた体制であり、小型トラックや乗用車の開発経験は乏しく、この分野での開発能力の不足が製品戦略の展開を制約していたとされる。また生産面でも、東風では80年代後半から「一個流し」を主とする日本の生産管理方式を導入したものの、結局それによって発生した余剰人員と遊休設備の処理問題を解決できず、中断してしまったことが報告されている。

 以上のような国有の大手商用車メーカーニ社の個別分析に続いて、第6章では一汽と東風の企業進化と能力蓄積のプロセスに関する比較分析が試みられている。具体的な論点は、以下の5点にまとめられる。

 第一に、両社における初期条件の影響が比較されている。すなわち、東風汽車においては、工場立地の制約という初期条件が企業システムの進化のパターンに大きく影響しており、その後は、この初期条件を克服し、「山間部から出る」という生産ロジスティクスの展開を優先している。一方、一汽の初期条件がもたらす問題は、ソ連経由の初期フォードシステム導入を主因とする、高度の垂直統合と単一車種という生産体制の硬直性であった。したがって、80年代後半の一汽の企業進化の方向は、これを克服して生産システムと製品構成にフレキシビリティを持たせていくことだったのである。

 第二に、市場における失敗もしくは成功の競争体験からの学習が、次の段階における経営戦略の形成に大きな影響を与えたと指摘する。例えば、初期の東風汽車における製品面・資金面での困難は、その後の販売・品質管理・企業ネットワーク等の重視という姿勢につながった。一方、一汽は解放号のフルモデルチェンジで苦労した体験から、単一車種大量生産体制の欠陥を強く意識し、1980年半ば以降は、フルライン戦略やリーン生産方式の導入など、製品・生産両面におけるフレキシピリティの追求に転じたのである。

 第三に、一汽と東風の企業間格差をもたらした最大の原因の一つとして、製品開発能力の格差を挙げている。例えば、一汽がより多くの基本車種を開発できた背景には、長春汽車研究所を統合し、製品系列全体に対する理解能力と技術の流れを統合できる開発能力をある程度持っていたことがあると指摘している。

 第四に、リーン生産システムの導入を事例にして、企業固有の進化能力の視点から一汽と東風の行動が比較される。これに関しては、前述のように日本の生産管理方式の導入で両社の明暗(相対的には一汽は成功、東風は不成功)を分けた要因は、組織メンバーが新システムに関する価値観を共有しているが否が、また知識の変化をもたらす組織的学習のメカニズムが有るか無いかであった、と結論している。

 第五に、経営戦略の整合性が比較される。ここでは、一汽は一連の能力蓄積を通じて、経営資源と経営戦略の間にある程度整合性を持つようになったが、一方の東風はトラックメーカーから総合的な自動車メーカーへの脱皮に必要な経営資源と経営戦略の間の整合性をまだ見出せない、と評価している。

 最後に、第7章で以上の議論を総括している。すなわち、「東風は静態的能力で一汽との直接競争で優位に立っていたが、動態的能力、つまり進化能力においては一汽に後れを取った」というのが本論文における一つの結論である。また、このように、環境条件が基本的に同じである一汽と東風の企業システムの形成と進化のプロセスを検討したことにより、中国企業の場合でも、その行動は経営資源と競争能力の格差、及びその延長線にある経営戦略の差異に制約されているとしている。すなわち、冒頭の問題設定に呼応する形で、「同じ制度・政策の制約下にある両社の企業行動と市場でのパフォーマンスが異なる要因として、企業特殊的な要因と中国特殊的な環境要因を解明し、企業主体的な視点からある程度整合的に説明できた」と論文全体をまとめている。

 論文の概要は以上のとおりだが、これに対する審査委員会の評価は概ね以下のとおりである。

 第一に、中国企業の競争行動や組織能力が持つ地域特殊性は十分に把握した上で、なおかつ中国企業の企業特殊性の分析にある程度成功している、という意味でのバランスの良さが指摘される。すなわち、従来はどちらかといえばプラックボックスとされてきた、個別の中国企業における生産システムや開発システムに、新たな光を当てているといえる。この点で、中国経済論や中国産業論の分野で、実証研究面での独自の貢献が認められる。

 第二に、経営戦略論あるいは企業成長論の分野の一般的な枠組を修正・適用して、中国の製造企業を分析しようという試みが、一定の成功を収めていることが評価される。進化論的企業論、あるいは動態的な資源・能力アプローチといった、先進資本主義国の分析に使われるツールをあえて適用することによって、中国企業の特殊性には十分に目配りをしながらも、単なる特殊論を超えて国際比較を可能にする視点が確保されているといえよう。また、動態的な資源・能力アプローチ自体、先進資本主義国の事例も含めてミクロ組織レベルの実証分析の事例はまだそれほど多くなく、その意味では、経営戦略論・企業論一般に対しても、一定の実証研究的な貢献があるとみなせる。

 第三に、問題設定、分析枠組、実証分析の間に一貫性があり、概して論旨が明快である。全体の構成も体系的で比較的バランスがとれている。

 第四に、現地実態調査の結果や、これまで発掘されていなかった資料を多く使っており、一次資料に基づく実証分析が出来ている。特に、製品開発体制や、中国メーカーへのトヨタ的生産システムの導入過程など、従来学界では知られていなかった、資料価値の高いデータが収集できているといえよう。

 反面、本論文は以下の点で改善が求められる。第一に、一汽と東風の比較を際立たせようする狙いが強すぎる結果か、両社のパフォーマンスのコントラストを必要以上に強調しているきらいがある。この論文では、現状では一汽がアドバンテージを持つという現状評価から出発しつつ、そこから過去に遡り、東風が不利であると結論づけているが、これは局面が変われば逆転の可能性もあるという程度の差のようであり、「一汽が優位」という結論が長期的に見てどの程度確かなことなのかはっきりしない。また、財務的に見ても、両社の差はそれほど隔絶したものではないようであり、敢えてこの二社の間で成功・失敗の白黒をはっきりさせようというのはやや無理があると考えられる。

 また、一汽と東風の競争といっても、いわゆる先進資本主義国における市場競争とは異なる面があるのは当然であるが、この点が本論文では必ずしも明示できていないきらいがある。制度面での中国自動車産業の特殊性については十分な分析があるが、中国企業間の競争行動と競争力概念については、認識はされているものの、必ずしも中国の特殊性を反映した体系的な評価枠組が用意されているとはいいにくい。要するに、中国企業の競争パフォーマンスの静態的な比較を行う枠組が必ずしも体系化できていない中で、一汽と東風の能力の比較がやや印象論的に行われているという印象があり、この結果、「一汽優位」という結論に対して説得力が必ずしも十分でない。

 第二に、本論文では、生産システムや開発システムに関しては詳細な実証データが用意されているが、販売・マーケティング、あるいは経営上層部の意思決定プロセスといった面では実証分析がやや足りない。また、中国国有企業の場合、政府主導が強力であるが、経営層の意思決定と政府の影響がはっきり区分されていない傾向が見られる。特に、対政府交渉力については、論文のなかでも言及されているものの、もう少し突っ込んだ分析が欲しい。

 第三に、企業の能力構築に関するダイナミックな分析フレームワークには力を入れている反面、その前提となる、中国自動車産業における基本的な仕組や諸慣行に対する説明が必ずしも十分ではない。つまり、動態的な分析、すなわちルーチンの変化過程に関する分析にはエネルギーを割いており、この面では理論的枠組と実証データの整合性があるものの、中国自動車産業のルーチンそのものに関するもっと常識的かつ静態的な分析はやや不足気味であり、分析ツールも十分には用意されていない。例えば、価格競争が原則として存在しない中国企業間の寡占競争において、コスト低減、品質改善、リーン生産方式導入といったことはそもそも何を意味するのか、根本的なところの説明が意外に手薄との印象がある。要するに、中国自動車企業の現状に関しては、製品開発など、資料価値の高い実証データを提示しているものの、これを分析する静態的比較分析の枠組が十分に用意されておらず、動態分析の部分に比べるとややバランスが悪い。

 第四に、特に東風の場合、リーン生産導入などの施策が雇用確保という目的とコンフリクトを起こす可能性が示唆されているが、詳しい分析がやや足りない。一汽はこの問題を克服できているのか、出来ているとすればどうしてか、等々、雇用問題に関するもっと突っ込んだ分析が欲しい。

 第五に、比較を行う際の分析単位(unit of analysis)のレベルの違いが十分に整理されていない傾向がある。例えば、製品多様化への対応能力といっても、企業買収によるフルライン化(全社戦略レベルでの能力)と、フレキシブルな生産の能力(工場レベルの能力)、あるいは効率的な製品開発の能力(個別プロジェクトレベルの能力)などではレベルが異なる。トヨタ方式の導入にしても、単一の新工場(例えば一汽のトランスミッション工場)に導入するのと、既存工場も含めて全社一斉に導入するのでは、必要とされる能力が異なるだろう。製品開発における「まとめ能力」といっても、個別製品プロジェクトレベルでの統合能力と、製品ラインナップのレベルでの統合能力とではやや意味が異なる。こうした分析単位のレベルの違いを明示的に区別した能力分析に、必ずしもなっていない傾向がみられる。

 また、これは問題点ではなく今後の課題だが、本論文は基本的に、商用車を中心に国内的な範囲にテーマが限定されている。本論文の第7章でも触れているように、今後は乗用車まで対象を拡大し、外資との関係など国際的な動態を掘り下げて分析すれば、さらに有意義な議論が展開できよう。

 以上のような問題点を残すとはいえ、本論文は、それらを勘案した上でもなお、論文提出者の独立した研究者としての資格と能力を確認するに十分な内容を有していると考えられる。審査委員会は全員一致で、本論文を博士(経済学)の学位請求論文としての合格水準に達し、同学位授与に値するものと判定した。

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